ルクス屋敷のシーノン 2
ベルーナスはペンツェラルゼ帝国の中北部、アリョーズ山脈の麓に拓かれた高原の街である。
帝室離宮の膝元にあるその街は、風光明媚な景色を誇る観光地としても知られ、一年を通して賑わう。
夏になれば帝国貴族たちがこぞって避暑邸へやってきて、ベルーナスは社交の中心地となった。
今はまだ、春が色とりどりの生命力を世界にばらまいたばかりの季節である。
「いいお天気です」
聖峰オーベの頂が、青空を背景に、稜線をくっきりと見せていた。横庭で洗濯物を干し終わったシーノンが霊峰ごしの太陽を浴びながら伸びをしていると、敷地を囲う柵のむこうの道を、手を振りながらやってくる青年がいる。
「やあシーノン、大きなあくびでしたね。寝不足ですか?」
大きく伸びをした両のこぶしを隠しようがないまま、あたふたとシーノンは足踏みした。
「み、見られちゃったんですか。やだ……」
「見えちゃったんです。朝からの一仕事が終わってやれやれというところではないですか? そんな時にしゃっきりと効くユーカラのお茶を持ってきましたよ」
シーノンは裏木戸を開けて薬草園主のコリントを招じ入れた。
「まあ、いつもお気遣いありがとうございますコリントさん。じゃ、一緒にお茶にしてくださいです」
屋敷の正面に張り出したポーチへ回り、差し入れの自家製香茶を受け取った。コリントは布の鞄から届け物――屋敷の主人リュクルスのための薬草を幾束か取り出して、テーブルに並べた。ルクスの屋敷から目と鼻の先のところで薬草園を営むコリントは、二十歳を少し越したばかりの若者だ。大学で植物研究をしていた彼は土のいい土地を求めて一年前にベルーナスへ移ってきた。高原にしか育たない希少な植物を中心に育てている彼の研究は、リュクルスの健康にも恩恵を与えてくれていた。貧血、免疫力低下、動悸息切れ、コリントが薦めてくれる煎じ薬を飲み始めてから、リュクルスの諸症状は表れにくくなり、より生活が安定した気がする。
「リュクルス君は今日も地下室ですか?」
茶器を用意して出てきたシーノンに、コリントが訊く。
「いえ、お祭り用の依頼はすべて捌けたので、セデリィカお嬢様が今朝がたお迎えにいらっしゃいました」
セデリィカ・マルローは隣家に住まう開業医、マルロー医師の一人娘だ。
リュクルスの父である精神科医ルルス・ルクスとマルロー医師は母校が同じ旧友同士だった。長く親交は途絶えていたが、マルロー医師が帝都からベルーナスへ転居してきた偶然によって彼らは久しぶりによしみを結んだ。しかし交遊の時間は濃くも短かった。マルロー医師が隣家に住み始めたのが二年前。そして一年前、ルルス・ルクスは心臓の病で亡くなったからである。
マルロー医師は友の遺児であり自らの患者でもあるリュクルスを、親身に気遣い、よき相談相手として見守ってくれている。リュクルスへの好意は家族ぐるみのもので、セデリィカと彼との親しく爽やかな交際も、ほとんど両親公認と言ってよいものだ。
「それは寂しいですね」
不在を聞いたコリントがやや首を傾けて言ったので、シーノンはテーブルに両手の指をちょんと揃えて詫びた。
「ごめんなさいです」
「いえ、僕がじゃなくて君が」
「私がですか?」
コリントがうんうんと頷いたので、意味がわかりかねてシーノンはメガネの奥で怪訝にまばたく。ぱちくりと。
「そんなことないですよ。リュクルス様がやっと地下室から出てこられて、元気で楽しい時間を過ごされているならそれが一番ですから」
一陣の風が、カッコーの声を森林の梢から運んでくる。
「そうですか」
「そうなんです」
背中で一つに束ねたコリントの長髪を、日差しが飴菓子のようなてらてらした黄金色に灼いていた。美しい色彩に彩られた柔和で繊細な容貌と裏腹に、彼は学者然とした真面目くさった面持ちをして淡々と話を聞くことが多かった。
一方、黒ピンを張り巡らせたシーノンのひっつめ髪は、色気のない灰色で、そよ風に一筋さえも動かない。シーノンは銀縁のメガネを両手で直し、生真面目に会話の流れをお礼につなげた。
「コリントさんの薬草、本当に助かってます」
「リュクルス君、体調に特別変わった変化はないようですか?」
「前より良くなっている以外にですか? はい……、ないように見えるのですけど、帰ってらしたら訊いておきますね。でも、どうしてですか?」
「体質によっては、強く効き目が出過ぎて、かえって害になってしまうことがありますからね。いや、慎重を期すのが処方の基本というだけだから、気にしなくて大丈夫ですよ、シーノン」
シーノンがよほど怯えた顔をしていたのか、コリントは急いで言い足し、「目立って何もないなら安心してください」と頷いた。
「効き目が出過ぎると言えば、リュクルス君の作る仮面はどこでも大変な評判ですね」
「リュクルス様はどこまでも手を抜こうとしないし、心身を削るように一個一個丹念に作業してますから、そりゃあそうだろうと思います」
自分のことのように誇らしく答えてから、「でも……」、とシーノンは前掛けの裾を握る。
「ちょっと心配なんですよ。このまま人気が続いて大人気になって、お客さんがどんどん増えたら、リュクルス様、もたないんじゃないかって」
「何しろ他に代わりのいない、第一人者の息子さんですからね」
精神科医ルルス・ルクスが帝都での教職時代に初めて研究発表した《仮面心理学》は、学界では現在でもキワモノの扱いがされているそうだ。
ルルス・ルクスによれば、人の心の中には幾つもの人格が潜んでいるという。
大元の自分から派生したそれらの人格は、仮面のように入れかわり立ちかわり意識の表面をたゆたい、生活の場面場面で、感情や行動の主導権を争っている。
〈怯懦〉と〈虚栄〉を両脇に従えた〈カラ威張り〉の仮面がケンカを売ることもあれば、〈打算〉と〈卑怯〉を押しのけて〈勇気〉が人助けの行動を取らせることもある。一人の人間の中でたえず仮面は回転しながら蠢いている、というわけだ。
《仮面療法》とは、心の悩みを抱えた人に有効な性格矯正法としてルルス・ルクスが考案した心理療法で、一種の暗示法だ。
たとえば不眠症を訴える人には、神経質な性情を抑えるために、〈大らか〉で〈どっしりと構えた〉〈楽観主義者〉の仮面を処方する。怠け癖のために仕事が長く続かない人には、〈勤勉〉で〈かつかつした〉、〈計算高い人物〉の仮面を。時間をかけた面談によって、唯一その人ひとりに合った配合の仮面を描き出して作成し、就寝時にそれを着けて眠ってもらう。すると患者の心の中で無意識の意識改革が起こって、諸症状および欠点は改善するというわけだ。
この方法で悩みを克服した患者は、精神科医ルルス・ルクスを世紀の大先生と信奉した。
だが一般的な評価で言えば、希代のペテン師と偏見をもつ人のほうが多い。
ルルス・ルクスが高原の地ベルーナスに心療研究所を構えたのも、論争の渦中に置かれて研究に没頭できなくなることを嫌ったからだ。
「聞くところによると、博士の《仮面療法》が効果を上げ始めたのは、リュクルス君が仮面製作を手伝いだしてからだそうですね」
「旦那様は絵心のなさにかけて残念な方でしたのです……」
外で遊ぶ体力のない子供にはありがちなことだが、リュクルスは室内で絵を描いたり、木片から動物や太陽や〈翼人の翼〉を彫り出したりするのが幼い頃から好きで、得意だった。だが彼の才能はありがちなものではなかった。印象をとらえる能力において天才的で、それはルクス博士の仮面作りにとても役立ち、病弱で気弱だったリュクルス少年自身にも自尊心を与えた。
「私がこちらに居着いた頃にはもう、リュクルス様は仮面作りの達人でらっしゃいました。いつもお二人で、仲良く相談されながら一枚の仮面を作ってらっしゃいました。でも、旦那様がお亡くなりになってからです、あんなに熱心に患者さんと向き合うようになられて、まるで、そうすることが、急死された旦那様のご無念を晴らす道であるみたいに……」
あるいは、父とのつながりを失いたくないように、リュクルスは必死で博士の遺した《仮面療法》を守って、心療研究所に患者を迎え続けている。
だけど時折リュクルスは、特に仮面を渡して患者を見送ったあとなどに、とても不安げな顔をした。
「あんまり心配性すぎると、シーノン、きみもリュクルス君の患者にならなければいけなくなってしまいますよ」
少し離れた隣から、首をかしげて、コリントがシーノンを覗き込むように言った。
「き、気を付けます……」
シーノンは青い若葉の香りがする朱金色のお茶を、両手に包んだカップから啜った。
その様子をコリントは、いっそう深刻な懸念を抱えるようなまなざしで、じっと見つめていた。
「考えたことはありますか。シーノン、君だっていつまでもリュクルス君のそばにいられるとは限らない――」
石でも投げ付けられたようにシーノンの心臓がびくりとした。
戸惑ってコリントの瞳を見つめ返す。
一年来、近所付き合いの中で親しくなり、その知識の世話になってきた青年の、いつになく鋭い一言に驚いた。
コリントは途中で言葉を切り、その先を続けることを躊躇っているようだった。
ふと、聞こえてきた音にコリントの視線が外れる。
「おや……うちにもお客がきたようです」
彼は通りの向こうを見やって、渋面をつくった。その表情もまた、彼にしては珍しいものだ。
シーノンは土煙を上げながら近づいてきた馬車に、眼鏡を押し上げて見入った。それは、ベルーナスの街ならばともかく、この辺りでは滅多に目にするわけもないような、豪奢な四頭立ての馬車だった。
ルクス心療研究所にも貴人が相談を持って訪れることはあるが、世間体に関わるだけに、彼らはお忍びの質素な馬車に乗って来る。
屋敷の前の道を通り過ぎるとき、窓に下ろされた覆いの高貴な深紅色が印象的に目に焼きつく。
立ち上がったコリントの顔にはいつもの温和さが戻っていた。
彼は見送りに立とうとするシーノンを仕草で押し止どめ、「それじゃあせめて持ってってください」とシーノンがナプキンに包んだ焼き菓子を薬草の代金とともに受け取ると、わざとらしく説教じみた顔つきで言った。
「君もあんまり寝不足をしてはいけませんよ。ほどほどにね。でないとイイコダネムレル草を処方しますから」
「ほわ?」
「架空の草ですが」
シーノンは手を振って去る青年の後ろ姿を、取り残されるように見送った。