王の計画 1
とうに三日が過ぎて、じりじりとした気持ちを抱えながらながら七日が経っても、ゼーニッツ皇太子の帰還の報はなかった。
ゼーニッツがいなければ、リュクルスがどうしているかの情報も、シーノンの元には入ってこない。
生きた心地がしなかった。侍女といえど主が不在ならば仕事もない。夢のように調度品の整った贅沢な部屋で、身体を休めて過ごす日々だ。なのに、リュクルスのそばでせっせと働いていた日々のほうがよほどシーノンの気持ちは幸せで、疲れも知らずにいきいきと生きていたのだ。
知りたいことはわからないのに、聞きたくない噂はすぐに耳に届いた。村の名前。火事の噂。家が焼け落ちた。死人は出ていない。空き家が放火されたらしい――。暇を持て余す侍女たちが、下働きの者から聞いた話をお喋りの肴にし、つまらなそうにあくびをかみころす。
……ルクス屋敷に違いない。
(工房が……)
ルクス博士の診療室、地下の作業場、博士の遺品である資料すべて――。
灰にされてしまったのだろう。
(戻る家がない。リュクルス様を、迎える家がない)
いいや、そんなことよりも。
(もしもこのまま――)
火を放たれて、焼け落ちる屋敷のイメージが脳裏にまざまざと浮かぶ。あるはずもない罪が、本当のことになってしまうようで恐ろしい。少なくとも村人の中では本当のことなのだ。本当の疑いなのだ。
もし、誰の弁護も頼めずに、リュクルスの罪がこのまま確定してしまったら。
異端の術を繰り返し使って大衆を扇動しようと企む者は、死刑になる。
(――いやです!)
シーノンは、いてもたってもいられない。
気が付けば、がらんどうの東翼に来ていた。
人の寄りつかない、使われていない建物の中ならば。
「ロッコお願い、変身しますです……っ」
庭園側の回廊から入ってすぐの、がらんとした広間に一人立ち、眼鏡を外す――。
『そら来た! そら来た! 出番でやんすね!』
張りきる純白のわたきれがすいすいと目線まで飛翔する。ロッコをシーノンはわっしと掴んで、胸に抱いた。拡がる光に包まれ、つま先が宙に浮く。重力から解き放たれた身体は蛹のように丸まってくるりと回転し――。
(翼――)
ロッコの力で変容し、背中の翼をひろげれば、リュクルスの囚われる街の牢までひとっ飛びに辿り着ける。すでに日は落ちているから、夜闇にまぎれて、屋根に降り立ち、煙突から入っていけば……。
(一度も翼で飛んでみたことないんですけど)
次の瞬間シーノンはハッとして床を求めた。
「ロッコごめん、変身できない! 人の気配がします……!」
『そない、殺生なぁ!』
光の繭を失って尻から落下したシーノンは、派手に音を立てた。打った腰をさすりながら、落ちている眼鏡まで這っていって拾い上げたところで、サロンになっている奥の薄暗がりを駆けていく見知らぬ侍女たちの横顔が見えた。
「東翼に……誰かいるんですか……?」
侍女たちが向かっていったのは、対称な造りの西棟にてらせば、皇族や招待客が使う居室の集まっている方角だ。
ただならぬ様子も気になって、シーノンは侍女たちの足音をそっと追いかけた。
「お熱がずっと下がらなくてらっしゃるの」
「お脈は」
「百より多いの。呼吸もひどい音がして……」
大小のサロンを通り抜けた最奥の部屋の手前で、控えの侍女たちが会話を交わす。
「大丈夫よ。だって、ファニッツ殿下にはあの方がついてらっしゃるわ」
(ファニッツ……)
シーノンは影の中でその名前に目をみひらく。
「皇后様は明日どうしても帝都にお戻りにならなければならないの。とても離れられないとおっしゃっておいでだけれど、ご公務ですもの……ああ」
それまで落ち着いた声で状況を伝えていた侍女が涙に言葉を詰まらせる。
(ファニッツ、第二皇子殿下……。どういうこと?)
「皇后様の小寝台を運びます。手伝って」
侍女たちが別の出入り口から出ていくと、シーノンは控えの間に忍び入った。
妙な予感に突き動かされていた。
寝室につながる通路を抜け、暗くされている部屋を覗き込んだ。
天蓋のない寝台。油燈のなげかける柔らかな光のもとで、高熱にうかされる少年が苦しげに首をよじる。
(……あの子)
湖の空中庭園で出会った、彼だ――。
「おまえ、シーノン……?」
別の方向からかけられた声に身をすくめた。
隠れることさえ忘れてしまっていたと気づいても、遅い。
二度目の驚きは、声の主の容貌だ。
「お、“おねえさま”……?」
寝台の端に腰掛けて少年の手を握る女性は、まぎれもなく夜毎リュクルスを襲いに来る《光ノ翼》の女たちの長姉その人だった。
けれど今その人の背中に翼は見えず、眩しいばかりの光輝も仕舞われている。
何より、シーノンが遮断のための眼鏡をしていてもその姿が捉えられる。
「きみだね……」
かそけく振り絞る声。
少年はさまよわせた視線の先にシーノンを見つけ、震えながらもしっかりとこちらを見つめていた。
手を握る女性が驚いたように少年を振り返る。
「ファニッツ?」
「ヴーリエン、あなたに似てるよね、彼女は」
弱った声に、それでも純粋な疑問をのせて少年が言う。
「ねえ、母上。似ていますよね」
足元でファニッツ皇子の足をさすっていた女性――皇后が、シーノンと同じかたちの眼鏡の奥の理知的な瞳を向けてくる。
「本当ねえ」
すると、ヴーリエンと呼ばれる美しい翼人の女性は、ばつが悪そうな顔をやや明後日にそむけた。
ためらいのあとに答える。
「妹ですの。生まれ落ちてすぐ行方不明になってわたくしたちと生き別れて、いつのまにか敵方についていた不肖の妹ですわ。頑固で言うことを聞かない、自分勝手な子なんです」
シーノンは息を呑んで、両手を握った。
「嘘……」
「嘘ではないわよ。わたくしがどうしてそんな情けない嘘をつかなければならないの」
「《光ノ翼》は嘘をつかないよね……」
ひどい咳をしながらファニッツ皇子が笑った。
シーノンの膝も笑う。身体も、心も、頭も、震えを走らせる。受け入れられない事実だった。あるわけがない、そんなこと――。
「嘘です……」
「嘘ではないのよ。お前はわたくしたちの妹。《光ノ翼》の末妹。もっとも年若き者――。お前の大事な《闇ノ翼》の御曹司とは生まれついての敵同士なのよ。お兄様にそれだけは固く口止めされていたから……」
憐れみのためかヴーリエンはほんの僅かに瞳を伏せて、すべてを明かした。
「嘘ですよ!」
シーノンは混乱と絶望に惑い、身をひるがえした。




