ルクス屋敷のシーノン 3
そして夜がくる。
シーノンは使用人部屋の寝台に腰掛けて寝間着のボタンを留めていた。
静かな夜だ。
山間の高原ベルーナスの夜は、聖峰オーベに見守られる神聖な静寂の夜だ。
「光矢ノ乙女は祈りました。“我が《光ノ翼》の力すべてと引き換えに、憎みあう我らの弱き魂を救い給え……”」
大聖典に編まれた聖節を口ずさむのは、信仰心というよりも、純粋にその物語がシーノンは好きだからだった。
壁際に立って、闇に溶けそうなほどに地味な、家政婦のお仕着せにブラシをかける。これで、寝る支度は終わり――。
シーノンは廊下を振り向いた。
いま、食堂の窓の鎧戸が軋む音が聴こえた。
屋敷の主人リュクルスは、夕方にセデリィカの家から帰ってきて少し眠り、夕食の後からはずっと地下室の作業場へ篭もっている。もう仕事は全部終わったはずなのに、「ちょっと後片付けがね」などと曖昧に笑って降りていってしまった。それきり彼が上がってきた気配はない。
シーノンは燭台を持たずに廊下へ出た。
つきあたりにある地下への階段室の扉がしんと閉まっているのを確かめた。
真っ暗闇の廊下で一人。
――お前、また邪魔をするわけ
かん高く響いたその声を振り返る。
途端、シーノンの身体は突風のごとき衝撃を食らって吹き飛ばされた。階段室の扉にしたたか右肩を打ち、こらえきれず小さく呻く。
眩しい光が両目を撃つ。
「っ……それは、こっちのセリフです。何なんですか、あなたたちってば、いつもいつもいつも」
きっ、とした顔で、シーノンは襲撃者を睨みあげた。
「しつこいですよ」
――まだまだ、まだ邪魔をしようってわけなのよ、この子ったら
――こんな聞き分けのない子、いらないわよね、おねえさま?
――ブスな子グズな子いらない子
――しっし
――面倒だから殺っちゃいましょうよ、おねえさま
背後に乙女たちの声を従え、“おねえさま” と呼ばれるその人影は、輪郭だけなのに優美きわまる仕草でやれやれと肩をすくめた。
圧倒的な光輝が、ゆっくりと近づいてくる。
シーノンは戸口につかまりながら体勢を立て直す。
――そこをおどき。バカ娘。お前、自分が何を守っているかわかっているの
「ご主人様に決まってるじゃないですか」
――救いようがないわね、この子は
「どうして強盗殺人犯さんたちに救ってもらわなきゃならないんですか!」
眩むほどの光に満たされた視界に、風が七色の色彩を放って逆巻いた。
吹きすさぶ嵐がシーノンを翻弄し、たたらを踏ませた。
――後生だからいいかげん理解してちょうだいよ。何度も言っているけれど、その扉の奥にいるものは、世界を滅ぼす《闇ノ翼》の王の子供なの
「リュクルス様は人間ですよ!」
“おねえさま”が、お手上げ、とばかりに頭を振る。
――人間の振りをして人間たちを騙してるお前が言っても説得力がないのよね……この、《闇ノ翼》の飼い犬がッ!
至近に迫った光輝が苛立つ声と同時に炸裂した。
「ぎゃっ」
再び壁に打ち付けられてシーノンは息を失う。階段室の扉にかけられた“おねえさま”の手を、衝撃にかすむ横目で追って、だめです、と呟いた。声は出ない。けれど感情が迸る。意志は気力となって、痛みを忘れさせた。
シーノンはほつれ毛の張りついたメガネをむしり取る!
厚底の硝子レンズが取り払われ裸眼となった視界の隅で、純白の綿のきれはしがぱたぱたと舞っていた。
『シーノン、シーノン、あっしを掴まえなすって!』
真ん中のくびれた綿のきれはしが叫んでいる。
『掴まえなすって!』
「ロッコ」
シーノンは迷わずに、ぱたぱたと飛ぶ綿をつかんだ。
胸に抱きしめて祈る。
力を、どうか――。
《一極》さま。
腕の中で膨れ上がる熱がシーノンの瞼を灼く。
灼く。
「――ッ」
いち早く危険を察した侵入者が瞬時に後退し、巻き起こる現象にその流麗なまなざしを細めた。
寝巻きの裾が、烈風に捲れ上がる。生成りの木綿は千々に引き裂けて、隠されていた娘の肌が露出する。千切れた端から寝巻きは柔らかな燐光に溶けた。幾筋もの燐光が回遊魚のようにシーノンのまわりを巡り、タテヨコナナメにすいすいと錯綜し、残像を撒き散らす。その楽しげな光の乱舞は聴こえぬ音楽を響かせるようだ。
重力に逆らい、シーノンの爪先が床を離れた。
巡る奔流の流れるまま彼女の身体はくるくると回転し、しなやかな手足がやがて折り畳まれて胎児のように丸くなり、前転した。
明滅する燐光。
ぱっと閃いて一帯が白んだと思うと――姿を変えた娘が現れる。
ふうわりと広がる純白の衣。
衣に煽られた顔のふちでしゅしゅしゅっと髪ピンが飛んだ。
ほどかれて翻る髪は銀色の波のごとく宙を泳ぎ、輝く。
菫色の瞳が爛々と襲撃者たちを見据える。
「ここは絶対、通しませんー!」
裸眼で見渡す廊下には、聖女のおもてを持つ六人の《光ノ翼》がめいめいの姿勢でシーノンを睨んでいた。
いずれ劣らぬ美貌の天人たちが、王侯貴族にさえ誂えることかなわない天上の衣をまとい、得体の知れぬ輝きを放つ武具を手に手に。
「聞き分けのない犬だわ。わたくしたちとてお前とは出来ることなら戦いたくはないのよ」
美女たちの筆頭――〈戦精霊〉のごとく華麗な誇り高いかんばせを掲げる“おねえさま”の、あかいあかい艶やかな唇が、微笑に歪んだ。
「けれど、仕方がないわね」
六つの殺気が同時にシーノンめがけて迫り来る。
◇◇◇
「シーノン……シーノン、また、こんなところで寝たの、いけないよ風邪をひくよ」
肩を揺さぶられてシーノンは泥沼に嵌まるような眠りから目覚めた。
「うへ、あれ、リュクルス、様……?」
リュクルスの瞳が、すぐ目の前にある。
居間のほうから朝の明るい日差しが廊下の奥まで差し込んで、傍らに膝をついて屈み込む彼の姿を逆光の中に浮き上がらせていた。
『シーノン、勝ったでやんす。勝ったでやんす。だけんどバタンキューでやんしたよ』
慌て気味にシーノンは床に落ちている眼鏡を掴んでかけ直す。頭のまわりをパタパタと舞う純白の喋る綿は見えなくなった。
「も、もうしわけないです……。みっともない格好で……」
シーノンは骨の継ぎ目がぐごごごごと軋む身体で、もそもそ動いた。
「大丈夫? 身体、痛いだろう?」
「えっ!」
どきっとしてシーノンは起こしたばかりの身をこわばらせる。
まさか、昨夜の戦いが知られて……?!
「ちゃんと寝台で寝ないといけないよ。何かあったの?」
「あっ。……いえ、何にもなかったんです。私、夜中にお便所に起きまして、でもあんまり眠かったから、帰り道のこの辺で倒れてそのまま眠ってしまったんですね……」
まくれた木綿の寝間着の裾をくるぶしまで下ろす。そうしながら、ある事実に気づいてぎょっと顔を上げた。背後で半開きに開いている階段室の扉――。
「リュクルス様こそ! 今の今、ここでぶっ倒れている私に気づいたということは、今の今まで地下室にいらしたんじゃないですか! だめですよ、そんな無理――」
詰め寄ろうとしたシーノンの鼻孔を杉の香気がくすぐる。
視界を塞ぐように木地の〝裏側〟が差し出された。
「シーノン、これを君に」
「ほえ」
くるり、と返された〝表側〟。
その仮面には、色とりどりの花が咲き乱れていた。
《一極》の創りたもうた世界を色でうずめることを任された、〈彩色精〉たちの筆が躍ったようだった。
繊細に描かれた菫の花弁には純白の雪が散る。
「やっと出来上がったよ」
少し恥ずかしげにリュクルスが言った。
「私にですか……?」
「そうだよ。シーノンだって、《光ノ祈リノ大祭》には出掛けるだろう?」
シーノンは戸惑って首をかしげた。
ルクス屋敷の家事いっさいを極めることしか頭にないシーノンには、《光ノ祈リノ大祭》はとても遠い出来事だった。
「出掛けなよ。たまには休んでくれないと、僕だってつらい」
目を伏せたリュクルスの表情に、シーノンは驚いてしまった。
どうしてリュクルスが、こんな顔をするのか。
「リュクルス様……」
シーノンは驚きのままに、あまり考えることが得意ではない頭を回転させた。
リュクルスを辛くさせるような粗相を、知らないうちにしでかしていただろうか? 休め休めと口うるさくしたことだろうか? せめて忙しい時期くらい精を付けてもらおうと、リュクルスがあまり食べたがらない肉食中心にしていたことだろうか? ほ、ほかにも、何かやっちゃっていただろうか……?
「祭りももう、明後日だからね。仕事が立て込んでいて、間に合うかどうか心配だったけど。でも楽しいことは、どんどん進んでしまうものだね。こんなことを言ったら、患者さんたちには失礼か……」
独り言しながらリュクルスはシーノンの膝に仮面をそっと置いた。
「コリントさんを誘ったらどうかな」
確かにコリントは、ベルーナスに来てまだ一年足らず。先年の《光ノ祈リノ大祭》の頃にはまだ居なかったし、この土地で親しい友人は少ないという話だから、シーノンが観光案内を買って出ると言えば喜んでくれるかもしれない。
それはそれとして、シーノンは膝の上の分不相応な贈り物を、もったいなくておっかなびっくり穴があくほど見つめた。
みずみずしく、優美で可憐な色彩の花々。その魅力的な色たちは、地味メガネ家政婦シーノンの外側はもちろん、内側を探しても、どこにも存在しない。
ただ一点、眼窩に嵌められたアメシストの菫色以外は。
「リュクルス様、これを被って眠ったら、私はどうなっちゃうんでしょうか」
「それはね、シーノン、コリントさんを誘えるようになるんだよ」
悪戯っぽい少年の瞳をして、リュクルスが言った。
「僕は信心深い人間じゃないけど、《光ノ祈リノ大祭》は嫌いじゃないよ。若者たちが指折り数えて、あの子を誘いたいとか誘えないとか一喜一憂しながら毎日を浮ついた気持ちで過ごすこの季節がね。彼ら彼女たちの悩みや願いは、帝都から来る大人たちのものと比べれば、相談に乗るほうも、けして重苦しい思いはしないものだから」
当人たちにとってはもちろん深刻な大問題にせよね、とリュクルスはちゃんと付け加えた。
「だからシーノンにも、雪解けあとの自由な春の祭りを、若者らしく楽しんできてほしいんだ。って、言うだけじゃシーノンは結局、遠慮してしまうに決まっているから……」リュクルスは仮面を半ば無理やりシーノンの手に抱かせてから、上目づかいに言った。「これが招待状、だよ」
シーノンは仮面を押しつけられた胸が、温かくなるのを感じた。
落としちゃいけない宝物を抱いて、こくこくと頷いた。
《光ノ翼》との攻防で負った打撲の痛みと疲労感など、きれいに忘れていた。
リュクルスの労りの心に触れた、それだけで。
「大事にいたしますです!」