失くしたつばさ 1
記憶にあるのは、暗い暗い、闇に塗りつぶされた牢の中。
芯まで凍える冷たい空気に支配されたその場所で、シーノンは泣いていた。
ずっと泣いていた。ずっと、ずっと、ずっと。
寒くて、怖くて、独りぼっちで、泣いていた。ほかにすることもないから。
「人の身体にとっては、この場所は昏く凍えるばかりであろう。牢に限ったことでなく、闇の世界に囚われているかぎりはな」
あるとき檻の外から声をかけてきた男は、泣きつづけるシーノンを慰めるでもなく淡々とそう言った。
闇の中で闇よりも濃い闇を纏う男は、けしてその表情を見せることはなかった。光の届かぬ場所では、輪郭すらも描かれない。ただ圧倒的な存在のみが、そこに居た。
その声に宿る哀れみと哀しみの音色だけをシーノンは憶えている。
「だからといって、お前にはこの場所のほかに居られるところなどないのだ。人の世は、身寄りのない人の子には闇の牢獄よりも苛酷な場所だ」
ゆえに仕方がない、とも、ゆえに我慢をしろ、とも男は言葉にしなかったが、自分には逃げ場がないのだという残酷な事実はシーノンにもわかった。
「お前の半身を探していた。お前を完全なお前に近づけるに足る、お前の一部だ」
男は希望を与えようとしたのだろうか?
淡々と告げる声は、相変わらず男自身が諦めに浸ったままのように聞こえたけれど。
そんなことよりもシーノンは、檻の向こうで形をとりはじめた〝それ〟に心惹かれて、涙をひっこめつつあった。
「欲しいかね?」
〝それ〟は初め、闇に穿たれた穴のように見えた。その仄白い光明は、徐々に明るさを増し、微細に震えて、膨らんでいく。シーノンの頭ほどの大きさまで広がり、ぽんと弾けた。
綿毛のような燐光が生まれて、宙に浮かぶ。
頼りなげに。
明滅し、懐かしい律動の拍を打ち、何かを訴えかけていた。
「それ、それ、私の――」
(私の)
反射的に言葉は口をついて出たが、その先がわからない。
(私の、なに……?)
わからない。
〝それ〟が、シーノンにとっての何なのかが。
けれど、絶対に。
〝それ〟は、シーノンのものだ。
シーノンの手に、取り返さなければならないもの。
檻の柵へとぶつかるように飛びついて、シーノンは〝それ〟に手を伸ばそうとした。
「ならば、私の願いと引き換えだ」
言われてシーノンは男のほうへ顔を上げた。
「地上に暮らす一人の少年を、彼の命を狙う者たちから守るのだ。お前の本来持てる力で」
シーノンは、固唾を飲み下して闇の主を見つめた。
「ここから出られるの……?」
闇そのものである闇の主は闇を動かして頷く。
「ああ」
確固たる闇から放たれた言葉であるがゆえに、シーノンは疑わず男の約束を信じた。
「引き換えにするわ。ここから出たいの。それを私に返してほしいの!」
闇がむなしく笑う。
「私が奪ったわけではないがね」
「知っているわ――」
無意識にシーノンは答えた。曖昧に残る記憶は、脳裏におぼろげな思い出の残照を投げかけた。
「私、知っているわ。あなたが奪ったわけじゃない。分かたれたのは、私のせいなの。私が力を使い過ぎたの。誰かが――泣いていたから、泣くのをやめてほしかったの、あのとき――あの子を守りたくて……。そうよ、守ることには慣れているわ、一度やったことがあるもの! 相手が誰でも同じことよ、私が適任だわ!」
だから、ここから今すぐ出して。
お願い、と、懇願を重ねるまでもなく、闇は裂かれた。
すがっていた檻が質量をなくし、シーノンはつんのめる。ふわりとその身体を支えた綿毛のような燐光を、抱きしめたら、かよわく囁く声が聴こえた。
「……寂しかったでやんす……」
どこにいたの、とシーノンは呟いた。寂しかったよ。
足元にひらけた虚空へと、取り戻した半身とともにシーノンは落ちていく。
守るべき者が待つ、地上へ。




