光のこども闇のこども 1
荘厳な音声の響く聖堂に、厳粛な面持ちをした人々が集う。
金の柱と深紅の飾り縄にかこわれた剥き出しの地面。その中央には、鋭く深い亀裂が横たわる。深遠の淵に立つ皇太子ゼーニッツの表情は、虚心坦懐に歴史を想う人間のもの。
差し出された聖具の杯に、水瓶から水を汲み、皇太子ゼーニッツは粛々と亀裂へ注いだ。奇跡の再現は、《光矢ノ乙女》の祈りによって〈半世界〉が受けた恩恵への感謝を表す。また、祈り祈られる約束を確認する儀式でもある。
太古、戦によって穿たれた亀裂は地の底の業火へと通じていたという。《闇ノ翼》の棲み処ではなく、《一極》が用意した業罰の地だ。だが今その地底への行き方は、悪行を尽くして死を経る道に限られている。
《光矢ノ乙女》の犠牲のあとに起きた洪水が引くと、〈半世界〉の各地に刻まれた亀裂は《一極》の御力によって塞がれていた。亀裂を覗くと空があった。そこには銀色の〈鏡〉が嵌まっていた。覗き込めばその者の真の心が映る〈鏡〉だ。
〈嘆きの鏡〉――いつしかそう名付けられた鏡は、《一極》の意志を知るよすがとして信仰の対象となった。
少なくとも洪水が強制的に戦を終わらせたその一瞬、彼らの心は晴れていた。
「ほんの一瞬だけのことだ」
端然と亀裂を見下ろし、皇太子ゼーニッツは誰にも聞かれぬ音量で呟いた。
この〈半世界〉に、争いは今日も途絶えていない。
◇◇◇
ルクス屋敷の前に馬車の停まる音がした。
シーノンは箒を片手に玄関を開けて、唖然呆然と驚いた。造りのよい馬車から降りてきたのは、夕日色の赤髪を見紛えようもないゼーニッツ皇太子その人だった。供の者にサーベルを預けて、彼は単身、アプローチを歩いてくる。
「勇敢な乙女にまた会えましたね」
海色の瞳の底から笑み、丁寧にシーノンの手を取った。
淑女にするような礼を取られて言葉をなくしているシーノンへ、長方形をした銀細工の小箱が差し出される。皇太子は自ら蓋をとり、中身を見せた。品がよくて細工もよい、つるの曲線の優美な眼鏡である。
「どうぞ受け取ってください。街のお土産です」
「そんな……」
「リュクルス・ルクス氏は在宅ですか?」
「あ、はい。えっ、……リュクルス様をご訪問でいらせられますのでございますですか?」
「ええ、でもリュクルス氏に会うだけならば離宮に彼を招聘します。あなたにこうして称賛のしるしを届けたかった」
リュクルスに用というならシーノンがここで押し問答している訳にはいかなかった。そこまでが計算の内だったかどうかは不明だが、ゼーニッツ皇太子はまんまと両手を空にして応接間へ通される。
「僕にお話とおっしゃいますのは」
応対するリュクルスは、お忍びに近い格好での皇太子の訪問に、緊張というよりもむしろ警戒を覚えている様子だった。一通りの挨拶のあとで、不敬な催促とならない程度に充分な間をおき、神妙に問うた。
「昨日、私の友人のコリントから、シーノンの仕える主人がかのルクス心療研究所のリュクルス・ルクス氏と聞いた。以前から会ってみたい人物だった」
なぜシーノンの名前が親しげに出てくるのかと、怪訝そうな顔をリュクルスは両者に振り向けた。だが帝国皇太子を相手にしては、話の腰を折るわけにはいかない。
「現在、君の作る仮面を待っている患者はどのくらい?」
「《光ノ祈リノ大祭》が終わりましたから、月末までに二人分の予約が入っているのみですが……失礼ですが、何故それをお訊ねになるのでしょうか」
ゼーニッツ皇太子は客間の長椅子に前掛かりに座している。膝のあいだに手を組んで、リュクルスを真正面に見据えた。
「私に仮面を作ってほしい」
卓に茶碗を並べていたシーノンは思わずガタ、と膝をぶつけながら立ち上がってしまった。
「しかし、無理な割り込みになってしまうようなら、必要がないという〈一極〉の思し召しだと諦めることにしようと決めてきた、というわけで」
つまり皇太子の用件は仮面療法の依頼だ。シーノンは診療室での面談時と同じように部屋から急いで退出しようとした。
「かまわないよ」
視線をのばしてゼーニッツ皇太子がひきとめる。戸口を振り返ったリュクルスは眉間を険しくしていたが、皇太子の気遣いを無下にするのは問題がある。横顔で頷いた主人に従い、シーノンは客間の扉をきっちりと閉め直し、番人のようにそこへ立つ。
「君の患者になりにきた。そう受け取ってもらっていい」
全身に覇気があり、顔つきにも病んだ陰など微塵も窺えない皇太子が?
容姿と才気に恵まれ、温厚な性格でも知られる。国民の不平や苦痛に気を配り、若くしていくつもの事業を企画、成功させてきている。次代の皇帝として国民からの期待も高い人物だ。とても悩みがあるとは思えない。
「依頼したいのは王者の仮面だ」
「王者の仮面?」
「ああ」
ゼーニッツ皇太子は組んだ指を顎の下に持っていき、込みいった話を語りつくす態勢をとってから、つづけた。
「知ってのことと思うが、我がペンツェラルゼ帝国は近年ますます隣国ラファタルとの緊張関係をこじらせつつある。国境における挑発行為に怒りを募らせる国民感情が飽和状態にあり、あちらか、こちら、どちらかが偶発的にでも匙加減を間違えれば、戦はいつ始まってもおかしくない状態だ」
「ちょっと待ってください。仮面療法は外交問題を解決するためのものではありません。もしも殿下のお悩みがそれに深く関係するものだとしても、これが患者と療法師の面談なのであれば、殿下の個人的な視点からお話しくださらなければなりません」
ゼーニッツ皇太子は素直にそして興味深そうに頷いた。
「なるほど、そうだね」
皇太子の手の指には、数えきれないたこができていた。剣だこか、ペンだこか、それとも両方か。懸命な性格を思わせるその指の節に、俯いた額を当てた。
「……光と闇、ペンツェラルゼとラファタル、二派の争いは実は宮廷内にも起きていてね。皇后、つまり私の実の母だが、彼女が次期皇帝に望んでいるのは私ではなく、第二皇子ファニッツなんだ。私はどうしたことか幼年から母に嫌われていて」
身の上を恥じる苦笑を浮かべ、ゼーニッツ皇太子は小さく首を振る。
「母はジレアン公国から嫁いだが、ジレアン公国は元はラファタル陣営にいたのが、ペンツェラルゼの繁栄と版図拡大を見て寝返った国だ。大公家は代々《闇ノ翼》教会の信者だ。母はペンツェラルゼに嫁ぐとき改宗したが、本心では光の教義があまり好きではないらしい」
光はどこまでも正義と正道を説く。
闇はつきつめて現実との折り合いを説く。
その価値観は対立し、信者のあいだにつねに相手への不審と憎悪を育てている。
「見えぬところで皇后は様々に工作を進めている。どうしてもファニッツを立てて、彼にペンツェラルゼ内の《闇ノ翼》教会を援助させたいようだ。排除や迫害の防止策は私も行なってきたが、まだ足りない、と彼女は言う。皇后は宮廷で力を持っている。ジレアン公国とともにペンツェラルゼ帝国圏に参加した小国群を取りまとめる形でだ。私が離宮を本拠地にしているのは、悪意と策謀の気配に煩わされない静穏を求めてのことなんだ」
リュクルスは無言。シーノンも目を伏せて聞いている。軽々しく同情することすらもためらわれる。重たい話だった。
「奢りと取ってほしくはないが、皇帝は全くお元気だし、私が暗殺でもされない限り、ファニッツの繰り上げは現実的ではない。しかし皇后の思いが、ラファタルから利用されてしまうようなことがあれば、また話は違ってくる。実際、よからぬ噂がないわけではない」
ゼーニッツ皇太子の声音がやや変わる。
「戦に備えて、ペンツェラルゼの内側を磐石にしておく必要がある。覚悟を決めて母上と対峙しなければならないということだよ。これまで私が、意識的にも無意識的にも避けてきたことだ。だが、私はペンツェラルゼ帝国民のために、自分の役割を引き受けなければならない。役割、すなわちそれは仮面だろう。古代演劇では役者は仮面をつけて役を演じたとされる。お父上ルルス・ルクス博士はこれを参考にして仮面心理学と名付けたのだったね」
興味本位でリュクルスの元を訪れたわけではないのだ。ときに面白みのない優等生などと陰口をたたかれる人柄どおり、事前によく勉強している。
「殿下は、皇后陛下を罪に問われるのですか?」
「いいや、そのつもりはない。仮面のせいにして罪悪感を消そうとしているのじゃないか、という懸念を持つのも当然だが、そういう考えはないよ。皇后もファニッツも、陰謀向きの能力を持った人たちではないので、実力行使までは不必要だ。私の前にある壁は、彼らに政治の表舞台から退いてもらうことへの心理的な抵抗感だけだ。嫌われていても、悲しませたくはない相手なのでね」
リュクルスは質問の答えを聞いても、頷くことを忘れたようにじっとゼーニッツ皇太子に視線を注いでいる。
「やはり難しい相談だろうか? 無理なら無理で、この依頼はなかったことにするよ。自由に答えてくれていい」
「……いえ。大事業を前に自信を持ちたいという方は多くいらっしゃいます。そういう意味では、不可能ということはありません」
ゼーニッツ皇太子は期待感を込めて身を乗りだした。
「では」
リュクルスはゼーニッツ皇太子の顔を微動だにせず見つめて、まるで孔を穿たんばかりだ。面談はとても集中力がいる時間だとリュクルスが説明してくれたことがある。リュクルスの視線はゼーニッツ王太子の心の内側へと分け入っているのだ。
「お断りします」
静かに、だが毅然とリュクルスが言った。
シーノンは泰然としたゼーニッツ皇太子の代わりに目を見開いていた。
対等な政談相手にするように頷いてそれを受け入れたゼーニッツ皇太子が、しかし消しがたい未練に首をかしげる。
「できれば理由を聞きたいが」
「……僕の信条的なことです。殿下のお力になれないのは心から残念に思います。しかし、僕は――」
シーノンにはリュクルスの言いかけている事がわかった。
彼は、《光ノ翼》と《闇ノ翼》の争い、しいてはペンツェラルゼとラファタルの対立その全てを疎んじているために、《光ノ翼》《闇ノ翼》そのどちらにも与する事をしたくないのだ。いっさい関わりたくない、というのが普段からの彼の態度だからだ。
でも、彼のその信条は、少しでも言葉選びを間違えれば著しい誤解を受けかねないものでもある。
「聞かないでおこうか。女々しく思われるのはいやだ」
リュクルスの逡巡を眺め、ゼーニッツ皇太子が先に確認の意志を仕舞った。ゼーニッツ皇太子はシーノンのほうを見てそう言い、安心させるように笑む。それから声に出さずに仕草で何かを伝えてくる。
〈眼鏡、かけてみて〉
シーノンは慌ててエプロンから銀細工の小箱を出し、上品な眼鏡を慎重に手に取り、予備のお古とかけかえる。
立ち上がったゼーニッツ皇太子が、本当の用はこちらであったかのように嬉しげに、シーノンを左右から覗く。
地味メガネ家政婦は雲上人からの至近の注目に赤面した。
「リュクルス君、仮面が無理なら、シーノンを私にもらえないか」
「!」
(っ!!!)
ゼーニッツ皇太子ごしに目に入ったリュクルスの反応が、あまりにも彼らしくない厳しい形相だったので、二度シーノンは身体を強ばらせた。
「いや……、大祭の日に見た彼女の勇気を思えば私も力が湧いてくる。いわばそれも一つの療法なのではないかと思ったのだが、そうか、シーノンは君にとっても大事なものなんだな」
ゼーニッツ皇太子は柔らかな海色の瞳を揺らしてシーノンに注ぎ、レンズのあいだをちょんと触ると、表情に余韻を残しつつ身を翻した。
「お騒がせしたね。……帝都でいざ不眠症や何かが襲ってきたら、その時は気苦労の治療に限って君を頼れるかな」
「それは勿論。駆けつけさせていただきます」
椅子から立ったリュクルスが深く礼をする。
「ありがとう。約束だ」
ゼーニッツ皇太子はやってきたときと同様、身軽な足取りで馬車に乗り込んだ。
紺塗りの馬車は街へつづく未舗装の道を帰っていく。
それを眺めていたリュクルスが振り返ったとき、シーノンは彼の瞳に強い戸惑いを見つける。
「シーノン、君は昨日、街で何をしたの」