失くしたつばさ 2
どたばった。
「痛った……!」
寝台から身体の半分がずり落ちた衝撃と、したたか打ったお尻の痛みでシーノンは夢から覚めた。
「っと、朝ですね……あれ、目の前が、む、紫色?」
顔一面を塞がれている違和感に手をやる。堅い木。なめらかな曲線と凹凸によって造形された表側。それは一晩中被って寝ていた仮面――。
「はああああああああっ!!」
壁の姿見に、寝ぼけた自分の姿を見て絶叫した。
「――シーノン?!」
悲鳴を聞いてリュクルスが使用人部屋へ駆けつけた。
「シーノンどうしたの?」
「リュ、リュクルス様……そんな……こ、こんな……ことが……」
こんなことが、あっていいのか?
シーノンは仮面を額にずらした自分の顔を、両手で挟んで驚愕していた。
「変わって……ないんです……。地味です!!」
真剣な表情でそばに寄り添っていたリュクルスが、ひとときの空白のあとで、――吹き出して大笑いし、腹を抱えた。
「ふっ、あっははははは……。シーノン、そんなにびっくりしないでくれ……そんなことで、あはっ」
目尻に涙をためて笑い尽くしている。
「だって、リュクルス様」
華やかに百花繚乱の描かれた仮面が目の前にあるのだ。相談者の変身願望を叶える、リュクルス製の魔法の仮面。
シーノンはゆうべ、恐る恐るそれを自分の顔に被って眠りについたのである。あざやかな色たちはシーノンの中に潜在すらしないように思えたが、ルクス博士の研究を忠実に継いで実績も豊富なリュクルスの処方が、下手なものであるはずがない。
見知らぬ自分に変わってしまっていたら怖いな、とびくびくしていた。
でも、何も起こってはいなかった。
それどころか、眼鏡をしたまま仮面を被っていたために、つるの痕が鼻のあたまを横断してしまっているくらいだ。
「シーノン、変身願望があったのかい?」
「そ、そういうことではないんですよ……」
「まあ、確かに僕もシーノンの作る料理が残念な味だったら、びっくりするだろうな。ありえないことだと思っているからさ。でもね、シーノン。僕の作る仮面は、いつもこういうものだと思うよ。だから驚かないで。さあ、お仕着せじゃないいつものよそ行きに着替えて、いつもよりも少しばかり華やいだ気持ちになっている自分にびっくりしてごらん」
《光ノ祈リノ大祭》の日の朝だった。
リュクルスはシーノンの鼻すじに赤くついた痕をそっとつまんで、優しく笑んだ。
祝祭を知らせる花火の音が聴こえた。
玄関の鐘が鳴り、シーノンが出ていくと、外に立っていたのは隣家のセデリィカとコリントの二人だった。
セデリィカが、シーノンに寄って耳打ちしてきた。
「薬草園のコリントさんと、そこで一緒になったわ。シーノン、今日はあなたもお出かけね?」
「シーノン、リュクルス君が出かけたら、一緒に街へ行きませんか?」
やはりコリントは、ほかに予定の空いている知り合いがいないのだ。
後ろから現れたリュクルスを見て、セデリィカが嬉しそうに手を打った。
「出掛けられるのね、リュクルス?」
「ああ……」
リュクルスはコリントの姿を目に入れて、口を結んだ。
物腰なごやかなコリントの会釈を受けて、礼儀としてかなう程度の会釈を返す。
「リュクルス様、コリントさんが祭りを案内してほしいそうなので、参りましょうと思いますです。屋敷に鍵を掛けなきゃですね。シーノンは日没前までには戻っていますので、リュクルス様たちは夜の花火までお楽しみになってくださいね。じゃないと締め出しです」
「ああ、うん……」
セデリィカに腕を取られながらシーノンを見つめて頷き、リュクルスは自家用の軽馬車に乗った。恋人たちを寄り添わせて小さな馬車は走りだす。
「もう少し後に来たほうがよかったかもしれないですね。不愉快に思われてしまったようです。君を誘ったこと」
傍らでコリントが呟いたので、「えっ」と驚いてシーノンは彼を仰ぐ。
「とんでもないですよ。コリントさんを祭りにご案内したらどうか、とリュクルス様もおっしゃってくれていたんです」
シーノンはリュクルスがくれた仮面の話をした。コリントはそれを聞くとそっと柳眉を持ち上げた。
「そうなんですか。でもそれなら、僕ならシーノンにとびきり似合う祝祭のための服も一緒に新調して送り出したいですね。リュクルス君というのは意外と吝嗇家なのですか?」
「リュクルス様はぜんぜんケチなんかじゃありませんよ」
街行きの一張羅からエプロンを外しながらシーノンは思いきり首を振る。「ぜんぜん!」
「冗談ですよ」
玄関に鍵を掛けるシーノンの背後でコリントは学者然と取り澄ました顔をしていた。
「からかいました。君は素直だから」
「都会の人はそうやって言葉巧みに人をからかいなさるから、だからこの地味メガネのシーノンに頼るしかなくなるほどお友達ができないんですよ」
「リュクルス君だって都会育ちではありませんか?」
「リュクルス様は特別お心が優しいんです」
健脚の二人は街までの道を、シーノンの主人愛をかけた弁護と賛美と世間話で潰しながら歩いていった。