覚醒する翼 1
――君が《闇の王》となることは、シーノンの望みではない
手にした漆黒の仮面を見つめ、リュクルスは自ら彫りあげた顔と向きあった。
この《仮面》をつくるとき、リュクルスを翻弄した思い。
逡巡。
正体を抉られる苦しみ。
断ち切れない希求心。
何度も叩き壊そうとして、ついぞ手放すことのできないまま。
「僕だって望んでいない……」
作業の最後に嵌め込んだオニキスの両眼が、嘲笑うようにゆらりと光る。
頭上が騒がしくなった気がして、リュクルスは気配を仰いだ。気のせいではない。石造りの建物――山岳の地下に埋められた地下牢の内部で、複数の足音が忙しなく乱れ、交錯している。唯一の出入口である階段づたいに響く、看守兵の叫び。
「たかが烏の一匹……! 烏は撃て! 女は拘束だ! 女を絶対に地下へ通すな!」
夜をひるがえすような羽音。
追いすがる看守兵の怒声を置き去りに、カンカンカンと靴音高く誰かが降りてくる。
火影が揺らめく。
「……ここにいたのね」
「セデリィカ――」
清楚な開業医の娘が鉄格子に指をからめた。
「誰が許したかしら? 私の眼の届くところを離れてもいいと?」
蜜色の髪をさらりと流し、首をかしげる。光り輝く瞳が挑戦的にきらめいた。
「どうやって……」
「本来ならばあなたの部下だわ」
指し示した通路の奥から、羽ばたきの音がする。
壁に巨大な影を映しながらそれは、はさはさと漆黒の羽を鳴らして遊弋し、ひらりと地に舞い降りた。
闇色の烏が一瞬にして姿を消し、一人の人間のかたちをとる。
「――」
リュクルスと瓜二つの青年がそこに立っていた。
「御姿をまねる無礼をおゆるしください。今は、この姿にて失礼致します。御曹司」
「……やめてくれ……君たちは……」
リュクルスは壁際に座したまま、喉の奥に言葉をひきつらせる。
「まだ現実を認めずに駄々をこねるつもりなのかしら。優柔不断な男ね」
「君たちは……」
「お迎えよ、リュクルス。迎えにきたの」
「セデリィカ、もう脅しはきかないよ。君の手の届くところにシーノンはいない」
首を振ったリュクルスに、セデリィカは一段上に立つような凪いだ顔つきで言葉を投げかける。
「あの娘が今どこでどうなっているか知っている?」
「……」
リュクルスが口を結んだ。
「ゼーニッツに囚われているわよ。とてもつらい状況だわ。肉体的にね」
確信的な女の瞳がリュクルスを追い詰める。
ゼーニッツ皇太子が人当たりのよい表面どおりの人間ではないことは、コリントによって示唆される前からリュクルスは知っている。視るともなく、少なくともゼーニッツの望みが《王者の仮面》を処方されることでないことは明らかに感じていた。
「人が、炎の中では生きられないのと同じことよ。不完全なシーノンは《光ノ翼》の結界の中では息もできない苦しみを味わうのですって」
「どうして……」
「私はあなたの力が世界の鍵だと思っているけれど、ゼーニッツのほうはシーノンを鍵と見ている。彼女の力を引き出そうとして苦しめているの。彼女、耐えられるのかしら。死んでしまうかもしれないわね。でも、彼女のことだから、死んでも逃げ出そうとはしないでしょうね。あなたが質に取られているから」
リュクルスは床に拳を打ちつける。
痛みをまったく感じない。
今こそ痛みが欲しいのに。
「彼女を救えるのはあなたしかいない。《闇ノ翼》として目覚めたあなただけが、負荷の牢獄から彼女を解き放てる」
リュクルスは首を反らして天井をあおぎ、眼をとじた。
「どうして僕たちが……」
《闇ノ翼》と、《光ノ翼》。
ただの一度も、二人とも、そのつもりで接したことなどない。
真実を容れる余地のないほどの現実に、二人は身を寄せ、閉じこもっていた。
すべて、《闇ノ翼》の王の計画どおりに。
それゆえに。
なぜと問うことは許されない。
でも。
「ぜんぶが偽りだったとしても――」
面影に、胸が灼けつく。
彼女の温もりを失った胸が。
喪失を痛みに変換しながら、軋んだ。
「シーノン」
彼女は、リュクルスに隠した真の姿で、夜毎に襲いくる者たちと戦っていた。リュクルスの前ではそぶりも見せずに。けれど、リュクルスには視えていた。視ずにいられなかった。彼女の心は、いくつもの怯えを抱えていた。人ならざる自分への怯え。リュクルスに正体を知られることへの怯え。戦うことへの怯え。そして――変身を重ねるうちに人ならざる自分を確定させてしまうのではないかという、怯え。
彼女はいつも、不安と戦っていた。
たった一人で。
ただ一つのものを守るために、果敢に立ち向かっていた。
「僕は」
鉄格子の外から、セデリィカのさえざえとした視線が石の上の《仮面》に注がれている。
リュクルスが放りだした、リュクルスの顔。
本当の姿。
――君が《闇の王》となることは、シーノンの望みではない
シーノンはたった一つ、何を守っていたのか。
リュクルスは汗に濡れた手のひらをのろのろと石床にすべらせた。
勝利を予感するセデリィカが視界の隅で凄然と笑む。
もうすぐ指のとどく先で、彼自身の心の闇が、哄笑のあぎとをあけて待ち構えていた。
蒸した地下牢の空気のなか。異質な、ひやりと冷たい《仮面》の肌。その額に触れる。漆黒の塗装の下の頭脳には、情のない卑怯な合理性が詰まっているのだ。
《闇ノ翼》とはそういうものだ。
まして、《闇ノ翼の王》を継ぐ者の本質は――。
「ごめん、シーノン」
呟きの裏側に、心の雫をこぼす。
だがリュクルスの頬は乾いていた。
《仮面》を、掴む。
風の入らぬはずの地下牢に、旋風がさかまく。
炎に赤らむ薄闇で、残らず光を塗りつぶす闇が生まれる。
まったきの闇。
闇のなかで輪郭を浮かばせるリュクルスが、手にした《仮面》を我が身に被せた。
揺れる漆黒の髪。そのぬばたまに触れた箇所から《仮面》の闇色は熔け、かたちをなくした。
ひろがる翼。
――闇の翼。
青白き横顔に、ひととき前までの儚く優しげな青年の面影はみつからない。
病質のものだった肌色は、冷然とした蒼白さに塗り替えられ、両の瞳は、迷いを切り捨てて凍りついた。
王者の衣をまつろわせ、彼は鉄格子をすりぬける。
「お待ち申し上げていた。我らラファタルの民を導くものよ」
満足げなセデリィカが恭しく手を差しだした。
闇の御曹司から返された視線は、路傍の石を見やるほどの無感情。
「行くべきところがある」
「ええ、承知している」
不敵に娘は笑う。撹乱の先鋒をつとめる《闇ノ翼》の配下を先にたたせて、セデリィカは闇の支配者の一歩に祝福の礼をとった。
うつむく闇の御曹司の表情は深遠なる影に隠される。
高貴なる翼の響きが、畏怖を呼んだ。




