きぼうのつばさ 3
「リュクルス様、だめ、だめですよ。こんなことをしたら、リュクルス様が……リュクルス様が死んじゃう!」
とめどなく涙が零れた。
《紐帯》を取り戻したシーノンは始まりの記憶をすべて思い出した。
生まれたばかりのあのときシーノンは、儚く命を終える寸前のリュクルスに命の核をわけあたえた。
理由は、生まれてからの時間の短さのぶん、単純で簡単だった。
ただ生きてほしかったからだ。
けれど今、悲鳴の理由は簡単じゃない。
ともに生きた時間の長さのぶん、簡単じゃなかった。
「どうして……!」
めちゃくちゃに頭を振った。乱れて顔にかかる白銀の髪の隙間から、リュクルスの見慣れた表情がシーノンの否定を阻む。どうして伝わらないのだろう。どうしてリュクルスはわかってくれないのだろう。リュクルスがいなくなってしまったら、シーノンの生きる意味だってなくなる。
「どうし……」
リュクルスの、微笑み。
諦めとともにある、あの微笑み。
(まさ、か。そんな……)
ファニッツ皇子の言葉が心によぎる――。
「リュクル……」
あえて見ようとしてこなかったことが、シーノンにはある。
病に苦しむばかりのリュクルスは、本当にその生を望んでいただろうか。
シーノンが望んだ明日を、リュクルスはどんな思いで迎えていたのだろうか。
はじまりの記憶を取り戻した今はもっと、おそろしい疑問がシーノンの胸を潰す。
シーノンが願ったリュクルスの命は、彼を今までずっと苦しめてきただけではないのか。
『僕はシーノンのこの手に嫉妬していたことがあるんだ。元気な働き者の手にね』
と、いつかリュクルスは言った。
「私のせい……」
あふれた涙でリュクルスの姿は歪んでしまう。
あるべき身体に帰ってきた〈紐帯〉が、シーノンとロッコをあるべき姿に結びつける。
その身に変化の兆しが表われると同時に――絶望が、シーノンの心を支配した。
半透明な翼が虹色の光を帯びてわなないた。
葉脈に水がいきわたるように、翼は徐々に純白の色をひろげた。
毒々しいばかりの白光がリュクルスを覆う。
《光ノ翼》となったシーノンの、加減を知らぬ力が暴走していた。
(リュクルスさまは生きることを恨んでいたの――リュクルスさまが、いなくなる――いなくなってしまう――)
白亜の宮殿が大きく揺れた。
深刻な音をたてながら、亀裂が壁を走る。
天井から剥落した大理石のかけらが降りそそいだ。
焦点を失ったシーノンの瞳が上を向いた。
半開きになった唇から、祈りが漏れる。
我を忘れ、一心不乱にシーノンは嘆きの聖節を口ずさむ。
《一極》への祈りだった。
かつて《光矢ノ乙女》が天を向いたとき、世界は洪水に呑まれた。
その苛烈な力の暴走が、くりかえされようとしていた。
もっと制御されないかたちで。
リュクルスは残された力で彼女の光を抑えようとしたが、ふと、抱きしめるシーノンとのあいだに異物を感じてそれを手にした。
リュクルスが手を触れた途端に、アメジストのペンダントは砕けた。そこに《仮面》が現れた。リュクルスがシーノンにつくった、《仮面》だった。
リュクルスはそれを、シーノンのおもてに捧げた。
すみれ咲く仮面――。
リュクルスが知るシーノンの優しい姿を、そのまま写した、彼の最高傑作である《仮面》だ。
リュクルスが好きなシーノン。
飾り気などなくても、どんなに地味な格好をしてあくせくと働いていても、そのシーノンがいちばんシーノンらしいシーノンで、リュクルスが愛するシーノンだった。
だからそれは、変わらずにいて欲しいという願いの《仮面》だった。
美しい心に癒されてきた。
気丈な笑顔に励まされてきたのだ。
「君の好きな花はすみれ。僕が好きな人はすみれに似てる」
慟哭が、止んだ。
《仮面》が揺らいで、眼窩のアメジストはシーノンのすみれ色の瞳と入れ替わる。
リュクルスの想いが、シーノンをシーノンに留どめる。
《光ノ翼》であるまえに、翼人であるまえに、庭の花を愛する屋敷の守り人であるシーノンに。
「ずっと言えなかったのは、君が眩しかったからだよ。君を羨んでしまう僕の闇で君を汚したくなかった。そうやって自分を卑下する自分のことも僕は嫌だった。君といると自分の醜さを教えられてつらかった。だけど君がいなくなることを考えると、それだけで闇に囚われそうな自分がいた」
すみれ色の瞠目がリュクルスにそそがれる。
「リュクルス様……」
「僕たちは互いを鏡にして、いつもその先を怖がっていたね。今もそうだ」
リュクルスの指が、シーノンの額に触れ、瞳にかかる前髪をそっとよける。
シーノンはゆっくりと瞬いて、絶望の涙を払った。
それでも、《光ノ翼》の光は闇を侵しつづける。
《闇ノ翼》の闇はひたひたと床を這う。
闇に染まるか、灼き尽くされるか。
相容れぬ光と闇。
ともにはあれない、二極の二人。
結ばれない、運命だ。
「だけど、それでいいんだ。そうやって自分を見つめられたなら。そうして人を傷つけることを恐れることができたなら。君がいたから僕は、闇を知って、闇に呑まれなかった。こうして僕は僕のままでいられる」
互いからそらせない視線だけは、せめて……絡めあったままで。
額と額をくっつけて、リュクルスが囁いた。
「君に会わせてくれて、ありがとう」
新しい涙が一筋、シーノンの頬につたう。
その顔をつつみこむ手の親指で、リュクルスは温かなしずくをぬぐった。
二人ともに、小さく笑った。
けれどすぐに、求めあう瞳は切なく苦しんだ。
心から偽りのない自分の言葉を、リュクルスは言った。
「シーノン、君を愛してる」
泣き笑うシーノンが、ごまかしなく答えた。
「……うん」
震える唇に、くちづける。
深く、永く。
止められない時を止めるように二人は重なる。闇は光を奪い、光は闇を殺した。漆黒は閃光に熔け、純白は漆黒に染まりゆく。翼は相反する力に損傷して毀れていく。
二人の望みはともに生きることだった。だがそれは決して許されることのない願いだった。
崩落は無慈悲に進んだ。
降りしきる破片の中で、《光ノ翼》の末姫と《闇ノ翼》の御曹司は、その命の終わりまでともにあった。




