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エピローグ 1

「ヴーリエン、ぼくこれは飲みたくないよ。だって泥みたいだよ? いいや、泥だよね? これ……?」

「贅沢を言っている場合じゃありません、ファニッツ。せっかくお兄様が調合してくださったんです。効用は保証付きってことだわ」

「だって、顔が映らないほど濁っているじゃないか。僕は薬湯に映った自分の顔で今日の体調がわかるんだ。でもこれじゃ、まるで未来が見えないよ」

「つべこべ言わずにお飲みなさいったら」

 押し問答の末に、皇子は泥色をしたどろどろの薬湯をちょびっとずつ口に含んだ。

「泥だよね、うん」

 どろどろに崩れそうなしかめつらでファニッツ皇子はちびちびとそれを飲む。

「〈黄金の大陸〉の人々はその薬で死の咳の病を克服したのです。沼地に咲く〝コモレビノ花〟とよばれる薄い黄色の花の根を焙煎したものを、まず煮出します。いちど冷まして泥状になったところで、さらに発酵を待つと、成分が薬に変化するんです。その沼地は、野生の生き物が死期を悟ると集まってきて身体を沈めてゆく場所で――」

「お兄様」

「とにかく、薬効のある成分に加えて栄養も豊富なのですよ」

 淡々としたコリントの説明にファニッツの顔色は土色になりかけ、だが皇子としての矜持をすんでのところで保ったのは、寝室に入ってきた人物のおかげだ。吐き出そうとした舌の上の薬湯をごくりと飲みくだし、ファニッツは彼の前で居住まいを正した。

「ゼーニッツ兄上!」

 旅装の外套をひるがえして現れたのは赤髪の皇太子。

「よー、死に損ないの弟め」

 寝台にどっかと割りこんで座るなり、弟皇子の頭に乱暴に手をおいた。

 ここに皇后でもいれば優等生の態度を崩さないが、今この寝室に集まる面子ならば皇太子はいつもこんなものである。そして感覚の鋭いファニッツ第二皇子は、兄のことをとても慕っていた。

「元気になりやがったかあー?」

 空の椀を覗き、皇子の顔色を眺める。

「いま飲んだばっかりですよ。そんなにすぐ治りません、兄上」

「口のまわり泥だらけじゃねえか……」

 ファニッツの口元を拭ってやり、その指をゼーニッツは好奇心でぺろりと舐める。

 途端にさっきの弟皇子とそっくりな表情になり、

「この泥、もうちょっとなんとかならねえの」

「兄弟そろって我儘ですね」

 コリントにたしなめられる。

「そりゃ、あんたの腕を信用してるからだろ」 

「君の減らず口も〝アラスナオニナル草〟で治療しておくべきでしたね」

「……」

「架空の草ですが」

 ファニッツがぎこちない笑い声を出してコリントに気を使った。

「そういう草も、なくもないかも知れませんよ、何しろ《黄金の大陸》は未知の植物の宝庫なのです」

「僕もいつか行ってみたかったな」

 あきらめた過去形でものを言うことに慣れているファニッツの手を取り、ヴーリエンが首を振った。

「行けるのよ、ファニッツ。船旅がまどろっこしいなら、わたくしの翼で連れていくわよ」

「……そうだったね。でも船がいいよ。ぼくは海の上でも暮らしてみたいな。そうか、これからは夢をみてもいいんだね」

 ラファタルの新造船が《黄金の大陸》への航路を拓いてからすでに一年が経つ。

 技術供与を受けてペンツェラルゼが自前の船を出したのが半年前である。さきだってペンツェラルゼはラファタルの初号船に先遣隊を同乗させ、新大陸とそこにある文明の情報を得ていたが、かの地の自然の豊かさ、技術と文化の成熟度は話だけでも心揺さぶるものがあった。

「向こうで、あいつに会ったか?」

 その目で〈黄金の大陸〉をつぶさに見聞してきた翼人に、ゼーニッツが訊く。

「〈黄金の大陸〉は広いですよ。翼人の翼でも」

「あんたでも、か。あいつにはもう翼はないんだろ?」

「リュクルス君はもう、ただの人間です」

 あの日。

 《完全世界》の扉がひらかれた日、大陸全土に太古から残されていた亀裂の中から、〈嘆きの鏡〉が現れた。

 《闇ノ翼》の御曹司の力が人々を《鏡》に映る己の心と向き合わせたとき、彼らに何が起きたか。

 人々は、自身の心の闇と戦うことになった。

 勝ち負けのある戦いではなかった。

 ペンツェラルゼの民にも、ラファタルの民にもそれぞれの正義があった。だが、輝かしく無謬であるはずの正義は、それを外へ向かって掲げるとき、醜い争いを生む。《光ノ翼》と《闇ノ翼》が永年にわたってつづけてきた争いだ。

 かつて《光矢ノ乙女》の祈りに心うたれた《一極》がこの大地に刻んだ〈嘆きの鏡〉が、人々に示そうとしたこと。

 それは、己を見つめよ、という戒めである。

 それこそが、人と人が互いに歩み寄るための第一歩だ、と。

「あんなとんでもない力がある奴が病弱だったとか、ぜってー嘘だろ」

「おそらく、強大すぎる力に、生まれたばかりのリュクルス君は耐えられなかったのです。シーノンが生まれた同じ日の異変を僕は憶えています。あの夜。大きな闇の力が世界にばら撒かれた。あれは、リュクルス君が手放した《闇ノ翼》の力だったのです。持ちきれない力を手放すとともに、彼は不完全な存在となり、肉体の生命力も失ってしまった。その彼に翼人の核である〈紐帯〉を渡して救ったのがシーノンです」

 リュクルスが《仮面》づくりを通して集めていた闇は、元は彼がもって生まれた《闇ノ翼》としての力の欠片たちだった。

「だけど今じゃ、正真正銘ただの人間か」

「命を失わずに済んだのが奇跡ともいえます」

 二人の会話にファニッツが真剣な表情をもたげる。

「その代わりに、シーノンがいなくなってしまったんでしょ?」

「結局、最後まであの二人は光と闇として対立をしてしまったのよ。シーノンは真心と正義心から、御曹司を生かすために力を使い、御曹司はやはりシーノンを守るために選べるもっとも合理的な判断として、自分を殺そうとした。二つの相反する力がぶつかりあって、……ええ、シーノンが勝ったの」

 《光ノ翼》の城の結界が崩落したあと、離宮の中でファニッツを守っていたヴーリエンを除く五人の姉妹は、湖上庭園に倒れているリュクルスを見つけた。

 そばにシーノンの姿はなかった。

 離宮のどこにも、ペンツェラルゼ領のどこにも、大陸のどこにも彼女の姿は見つからなかった。

 翼人の翼をもって探し尽くしても。

「《黄金の大陸》に、シーノンはいると思う?」

「御曹司がわたくしたちにそう言ったのだから、合理的な確信があるはずだわ」

 そう応えるときヴーリエンはわずかに目をそらした。

 ファニッツは彼女のその表情、その仕草をよく知っている。

「合理的な嘘かもしんねえ。あいつ、責められんのが嫌でトンズラこいたんじゃねーのか?」

 冷たい視線が(おもにコリントから)ゼーニッツへ集中して刺さった。

「嘘なのかな。でも嘘は人を騙すためのものとは限らない。彼の言葉は、彼が信じていたい希望なんじゃないかな……」

 ファニッツの呟きに、驚いたようにほかの三人の顔が向けられた。

「シーノンが、僕にそう言っていたから」

「あの子らしいわね、本当に、まっすぐな馬鹿なんだから」

 美貌の翼人の声をふるわせた感情に、ファニッツが心を添わせるようにして、ヴーリエンの頬にそっと手を触れた。

 絵のように美しい光景に、ゼーニッツはガラの悪い態度も忘れて目を細めた。

 ややあって、少しだけ複雑な顔で、ゼーニッツは自分の師をふりかえる。

「それでお兄ちゃんは、今度も妹を探しに放浪してこなくっていいのかよ?」

 茶化しているようだが、その声にはどことなく後ろめたさが滲んでいる。

 そんなゼーニッツの様子に、コリントはいくつかの否定を込めて瞑目した。

「ええ。それも今はリュクルス君の役目です」 

 学者然とした双眸をひらいて、コリントは首をかしげる。 

「気を使ってくれているのですか。それとも、罪滅ぼしの意識からでしょうか」

「単に訊いただけだ」

 《完全世界》の到来と探求、そして大陸情勢の大きな変化に忙殺されたゼーニッツと、すぐ《黄金の大陸》へと向かったコリントのあいだに、あれから話す機会はほとんどなかった。

 とはいえ、一年前にシーノンに対して行なった所業について、コリントが何の叱責も与えないことにゼーニッツは疑問を抱いているだろう。

「ゼーニッツ。同じ状況が繰り返したとして、あなたはあの時と違うやり方を今度はとりますか?」

「いいや、俺は同じことをする。同じ状況ならば」

 ゼーニッツは即答した。

「俺は同じことをする。別の方法が取れるなら、あの時にそれを採用している。わかりきったことだ」

 コリントも、わかっていたように頷く。

「それでいいのだと思います。背負うものの大きさを、君はよく知っている。その上で君は君の信念を持っている。僕がそう指導しました」

「指導された覚えがねーから……」

「僕は遠くから見守ることしかできない星並びの元に生まれたようです。君のことも、シーノンも……。あのとき、僕も結局、傍観者でいることしか選べなかった。君のしたことを責める資格はありません」

 頭を掻きながらそそくさと立つゼーニッツに、コリントは眉をもちあげる。

「おや、もう帰るのですか」

「兄上?」

「ああ。都でサランファータの自慢話を聞く仕事が待ってるからな。発つ前に時間をつくって寄ったんだ。ファニッツ、調子に乗ってねえでちゃんと寝ろよ。じゃねーと、母上の神殿参拝三昧に俺のせっかくの休みが潰されまくるんだからな。とっとと治れ」

「わかりました、兄上」

 背中を向けるなりうしろの三人が意味深な表情で目配せしあったのを知ってか知らずか……。

 友好国ペンツェラルゼに親善訪問中である氷鉄姫サランファータとの会談が予定されている王都へと、ゼーニッツは意気揚々と去っていった。

「なんだか兄上、公務が楽しそうですね」

 すると、まじめくさった頷きを返してコリントが、学者然として分析を述べた。

「まるで子供をあやす母親のように手玉にとって遊んでくれる人が、現われましたからね」


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