プロローグ・始まりの変化は恋の芽生えから。
閑静な住宅街、どこにでもあるような普通の一般住宅の隣り合わせ。
私は宮森家に生を受け、ひまりと名付けられたのが十九年前、そして同じ年に隣の赤木家に誕生した陽と言う名の男の子。
近いようでいて、ほんとはすごく遠い。
気づかなければ、苦しむこともなかったのに。
目で追わずにはいられない、声が聴きたい、笑った顔が見たい。要求が増えていく度に、その甘い余韻を与えられるのは、自分じゃないことに、何度打ちのめされても。
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思い返せば私はいつも片想いで終了だったような気がする。中には、どうして良いと思ったのか、思い返してみても、分からないこともある。
幼稚園の頃のつかさ君も、小学校の幸一君も、中学校の安岡君も。
「ブス!お前なんか近寄るな!」「うわ!ひまり菌が移る!きもー!」など、他の男子と組んで散々な罵りを受けても男性恐怖症にならなかったのは偏に隣の家の赤木陽君のおかげかもしれなかった。
だが、陽君だって最初から優しかったわけじゃない。それは辛辣に遠ざけられていたのだから。
そのせいか、ある時まで陽君には美しいと思う反面、恐ろしいと苦手意識を持ってもいた。
整った人形のような目鼻立ちの男の子には、口をきく前から嫌われるらしい。私のジンクスは、いつだって裏切らない。こちらが、苦手意識を持つ一瞬前に、嫌われているのだから奇跡だろう。
陶器のような整った目鼻立ちの纏う空気と、あくまで平凡で地味などことなく田舎テイストな私とでは、見えない世界の壁があるらしい。
ボブヘアの髪は細くて茶色、癖があるせいで、水分を含むとよくカールする。瞳は普通に茶色で輝きもしない。背丈は159センチ。動きやすいスニーカーが固定装備になりつつある。
自分では認めたくないが、面食いらしい私はここまで冷遇されれば諦観することもできるというもの。
これは少女マンガを引きずった後遺症のようなもので、恋でもなんでもないと。
実際、その通りだった。頭を振れば忘れてしまえるくらいだったから。
お隣の家の陽君は何かもが、理想だった。一目見た瞬間、老若男女問わずその心を射止めてしまうような、神の愛されたような美貌。一度、心を許せば、優しいことも。
彼は、幼いころから栗色の色素の薄いフワフワな髪をしていて、瞳も琥珀のように透き通って美しかった。成長した今も、整った容姿のなかで抜きんでて綺麗な瞳だった。
陽君と私は親同士の仲の良さから、いわゆる幼馴染と言える関係だった。
小さい頃は親同士、仲が良い事もあって家に来るときには私と遊んでくれていた。ただし、仲が良好になってからだが。転べば支えて埃を払い、泣けばおろおろと頬を濡らす涙を拭いでくれた。出会いがしらは、確かに良いものではなかったけれど、嬉しかった。
「大丈夫だから!僕が守るから!」と言ってくれた小さかった男の子も成長するにつれ、一線を引くようになったし、深く互いを知るような関係ではなくなっていった。それでも、元気がなければ心配して声をかけてくれたし、ばったり会えば近況を報告しあったし、親同士の仲のおかげで家にも遊びに来ることもあった。
人形然とした讃嘆たる美貌の男性からはまともに挨拶すらしてもらえなかった私の人生の中では、唯一の人なのだ。
その容姿では、やはり女性によくモテた。縦横無尽に女を渡り歩くタイプではないにせよ、いつでも隣に愛らしい容姿の女の子がはにかみながら寄り添っていた。小、中、高とそれぞれ違うお相手だったけど。
いつでも、会えば手を上げて声を掛けてくれる陽君に、励まされていたし、どこかで憧れてもいた。
挨拶をしても冷たい侮蔑的な眼差しだけを受けてくれば、誰だってほろりとするはずだ。
とは言っても、だからといって陽君を特別好きだったわけではなかったはずだった。まあ、少しは気になるくらいで。
現に、つかさ君だの幸一君だの安岡君だのと虚しく散った淡い憧れの数々が乱立するはずもない。
ここまで言っておいて、宣言したいが私は惚れっぽいわけでも飽きっぽいわけでもない。
故に、私は高校に入ってから憧れだ恋だのですら生まれなかったし、大学に入ってからも特に花咲くこともない。
唯一、変わった点と言えば、親友ができたことだ。これは私としては最も喜ばしいことだった。
穏やかで清楚で、ふんわりとした彼女は入学当日に遅刻しそうになって焦って転んだ私に手を差し伸べてくれたところから縁が深まった。
美影沙希と名乗った彼女と仲良くなるのに数日も掛からなかった。私は、彼女を沙希ちゃんと呼びバイトが終わりや放課後、遊ぶようになった。
穏やかで清楚だけではない彼女の魅力は、何と言っても優しさや打算のない真っ直ぐさ、そして明るい笑顔。そして、とても愛らしくて美しい容姿の女の子。
目鼻立ちがくっきりして長いまつ毛に縁取られた瞳は黒真珠のように輝いて、それでいて髪の毛も黒くありながら光りを浴びて琥珀に輝く長い髪。
私は彼女が大好きになったし、彼女も私を見かけるとすぐに寄ってきて声を掛けてくれたし、最初は遠慮がちだった遊びへの誘いも彼女のほうからもしてくれるようになっていった。
しばらくして、彼女は自らの家柄の話を聞かせてくれた。
彼女の家は、美影財閥グループとして有名な日本の大企業グループの一つだという。
つまり彼女は美影財閥のご令嬢で、生粋のお嬢様で、そのことを知った人の中には利用しようと近づいてきたり、はたまた腫物を扱うようによそよそしく接するようになったりと気苦労が絶えなかったことが要因でそのことを隠していたと言うのだ。
でも、彼女がご令嬢だとか、そんなことは割とどうでもよくて、私が一つだけ気にしたと言えば、私と遊ぶことによって親御さんから嫌な顔をされていないかということだった。
そう告げると彼女は、懸命に首を横に振って全然そんなことはないと言った。そして翳る表情で、今まで通り接してくれるかと問うてきたから。
「むしろ、普段通りに接するなと言われても無理だよ。」と答えた。
ふわりと笑った彼女の頬がほっとしたのかピンク色に帯びていたのを何故か嬉しく思った。
多分、そうやって後ろの親を見られて裏切りを受けてきた彼女にとって、明かすことは大変な勇気がいったのだろう。私はそうしてまで告げてくれて嬉しかったし、信頼を裏切りたくないとも思った。
そうして私たちは唯一無二の友達になっていった。
ある日、彼女が私の家に遊びに来た時だった。
何やら、沙希の電話に出席が必要な会食を開くことになって、急遽車を迎えに寄越すという連絡があった。外の空気を吸いたいと顔色を悪くした沙希を連れて玄関先で車を待ちがてら立ち話していたときだ。
私の目線の先に、陽君が歩いてくるのが見えた。
どの道、彼が目線を上げれば私たちに気づいて声を掛けてきただろう。だから悔やむことじゃないと分かっている。だけど、心の片隅であの時あそこにいなければ、ほんの少し陽君が来るが遅ければ、車が来ていたら、私が陽君を好きにならなければ・・・そう考えてしまう。
彼は、彼女に恋をした。
その瞬間の彼の瞳に、それまで見たことのない煌めきを見た。その時まで私は、彼を優しいところのある美男子だと思う程度だった。
けれど、それは間違いだと気づいた瞬間でもあったのだ。
胸の奥深くで、鋭く切り裂かれるような、息もできないような苦しみが襲った。
今まで、知るよしもないその激しい心の動揺を、誰にも気取られてはならないと精一杯の愛想笑いを浮かべて仮面を被り込んだ。それはほんの一瞬の出来事であったはずなのに、私の胸の奥深くで延々とこだましている。
私は、彼を好きだったのだ。憧れなどではなかったのだ。
彼らを引き合わせたのは、誰の悪戯だったのだろう。
私は、彼の運命の筋書にはなんの色も残せない――そういう、運命でしかないのだと、突きつけられたのだ。
ずっと彼を好きだったのだ。つかさ君も、幸一君も、安岡君も、どことなく陽君の影を探していたのだと。急速に解けていく。
「はじめまして。」と愛らしい声で言う彼女に彼は優しく目を細めながら「はじめまして。」と言った。
そして私は流れ的に互いを紹介する仲人になった。
「陽君、こちらは私の同じ大学の親友で、美影沙希ちゃん。」
そう言うと、陽君の口元で『沙希ちゃん・・・』と動くのを見た。
「沙希ちゃん、こちらは私の隣人で、赤木陽君。私たちと同い年よ。」
「よろしくお願いします。赤木さん。」
「よろしく。陽で良いよ。」
「え、いいえ、そんな。まだ知り合ったばかりですし、赤木さんと呼ばせてください。」
「いいよ。仲良くなったら名前で呼んで。」
優しく微笑む彼を直視できなかったが、沙希ちゃんの表情は特に変わった様子はなかった。
私は密かにガッツポーズを取っていた。(勿論、心の中で)
確かな実績などないけれど、私は彼を名前で呼んでいる。穿った思考が心を淀ませるようだった。
そんな感情に鳥肌が立って、鼻の奥がツンとした。
ダメだ。私は、そんな風に心優しい親友と密かに張り合うようなそんな女になんかなりたくない。そうだ、今私は自分の気持ちに気づいて動揺しているだけ。ちゃんと、醜い感情なんか押し込めてみせる。
沙希ちゃんの迎えの車が来るまでの間、私は何を喋っていたのか分からない。
だた、ふふふと笑う沙希ちゃんの顔と、その愛らしい顔を見つめる陽君の横顔だけが脳裏に残っている。
車に乗り込み去って行く沙希ちゃんを陽君ともども見送り、その影が消えると待っていましたのごとく陽君は話しかけてくる。
「お前にも友達いたんだな!」心底驚愕したというような表情を浮かべて捲し立てている。
「失礼にも程があるわ。今まで、心を許せるような子に出会わなかっただけで、ちらほらいたわよ。」
「それじゃ、彼女には心を許せるってことだな。」
ああ、今彼の顔を見て居たくない。なのに、さよならもしたくない。
どうか、強い風でも吹いて私の髪が目隠しになってくれればいいのに。
「そういうこと。本当に素敵で可愛くて優しくて、自慢の友達よ。」
そうだろうな、あんなに可愛い子見たことがないと目線を下に向けて何かを浮かべながら感嘆とした声を出す彼に私は足が震えるような心地になった。そんなことは初めてだった。
「あー!好きになっちゃったんでしょー!」
冗談っぽく言ってしまうのは私の悪癖だろうか。友人へ向けてしまうかもしれない嫉妬を切り裂いてしまいたくて、とどめが欲しいのか。
ふわっと整った顔立ちに赤みが差したのを見て、またツンとした。
「な、そんなわけ・・・!・・・・・・もっと知りたいと思った。こんなのは、初めてだ・・・」
はああと大きなため息を吐きながら、しゃがんでいく彼を目で追いながら、私は覚悟を迫られていた。
「今まで、お前に言ったことはないけど、歴代の彼女みんな、俺の顔だけで好きになっててさ、結局飽きたとか、思ったような人じゃなかったとかで振られて来たんだよ。でもあの子、別に俺の事見ても色目を使うでもなくて・・・なんというか、こう、いいなってさ。」
ここまで喋る彼を久しぶりに見たのは、悲しいかな私の友人のおかげだった。
「ま、色目を使わないのはお前もか。というか、お前の場合はどこか引いてるっていうか、怯えてるんだよな。」
「怯えてる?」
「声をかけてもいいのか、喋っても良いのか、そう一々顔色見てくるんだよ、気づいてないの?」
知らなかった。
「・・・だとしたら、陽君に対して怯えてるわけじゃないの。久しぶりに顔を見れば嬉しいし。」
「ふーん?そうなの?」と言いながら、心ここにあらずの間の抜けた返事が返ってくる。
妙な洞察を披露された挙句に無関心を示されたくなくて、私は急いで言葉を継いだ。
「まあ、どうでもいいか。それで、そうやってしゃがんでるってことは、私に言いたいことがあるんじゃないの?」
「あるような、ないような・・・。」
「何それ。」
「もし、にっちもさっちもいかなくなったらお前に言うよ。その時はよろしく。」
私は、わざとらしく言った。
「まあ!虫がよろしいわね!今までろくに会話もしていないご近所さんに、何か御用がありまして?」
そして彼もわざとらしく、私の近況を聞いてきたり、自分の近況を教えてきたりと打算丸見えの会話を持ちかけてきた。私はそれを知っていて、ノリを合わせて返していた。正直、息が詰まりそうだった。
だが、そうやって久しぶりに彼と会話して、見たことのない照れた表情を見ていたら、私の覚悟が頭を出した。
もし、それで私の友人たちが幸せになるなら、ピエロにでもなんにでもなってやろう。
彼を見送ったあと、あれほど望んだ風はやっと吹いた。
私――宮森ひまりは自らの片想いをそっと押しやった。