覚醒する翼 3
リュクルスの似姿をとる《闇ノ翼》の配下を陽動にして監守兵をあざむき、牢からの脱出路をのぼりつめた出口は、峻厳な山の中腹だった。
見上げる空が青い。
アリョーズ山脈の西の端はラファタルに食い込むかたちで南西に折れて伸びている。大部分が氷河に覆われた山脈は、自然の防壁として機能し、両軍国境部隊の配置が薄い地でもある。虎の爪、と呼ばれる山脈南端の東、ペンツェラルゼ側の麓の軍施設敷地にリュクルスは立っていた。
振り返れば山肌はまだらに砂糖化粧のような白い雪で覆われている。
見晴るかす上方に、菓子にたかる蟻の列に似た黒色の点々が見えた。
「……あれは?」
案内に立つセデリィカに問う。
「ペンツェラルゼの山岳強襲部隊ね。いよいよラファタルへ侵入しようというところのようだわ」
「君はこんなところで油を売っていていいのか」
「時間を無駄にして遊んでいるわけではないのよ。世界の掌握を賭けた切り札のほうが大事なの。効率と合理性を取る《闇ノ翼》ならば首肯なさるでしょう?」
リュクルスは返事をしなかった。
処女雪を汚す行軍を視界に入れたまま、不愉快げに眉を寄せる。
「気に障るようなことを私、言ったかしら?」
「……世界の有りようが」
不快だ、と。
リュクルスは遥か彼方の光景から顔をそむける。
不毛に戦いあう人の性、翼人の性、それらをリュクルスは許容できない。
「その心性こそ、あなたが滅びと再生の翼である証拠だわ」
勝利を先取りする者の声音に、リュクルスの横顔が翳った。
「あなたがこの世界を壊して、再構成すればいい」
「それも君の望みじゃない」
瞳をすがめてリュクルスは用心深くセデリィカを見た。
「君の心は視えにくい」
「それはよかった」
妖艶なほどに華やかに、セデリィカは笑んだ。
彼女の侵入時に排除された警備兵が数人、辺りに倒れていた。いずれも、直に触れれば人間には強すぎる《闇ノ翼》の気によって昏倒させられている。
敷地の隅の監視台でも一人倒れている。
柵を挟んで向こう側は山岳軍基地となっている。隊舎がならび、兵隊たちがまばらに行き交う。ここは行軍中の強襲部隊を送り出した基地だ。
対角線上にある監視台で、警備兵がこちらの異変に気づいた様子を見せている。
「誰かくる」
リュクルスが人ならざる感覚で気配を捉えた。
「ゼーニッツ……」
隊舎のあいだに一群が現れる。
その先頭に、騎馬のペンツェラルゼ皇太子ゼーニッツの姿があった。
「――よい、撃つな」
兵士たちの動きを制し、悠々とした馬速でもって彼らを従える。
柵を越え、ぐっと表情を見せる距離まで近づいたゼーニッツが、不敵に《闇ノ翼》の御曹司を見下ろす。
闇色をまとった翼人の本性を。
「様子が変わっているじゃないか、リュクルス君」
すい、と傍らにある娘のほうを見やり、よりいっそう面白げな顔つきとなる。
しかしその海色の眼には、秘めても秘めきれぬほど鮮やかな怒気が潜んでいる。
「どこかで見た顔だ。さあ、どこでお見かけしたのだったか、あれはいつぞやの、親善訪問の折だ。ラファタル王都の王城で」
「五年も前に名乗りあっただけの女の顔を、いまだに憶えているとは、さてはペンツェラルゼの皇太子、慢性的に深刻な女ひでりか?」
清楚な令嬢の顔に似合わぬ高圧的な口調。
「原因はその二重人格であろうよ」
嘲りを受けてゼーニッツの目元がゆがむ。
セデリィカは周囲の注意を惹く優雅さで片腕を掲げ、片手のひらに顔を隠した。
ゆっくりとした動作で、不可視の膜を剥ぎ取った。
変化に息を呑んだのは、ゼーニッツの周囲を固める兵士たちだけだ。
ゼーニッツはむしろ満足げであった。
崩れた幻影――現われた正体。
まやかしに覆われていたもの。
それはペンツェラルゼ皇太子ゼーニッツの仇敵と数えていい存在だ。
爽風に黒髪がなびく。
衆目を射抜くは、色素の薄い灰色の瞳――氷とも金属ともつかぬその色。
「サランファータ。――氷鉄姫」
会心の呟きはゼーニッツのものだった。
「さすがに〝導きを受ける者〟の目まで欺けるまいとは承知の上だよ。やあ、いい子ぶりっ子のゼーニッツ」
青く染めた唇で皮肉を紡ぐ。
その白い手には、《仮面》がある。
ラファタルの王女サランファータを開業医の娘セデリィカとすりかえる術は、リュクルスの《仮面》が成せるわざ。
彼の《仮面》には本来それほどの力がある。正しく使い道を引き出す者がこれまでいなかったというだけだ。また、隣家の医師マルローも、ラファタルに買収された協力者である。
サランファータは傍らのリュクルスに言った。
「さあ、どうする、御曹司。この場にはじまるのは対立だけだ。あなたが忌み嫌う不毛な対立」
「敵地にわざわざ忍び込むような真似を、君は、なぜ?」
最初セデリィカ・マルローとして彼に接触したのは優秀な間諜でもある腹心の侍女セデラァタだった。リュクルスに対する脅しという名の攻略ならば、セデラァタで充分だった。だがセデラァタを通じてサランファータはリュクルスに、セデラァタとサランファータが入れ替わるための《仮面》をつくらせた。彼の《闇ノ翼》としての力を計る為だ。
《仮面》は異能の力を発揮した。
《仮面》がその人格を喰らい、サランファータの姿は余人からは認識できないほど隠された。
豪胆なる氷鉄姫は珍奇なる体験を好奇心旺盛な子供のように楽しんだ。
ここ数ヶ月の〝お遊び〟は、《仮面》が喰いきれぬ部分にあるサランファータの本質的な性格によって説明がつく。
しかしたった今、ペンツェラルゼの地で敵軍に囲まれる危険に身を置くサランファータ姫の意図は何か?
「合理を欠く、ということかな? 《闇ノ翼》としてのご指導だろうか」
「いや……」
「裏をかくのも一つの合理だ。ゆえに《闇ノ翼》は卑怯と言われる」
言葉の端々に滲ませる圧倒的な余裕。それを訝しむ間もない。
氷鉄姫サランファータが、ある方角に視線を逸らした。
上方の雪原。山脈踏破をめざす強襲部隊の列である黒点。雪上の蟻は、ひととき前よりも数倍に数を増やしていた。
ペンツェラルゼの蟻を呑みこむ新手の大群によって。
「まさかだぞ――」
ゼーニッツが顔色を変えた。
「奇策というよりはな、奇遇と言ったほうが正しいかも知れぬ。ペンツェラルゼの皇太子ゼーニッツ。奇しくもそなたと妾の思いつきが、時期も同じく揃った結果だよ。高地民族をより多く抱えるペンツェラルゼに熟練の利があると見たのだろうが、ゆえにこそラファタルにはそちらの油断を突けるという利がある。兵の訓練に金と努力をかけるに足る利が、な」
「……面白いじゃねーか、このアマ」
「光栄の至りだな」
「だが、玉を奪っちまえばこちらの勝利だ」
「そう来るだろうとね」
サランファータはゆるりと白刃を抜いた。
「弱い者を嬲るのは趣味じゃねーな」
「弱いかどうかは、勝負の決めることではないか?」
「それもそーだぜ」
ゼーニッツは軽々と馬を下りた。
奇襲侵略作戦の陣頭指揮に訪れていた皇太子であるが、はからずも、まだ開かれぬ大戦の趨勢を決めかねない展開に迎えられた。
ゼーニッツの顔にも、サランファータのものと同じ余裕があふれる。
明らかに状況を楽しんで――むしろ歓喜しているかのように、端正な顔立ちを崩した。
ギィン。
間髪を入れず剣戟が火花を散らす。
氷鉄姫は小柄にして、齢も二十を越えない。体躯のみを比べれば豹と猫の差がある対決を、しかしリュクルスは無感情な眼で眺めた。
サランファータの武術的な資質はリュクルスに対する脅迫のときでも用いられたことがある。ゆえに、さほど不均衡な戦いでもないことを知っていた。
だが――。
ゼーニッツが牽き連れていた兵士たちは、横並びに長銃を構えて包囲を確実とする姿勢だ。
銃口の先はリュクルスにも向いている。
「御曹司よ。何を躊躇う」
舞い踊る剣。
サランファータの全身はさながら撓る鞭のごとし。
小手調べに来るゼーニッツを翻弄する足取りの合間から、氷鉄姫は苦言を放つ。
「この期に及んで臆病風かな?」
ラファタルにもペンツェラルゼにも――サランファータにもゼーニッツにも、義理はない。それどころか両者ともに、シーノンとリュクルスを翻弄した、二人にとっての敵だ。
それでもリュクルスは、その場に釘付けられていた。不可思議だと思った。サランファータの真意がわからない。それだけのことで、自由に踏み出せるはずの一歩にためらいがつのる。
ルクス屋敷での停滞した日々は、彼にとってそれしかないと確信できる選択の結果だった。
諦める、という選択だ……。
リュクルスの逡巡を察したように、サランファータが嗤う。
勝負の外へ気を散らすそのやりとりはゼーニッツへの挑発でもあった。
「人の顔色ばかり読んできたゆえだろうよ」
リュクルスの闇色の瞳が揺れた。
サランファータの嘲笑はそして切れ味を増す。
「情報が多ければ多いほど、打つべき手は選びやすくなる。まつりごともそうだ。だが御曹司、あなたは相手の心を視とおして逆にがんじがらめになり、自らの意志をほとんど捨ててしまったのだろう。それは本末転倒というものだよ」
リュクルスは思わず微笑した。
翼人は人を導き、人は翼人に導かれるという図式が、いまここでは逆転している。
……その通りだ。
視たくなくても視えてしまう人の心。思惑。それを傷つけないようにリュクルスは生きてきた。それに従うことでルクス屋敷での暮らしを守ろうとしてきた。冒険などしたことがない。シーノンと二人でいるためには必要がなかったから。
シーノンと二人でいるため――。
すべてはそのために。
「あなたはあなたのしたいようにすればいい――」
いつかセデラァタの顔をしたセデリィカとして口にした脅しを、サランファータが皮肉げに繰り返す。
「妾の思惑の範囲で」
情勢、という未来を読む才知に優れた氷鉄姫とて、万能の予言者ではありえない。意志を強くして動くとき、誰でも失敗の可能性を引き受けなければならない。
だが、人々は、誰でもそうして生きているのだ。
失えない大切なもののために。
卑怯で臆病なリュクルスを、失えない大切なものとして立っていてくれた人がいた。
「滅びの翼であることが怖かったんじゃない」
闇ノ翼をひろげ、リュクルスが前を向く。
すかさず号令が鳴り、兵士たちの銃口が照準を定める。
「僕はシーノンを傷つけるかもしれない自分の中の闇が怖かった。衝動に呑み込まれてしまうことが。滅びなんて、世界なんてどうでもよかった。そう思う自分の闇が恐ろしかった。……だけど君の言う通りだ、セデリィカ。《一極》の予言からは逃げられない。ただ流されているばかりでは」
放たれた銃弾はリュクルスに届く寸前、湧いた闇の霧にいずれも吸い込まれた。
翼人に人の武器はきかない。
漆黒の髪を風に乱し、《闇ノ翼》は飛翔した。
羽ばたく翼は常人には不可視のものだ。
兵士たちはもっと直接的な恐怖に直面していた。
彼らの足元が大きく変容していた。地面は底が抜けたように土の色をなくし、無限の鏡面と化していた。森林の腐葉土の堆積によって被われていた《嘆きの鏡》が、地中深くから彼らを見返した。
そこに映る己の姿に兵士たちは恐怖を抱いた。
映っているのは闇だった。
彼らの心の内側の闇だった。
彼らはそれが疑いようもなく自分自身の影であると一瞬にして悟った。その悟りこそが恐怖だった。
外向きの《仮面》を排した、本当の自分の姿――。
リュクルスは山脈を眼下とする上空に静止し、はじまりを告げた戦を見下ろした。鉛弾の飛び交う戦場は、上空まで野蛮な火薬の匂いをたなびかせていた。
血に染められつつある雪が失せ、戦場の下にも鏡が残酷な眸をひらく。
組み敷いたラファタル兵士の頸を銃剣で切りつけようとしていたペンツェラルゼ兵士が、もがく相手の頭上に見たもの。
――己を見つめる己の顔。
――生にしがみつき死を振り下ろす欲望の顔。
――兵士は恐怖に絶叫した。
雪原のあちこちで断末魔がこだまする。……削がれていく戦意の断末魔が。
リュクルスは閉じてしまいたくなる目を見開いて光景に向きあった。
兵士たちの恐怖と苦しみを引き起こした自分の力と向きあった。
鏡面に繰り広げられる光景は、人の心の闇を支配するリュクルス自身の姿だ。
それを受け止めた。
そしてリュクルスは、さらに大きく世界へ呼びかけた。




