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失くしたつばさ 3

 ちょうど街へ入っていこうとする祭りの山車の後に着いたら、今年選ばれた《光矢ノ乙女》役の少女の緊張の表情がよく見えた。花々に飾られた華やかな舞台の上で、純白の翼を生やした白装束の乙女は、集まってくる人々の喝采に答えて手を振りつづける。

 聖峰オーベに眠る《光矢ノ乙女》――。

 《光ノ祈リノ大祭》は、太古の時代にこの〈半世界〉を祈りで満たした《光矢ノ乙女》の犠牲を貴び、悼むために制定された、礼拝の一日だ。

 人間が地上の権利を譲られる前の時代、半世界は《光ノ翼》と《闇ノ翼》という二つの種族が支配する場所だった。《光ノ翼》と《闇ノ翼》は互いに半世界の覇権をかけて終わらぬ争いをつづけていた。それは現在を生きる人間たちと変わらない。戦争が、戦いあう者たちの肉体や心、のみならず、恵み深い自然にさえ深い傷を残すことも現在の様相と変わらない。度重なる大規模な戦に大地は焼かれ、裂かれ、誰にも癒すすべのない疵跡がつけられた。今に残るむごたらしい巨大な亀裂の数々は、人間には計り知れぬ力をもつ彼ら上位種族たちの戦いの熾烈さを伝えている。

 あるとき《光ノ翼》の一人の乙女が、オーベ山頂の湖に身を浸し、自らを供物として、《一極》に祈りを捧げた。永久につづくであろう無益な戦いと、不毛に傷つけ傷つけられる苦痛から、我々と大地とを救い給えと。

 焦がれる祈りは乙女の魂を灼き、光の矢となって天へ昇った。それと同時にオーベ山頂の湖からあふれだした清らかな水の奔流が、半世界のすみずみまでを覆い、まさに戦いの最中であった者たちの武器も闘志も足元も、すべてを押し流した、という。

 乙女の犠牲と、ながの沈黙を破って祈りを聞き入れた《一極》の意志に、二つの種族は畏敬をもって震えた。

 そうして二つの種族はついに、争いを放棄する決意へと至ったのである。

「そこをどけ、偽善者ども。今日が何の日だからと言って、大きい顔はさせないぞ!」

 《光矢ノ乙女》の山車がひときわ大きな歓声のなか人波に揉まれながらゆっくりと練り歩く広場。その片隅で、漆黒の頭巾を被った男を囲んで口論が起きている。

「何を! 汚れた翼の手先が、今日と言わず、影に棲む魂の穢れと罪とに恥じ入って永遠にすっこんでいろ!」

「《闇ノ翼》の仲間は聖地ベルーナスから、ペンツェラルゼ帝国から出ていけ!」

「そうだ出ていけ!」

 怒鳴りあいはちょっとした見世物となっていた。

 漆黒の頭巾とローブをまとった中年の男は、《闇ノ翼》教会の僧である。男の前には、男とよく似た格好でありながら対照的な白色を纏った三人の僧が行く手を阻んでいる。こちらは《光ノ翼》教会の者たちだ。

「《翼人時代》の戦争は終わったわけではないのです。人に引き継がれて、よりいっそう不毛ないがみあいと痛みと悲しみを膨らませながら続いています」

 コリントが、祝祭の日にそれを見せつけられることにがっかりするように言う。

 同じ《一極》を仰ぎながら二つに別れた教会の、対立の歴史もまた、古い。

 光と闇のそれぞれの種族を《一極》の代理人と崇める二つの教会は、〈半世界〉の大陸の各地において信者の獲得を競い、相手の邪教性を詰りあっている。

 聖峰オーベを擁するペンツェラルゼ帝国では代々の皇帝が《光ノ翼》を信仰対象にしているとされ、《光ノ翼》教会が国内全体で優位を得ている。中でもベルーナスにおいて差は歴然である。この街の《闇ノ翼》教会は、日陰の扱いを受けながら、僅かな移民の中の信徒を相手に、逆境に踏みとどまっているのだった。

「これは不味いかも知れません。人が多すぎて収まりがつかない」

 《闇ノ翼》教会の中年僧は、同僚に袖を引かれながらも不機嫌のままに喧嘩を売りつづけていた。周りは圧倒的多数が《光ノ翼》教会の信徒たちだ。

「お前ら《闇ノ翼》は全員ラファタルの間諜なんだろう! おい皆、こいつらは氷鉄姫サランファータの刺客だ! 俺は前から知ってんだ。今のうちにぶちのめしちまったほうがいいんだよ!」

「俺も見たことがあるぜ、こいつらが夜中にコソコソ動き回ってるのをな!」

 ぶつけられた野次に中年僧が激昂した。

「神聖な祭儀に、言いがかりを……ッ」

 一触即発の空気だ。とりまく野次馬の輪が興奮と怒りに膨張して見えた。物騒な言葉を吐いた街の男が、中年僧の胸ぐらを掴み上げる。

「だめですよ、寄ってたかって暴力は……っ」

「シーノン?!」

 考えるよりも先にシーノンは密度の高い人垣を掻き分けていた。棒のような身体でするすると道を切り開く。最後は押し出されるかたちで喧嘩の渦中へ飛び出した。

「暴力はやめてください!」

 体当たりして二人の間に割って入る。

「何だテメエ!」

「女も仲間だな?!」

「こいつも工作員だ! 間諜だ!」

 群集が騒然となる。怒号に囲まれてシーノンの足がすくんだ。ピシっという衝撃があり、右の視界が曇った。誰かが投げた小石が眼鏡にぶつかり、罅が入ったのだ。むしろそれがシーノンの意志を確固たるものとした。

 シーノンは顔をキッと上げた。

「この女ッ」

 舐めやがって。体躯のがっちりした街の男が顔色を紅潮させる。肘から指まで毛むくじゃらな腕がシーノンの首根へと伸びる。捕まる――っ


「待てよ、君たち」


 ――冷静な介入者の声が響き渡った。


「熱心な人だかりができているからよほど楽しい出し物かと思ったら、がっかりだな」


 憤怒した男の背後に影が立つ。シーノンの首を絞めかかった男の手から、麻痺したように力が抜けた。シーノンのつま先に男はひれ伏す。いや違う。二の腕を簡単にひねり上げられて苦痛の呻きとともに地面に崩れていた。

「こ、皇太子殿下……」

 誰かが愕然と声に出した。

「ゼーニッツ皇太子殿下――!」

 鮮烈に燃える赤色の髪――海色の瞳――理知的なその面差し――存在するだけで空気を一変させる威厳。

 現れるはずのない場所に現れたとしても、彼は間違いなくペンツェラルゼ帝国の世継ぎ、皇太子ゼーニッツ・アニカ・ペンツェラルゼその人だった。

 黒鞘のサーベルを帯剣した腰に手をあて、ゼーニッツ皇太子は無力化した暴漢の横顔を覗き込んだ。

「それも、いたいけなご婦人に大男が手を上げるような、この世で最も軽蔑されるべき行為の現場とはね」

 恐れ多い介入者の登場に男は腰を抜かして、立てない。

 紅の髪をさらりと左右に振ってゼーニッツ皇太子は、シーノンに向き直る。 

「あなたは最も尊敬されるべきことをしましたね。勇敢な行為に、惜しみない敬意を捧げます。……こんなに若くて美しいお嬢さんじゃないか」

 手を取りながら賛辞を口にする。

 シーノンは丁寧に包まれた手をとっさに引っ込めたい衝動にかられた。お褒めをいただくようなことはしていない。大勢の前で恥ずかしかった。

 群衆を振り返り、皇太子は諭すように言った。

「君たちは恥とともに誇りというものが何かを知れ」

 厳しくも優しい口調であった。その声は誠実さと聡明ぶりで慕われる皇太子の人柄をよくあらわしていた。控えていた近衛兵たちが散開し、人々を整理誘導して祭り本来の活気ある広場に帰らせていく。

 ゼーニッツ皇太子は口論を売った《闇ノ翼》の僧に向かっても公平に苦言を与えた。

「鬱屈はあると思うが、このようなぶつけかたは上策とは言えない。君たちが導く、少数派の困難にある人々のことを考えればなおさらにだ」

「……」

 中年僧は忌々しげに目をそらした。

「国家として彼らへの保護が足りない部分もある。具体的な陳情があるならば、私も聞きたいと思っている。いつでも離宮に訪ねてきてくれてかまわない。君の名前を教えてくれ」

 膝をつき頭を垂れていた同僚が、恐縮の極みから二人分の名前を答えた。

「憶えておこう」

 それから皇太子は再びシーノンを振り返った。

「身を呈して争いを止めた、あなたこそが今日の祝祭の《光矢ノ乙女》だという気がする。世を忍ぶ仮の名前を訊いても?」

 冗談めかして魅力的に笑む。

 シーノンはただただ、まごつくのみだ。


「……皇太子殿下、何故こんなところに」


「おや、コリント師じゃないか?」 

 シーノンの肩越しに視線をもたげたゼーニッツ皇太子が、親しげにその名を呼んだ。

 シーノンは驚き、背後にやってきていたコリントと目を合わせる。

 コリントは困ったような顔で立ち止まった。

「彼女はあなたの知り合いか、コリント師」

「こちらにおいでになるとは聞いていませんでしたよ、皇太子殿下。教会聖堂のほうでお役目があるとばかり」

 ゼーニッツ皇太子の問いをコリントが無視したように聞こえ、シーノンはぽかんと口を開けて固まっていた。

 帝国皇太子の言葉を無視できる人間が、帝国内にどれほどいるだろう。

「たかだか床の亀裂に水を注ぐだけの仕事で一日を潰すこともあるまい。儀式までの待ち時間に抜け出てきただけのことだよ。皇族だからって地に足をつけちゃいけないという法はないだろう。《翼》の種族だからって天か地下かに棲まねばならないという法もないと聞くしね。コリント師、私から彼女に説明をしてもいいかな」

「何を……」

 やや目を細めてコリントが、焦るような表情をみせた。

「コリント師は私が大学で短期間集中の聴講学生をしていたときの学友にして、彼がみるみるうちに最先端の薬草学を開拓してからは、帝都の防疫環境改善に共に取り組んだ同志です。セラリム草の栄養効果を発見した彼のおかげで産婦死亡率が劇的に下がった。若年ゆえの嫉妬をおそれて表には出たがらないが」

「それは皇太子殿下でしょう。一年の半分以上を離宮に引き篭もっているのは」

「声が出るようになったらお名前を聞かせてください」

 ゼーニッツ皇太子の海色の瞳がシーノンの絶句を破った。

「ほっ、あっ、シーノンです……」

 満足そうにゼーニッツ皇太子は頷いた。

 その左手が、すいと持ち上がってシーノンの眼鏡を、抜き取った。

 痛々しげに硝子の(ひび)を検分して、

「酷い目に遭いましたね――」

『蹴っ飛ばされたてやんでい。蹴っ飛ばされたてやんでい』

 足元で泥の靴跡に汚れた綿きれがひぃひぃと愚痴っている。群集にもみくちゃにされた挙句のことだろう。

「低いとこ飛んでるからですよ、ロッコ」

「ロッコ?」

 ゼーニッツ皇太子がシーノンの視線を追って足元をきょろきょろと見る。

「な、なんでもないんです」

 慌ててシーノンは両手を振った。

(こうなるから……)

 だからシーノンは、人前では裸眼になることができなかった。視えていて無視するには、ロッコは大切な相棒でありすぎるから。

『シーノン、シーノン、着いて来なさって。着いて来なさって。ヒモが、ヒモがあっちにいるでやんすよ!』

「ヒモ?」

 またシーノンは足元に気を取られて問い返す。ふわり浮き上がった綿きれの軌跡をなぞって見上げた。ロッコはばたばたと羽ばたいてシーノンの頭上を忙しなく旋回した。急かすように。

「紐?」

 怪訝そうに瞬くゼーニッツ皇太子。

『追いかけて、取り返すでっせ! 着いて来なさって!』

「ロッコ待って!」

 ぱたぱたと飛んでいってしまうロッコを追いかけて足を踏み出す。

(だめだよロッコ、またはぐれちゃうよ……!)

 引き離されていた昔の事を思い出して、足がどんどん前に出た。

 それは嫌だ。ロッコがそばにいないと。

 ロッコが離れてしまったら、またあの闇の牢獄に逆戻りだ。リュクルスのそばにシーノンがいる意味がなくなってしまう。その、資格が。

「ねえどこへ行くの、ロッコ?!」

 コリントのこともゼーニッツ皇太子のことも忘れて、シーノンは祝祭の街を埋めつくす人々の間を駆けていた。

 老若男女の群衆の間を見え隠れしながら純白の綿きれはぱたぱた飛んでいく。

『こっちでおま。こっちでおま』

 《光ノ祈リノ大祭》は、戦の時代の雪解けから意味を転じ、芽吹く生命を祝う春の祭だ。〈彩色精〉に扮した少女たちが、《光矢ノ乙女》の山車とは反対の方向から行列をなしてやってくる。結い上げた髪。七色の衣。背にはシフォンの羽根。手に手に提げた籠には離宮の温室でこの日のために育てられた花々。

 〈彩色精〉の筆の一振り一振りを模して、練り歩く少女たちは花びらを振りまく――。

 高原の日差しを透かし、点描で祝福を描くごとく花びらが舞う。

 花の雨が乱舞して降りしきる。

 瑞々しく優しい春色の雨の中をシーノンは走った。


 ――シーノン


 肘に誰かの手がかかり、シーノンは振り返る。

 そこに、風に乱れた前髪を瞳にかぶせたリュクルスが立っていた。

「リュクルス様……?」

 漆黒の髪の間から覗く透きとおった瞳がいつもよりも青い。

 はっきりとした意志を瞳に込めて、シーノンの腕を捕まえた彼が何か言いかけた。

 しかし彼は空いているほうの手で、胸を押さえた。息が上がっている。

「リュクルス様!」

「走ってるのが見えて」

 整える息の中からやっと言う。

 向きあう二人の頭上を、ロッコがぱたぱたと遊弋する。

「セデリィカ様は……?」

 周囲をどこまでも見回して、リュクルスの連れの姿が見えないことにシーノンは不思議を抱いた。そんなに遠くからリュクルスは走ってきたのかと。

「……」

「リュクルス様?」

「セデリィカはえっと、どこかな。歩きながら彼女の友達と長話になっていたから、僕は出店のほうを眺めていたところだったんだけど。……この人出では戻っても見つけられないね」

 困ったように笑ってみせた。

 それは一大事だ、とシーノンは思った。周囲は本当に押し合いへし合いの人波だ。こうしている間も、すれ違う人々に揉まれて二人の足元は近づいたり離れたりしている。はぐれたら戻れる保証もないのに、シーノンを追いかけてくるなんて、よほどのことが……。

「あの、シーノンに何か御用でしたか?」

 それを聞いてリュクルスは急に真剣な顔をした。

「違う」

 今度はシーノンが困った。

「え……と?」

 リュクルスは怖いような顔でシーノンをじっと見つめた。見たことがない、思い詰めた顔だった。シーノンは動揺して瞬きを忘れた。いつも視界を隔てている古びたブ厚い硝子のメガネを今はしていないために、彼の顔が少し違って見えるのだろうか? リュクルスはさっきみたいに何か言いかけ、しかし、ふと我に返ったように穏やかな顔を取り戻す。

「だって凄い形相で走ってたよ、シーノン。何かあったのかと思って……」

「いえ、なんでも……ないんです。お腹が空いてしまったので、……あの屋台を目がけて走っていただけなんです!」

 当てずっぽうに彼方の屋台列を指す。

「じゃあ早く行こう」

 掴んだままの肘をリュクルスが引いて歩きだす。

 強引に。

(リュクルス、様……?)

 ぶつかってくる人波から庇い、リュクルスはシーノンを自分に引き寄せた。シーノンは前を向くリュクルスの横顔をちらちらと仰ぐ。やっぱり何だか少しだけ怖いのだ。

「シーノン、眼鏡は?」

「落っことして、割ってしまったんです」

「前が見えなくて不安じゃないかな」

 首を傾げて訊いてくれるリュクルスのまなざしは、いつもの優しい彼の瞳だ。

「手をつないでいよう?」

 肘から伝ってリュクルスの手がシーノンの手に指をからめた。

 彼の冷たい手がシーノンの手のひらの熱を奪う。

 辿り着いた壷焼きシチューの出店屋台で、売り子が声を張り上げた。「美味しい美味しいミヒャイの壷焼きシチューだよ! 今日は特別、恋の成就のまじない入りだよ!」素焼きの小さな壷には、二翼の翼の絵が描かれていた。絵というより印だ。広げた翼の端を重ね合わせた意匠は、どうかすると人の手と手が触れ合ったところのようにも見えた。人間が想像する翼人の翼というものの輪郭は、人間の手に似ている。

「千個にひとつ、銀の指輪が入っていたら、恋人との仲は永遠だよ!」

 《光ノ祈リノ大祭》の聖史劇がかかる野外劇場公園で、リュクルスとシーノンは人探しのための腹ごしらえをした。リュクルスは何故かコリントのことを訊こうとしないけれど、シーノンは置き去りにしてしまった友人を気にしている。向こうもシーノンを探しているかもしれない。

 けれどリュクルスのおかしな様子も気になる。

「こんな祝祭の日まで二つの教会は仲が悪いらしい。さっき、広場に走っていく人たちがいたよ。喧嘩だ喧嘩だ、なんて言って楽しそうだった」

「……」

「どうして仲良くできないんだろうね」

 リュクルスは、《光ノ翼》教会にも《闇ノ翼》教会にも通わない。都会の街ならばそういう人間も珍しくはないが、保守的な村においては白い目で見られやすい行為だ。リュクルスが教会を嫌うのはそういった排他性に疑念を持ってのことなのだが、説明したとして理解はされにくい。

「もしかして、それで」

 今日のリュクルスの様子がおかしいのは、教会嫌いが無理に《光ノ祈リノ大祭》へ来させられているからでは?

「何?」

「……いえ、なんでもないんです」

 差し出がましい口をききそうになった。シーノンは自重する。リュクルスが分け隔てをしないから勘違いしそうになるが、シーノンはルクス屋敷の家政婦に過ぎないのだ。体調管理については幾らでも任せてもらいたいが、内面にまで踏み込むべきではない。

「ミレアンさんがいる。無事にエリックと上手くいったみたいだ」

 芝生に点々と休憩の茣蓙(ござ)を広げる人達の中に、依頼人の姿を見いだしてリュクルスが呟く。

 けれど、シーノンは彼が眺める方向になかなか村の少女を見つけられなかった。

 ミレアンが恋の成就を願っていた相手のエリックの顔は確かにあった。

 その隣に肩を並べているのはしかし――。

「あれ、ミレアンさんですか?」

「そうだよ」

 頭のてっぺんに大きなリボンを揺らし、波打つ髪を背中に垂らした――あれがミレアン?

 その少女は、引っ込み思案で目立たない村の少女ミレアンではなかった。エリックと話し込む様子にも彼女特有のおどおどとしたところがない。

 でも、よくよく見れば、けして別人のように変身してしまったわけでもない。

 ミレアンが普段は身につけないリボンの黄色が、とてもよく似合っている。ミレアンの内に隠れていた素質が引き出されている。それだけですっかり印象が変わる。

「ひまわりが好きなんだって」

 リュクルスは少女たちのために仮面をつくるとき、決まって好きな花を聞いて、おもての化粧に描き込む。

「僕は何にもしてないよ。魔法なんて使ってない」

 感嘆するシーノンの顔色を読んで、リュクルスが首を振る。

「村の女の子がさ、心療研究所の扉を叩くだけだって相当な勇気がいることだよ。うちにきたその時点でもう、彼女は一歩を踏み出して変わることができているんだ」

 それから瞳を優しく細めて、シーノンを覗いた。 

「シーノン、君の好きな花はすみれ」

 びっくりしてシーノンは目をひらく。

 シーノンがもらった仮面に大輪のすみれが咲いていたのは、春の花だからという偶然だと思っていた。

「どうして知っているんですか?」

「庭仕事する君や、食卓の花の飾り方を見てればわかるよ」

 リュクルスは当たり前のように言って笑った。

「すみれもきっと君が好きだ」

 透きとおったリュクルスの瞳がシーノンを捉えたまま離れなくなる。

 シーノンは壷から口に運んでいたシチューの匙を思わず宙に止めた。 

「リュクルス様、眼鏡がないとそんなに変ですか……」

 恥ずかしくなってそう訊いたら、リュクルスが真面目な顔で頷く。

「眼鏡はあったほうがいい。特に僕以外の人前ではね」

「お屋敷に予備があるので、帰ったらすぐお言い付けどおりにいたしますです……」

「あれ……」

 自分の手元の壷をリュクルスが怪訝そうに覗く。

 持ち上げた匙に、鈍く光る異物がのっていた。

「指輪だ」

 売り子が叫んでいた千個に一つの当たりだ。

〈指輪が入っていたら恋人との仲は永遠〉

「セデリィカ様が喜びますよ!」

 リュクルスはそれをハンカチに包んでぬぐい、シチューまみれの状態から救い出す。

「セデリィカはどうかな。指輪どころか、どんな宝石だって見飽きるほど持ってる」

「マルロー医師、そんなに隠し財産があるんですか?」

 隣家のマルローは裕福とは言えたが派手な生活をしているわけではない。セデリィカの格好だって、つねに余分な飾り立てはしていない。

 曖昧に笑い、リュクルスはシーノンに、「手を貸して」、と言った。

「ほわ」

 言われて素直に差し出した手に、銀の指輪が嵌められた。

 生まれてはじめて装飾品らしきものを飾ったその手を、まじまじと掲げて見入ったのはリュクルスだ。

 水仕事ですりむけた、奉公人の手だ。

「今だから言うけど、昔、僕はシーノンのこの手に嫉妬していたことがあるんだ。元気な働き者の手にね」

「リュクルス様……」

「でも今はなんとか、追いついたんじゃないかな」

 太陽に翳してみせた彼の手も、擦り傷の絶えない職人の手だ。

 二つの手を並べて、笑いかけてくれる顔が誇らしげだった。

 仮面作りは患者の心と同時にリュクルスの心をも救っている。病弱に生まれて、子供らしいこと、若者らしいことの殆どを諦めなければならず、生きる意味さえ見失ったような目をして生きていた彼に、自尊心を持たせてくれた。

 彼にとって、仮面作りは――。 


――リュクルス・ルクスという名の少年を守れ。お前の力でその者を守れ。その人間が、人々の心に触れ、人の紡ぐ澱のような闇を集めて、本来の力を取り戻すまで。


 過去から鳴り響くその声は、夢の中で繰り返されてシーノンを混乱へといざなう。

 闇の牢獄からの解放と引き換えにした厳命の言葉が、シーノンを時折不安にさせる。


――おまえが守っているのは世界を滅ぼす《闇ノ翼》の王の子供なの


 夜毎の襲撃者はリュクルスを不吉な存在だと決めつけた。

(そんなこと、あるはずない……)

 リュクルスが《闇ノ翼》であるわけがなかった。彼は人間としてさえ脆弱すぎる幼年期を過ごしてやっと大人に生き延びた人だ。人よりも完全な魂と器を持ち、永遠にも近い時を生きるのだという翼人とは、似ても似つかないものだ。

 すり鉢状の野外劇場では、《光矢ノ乙女》の祈りが、雷音を呼びながら続いていた。舞台の裏では音響係がさぞかし激しく銅鑼や鉄板を打ち響かせているのだろう。


〈たとえ此の身が灼き尽くされたとしても、わたくしの祈りは半世界に散り散りに飛び散って、花の咲くごと、木の枯れるごと、天へと昇り、また降って、循環するのみにございます。永遠に《一極》の御心を侵しつづけましょう〉


 乙女のささげる恫喝にも等しい祈りに、《一極》は答える。


〈その身の犠牲は忘れまい。そなたの祈りを忘れまい。そなたも我との約束を願うならば、花は腐って枯れ果てようと、木は倒されて焼かれようと、我の言葉を憶えておけ。《完全世界》の(きた)るとき、世界は滅び、世界は開かれん。翼は鍵。鍵は翼。すべての命は心して待つがよい。約束の子の到来を〉


 《一極》の予言を引き出した乙女の祈りは、半世界を停戦の水に浸して空へと呑まれた。

「誰もみんな忘れているんだ。乙女の祈りを称える祭の日でも、乙女の心に寄り添おうとする人はいない」

 虚しく呟くリュクルスの声が、物思いにとらわれたシーノンの空白に突き刺さる。

 二人の周りをぱたぱたと飛び回るロッコはお節介な無駄吠え(・・・・)をいつになく控え、おとなしかった。


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