やさしい嘘の花園で 4
「海峡に第二艦隊、第三艦隊を出せ。状況は抜き差しならぬ。ペンツェラルゼのゼーニッツが、俄かになりふりかまわぬ動きに出てきているからな。そうとなればわざと先手を打たせるつもりで備えておかねばならぬ」
若く美しき摂政の、凛とよく通る声に心ごと身を伏す重臣たち。
冠から垂れる墨色のベールの奥で、温度をもたぬ静謐な白色の顔が彼らを見下ろす。
「ですが、艦隊出動による海峡封鎖となるとやや尚早では……」
「そう思うか?」
ベール越しにも、瑠璃の練粉の塗られた唇はにやりと笑んで、合図する片手が手元に書状を取り寄せた。数分前から取り次ぎの者はとばりの影に待機していた。それは至急な報告の文だ。
「読んでみるがいい」
宰相が進み出てそれを受け取り、読み上げた。
「“ペンツェラルゼ帝国陸軍に増強の動きあり。新設の山岳強襲部隊は我が国王都後背からの侵入を意図したものと考えられ、奇襲開戦の懸念高まる”」
「なんと……」
重臣たちの間に驚愕がひろがる。
「敵がこちらの背中に手を伸ばすなら、こちらはいつでもあちらの尾を踏めるようにしておかなければな」
レタレース大陸の玄関港タレスにいたる海峡封鎖はペンツェラルゼ領にとって貿易路の限定につながる痛手となる。ペンツェラルゼ自体は東の外海路によって生命線を担えるが、特にジレアン公国以下の小国にとって、経済に打撃が予想される事態だ。ラファタルとペンツェラルゼのどちらにつくのが国のためか、再度の熟慮に迫られよう。それだけでもペンツェラルゼへの牽制には充分だ。
「妾とて、戦は望まぬがな」
つゆとも悲嘆の色など見せずにのたまった。彼女のまなざしはどこまでも合理を追い、年頃らしい情感を欠く。齢を何倍する老獪な重臣たちにすら、心情の奥底を読ませぬ。
怠惰と無能で知られるラファタル国王の、有能で果敢なる摂政。
一ノ王女サランファータ。
――二つ名を氷鉄の姫という。
「子細は宰相、よきに計らえよ」
サランファータ姫は遥かな年長者たちへの信頼を見せて、会議を早々と切り上げた。
◇◇◇
「久方ぶりの重大なご采配、お疲れになったのではありませんか」
自室へ辿り着くと、一の侍女であり腹心たる娘が、サランファータから重荷である冠を取り上げる。黒塗りの籐の寝椅子へ腰を落とし、旧友に挨拶するようにサランファータは寝椅子の背もたれを叩いた。
「そうでもない。やはり慣れた椅子が一番だ」
「姫様らしいお言葉ですわ」
背にまわって侍女セデラァタが主の乱れた黒髪を梳く。
「らしいというのは大事なことだ。戦に負ければラファタルはラファタルらしさを奪われよう。《光ノ翼》に完全世界の主導権を取られれば《闇ノ翼》は《闇ノ翼》でいられまい。ここが踏ん張りどころというものだよ。それにしても……」
サランファータはセデラァタの優しい手から開放されると寝椅子に手足を伸ばして子供のように寝転んだ。
キィと鳴きながら小さな獣が寄ってくる。
レタレース大陸の密林に棲む手長猿が、黄色の毛のふさふさとした長い腕で茶卓の皿から豆菓子をとり、片腕で椅子の縁をのぼり、サランファータの口に運んで押し込んだ。
小さな頭を撫でられて猿はくりくりと目玉をめぐらせる。
それでサランファータ姫の表情はようやく和んだ。
と思うと、それまで蓋されていた感情に火がついたように、その黒曜石の瞳はらんらんと輝きはじめる。
わざと青みを入れた白粉の化粧にも隠しきれぬ薔薇色のほおを膨らませて、サランファータ姫は寝椅子の背を拳で打つ。
「口惜しい。あれが手に入るまで、あと少しであったものをな――」




