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やさしい嘘の花園で 3

『シーノン、シーノン、ヒモのところへ行きまっしょい! 行きまっしょい!』

 花粉に汚れたメガネを拭こうと外した隙に、焦りに焦りを重ねたロッコの叫びが耳を打つ。

 離宮の両翼に抱えられるように横たわる湖から、さざなみを渡ってきた湿り気のある風が吹いてロッコを翻弄した。水上の空中庭園に、シーノン以外の人影はない。幾何学的に配置された花壇と噴水。規模も整い方も違えど、この場所に来るとルクス屋敷の庭の花々のことを思い出してしまう。だが、自然に足が向くのもこの場所だ。

『さあ行きまっしょいなー!』

「ロッコ、ロッコねえ落ち着いて。ヒモって何なの?」

『ヒモはヒモに決まってまっせ! あんさんオトボケになっちゃあきまへん!』

 ばたばたばた、と純白のわたきれ(・・・・)は、誇り高く咲く水仙の林をぬってふらふら飛んだ。

『あんさんがあんひとにお捧げになった(ヒモ)でっせえ』

「私が、誰に……?」

 さっぱりロッコの話はわからない。裸眼になると騒がしく足元に纏わりついて喋っているのが見えて聞こえるのはいつものことだが、今までこんなに不可解なことを言い出したりはしなかったのに。

 ロッコがヒモ(・・)がどうのと言いはじめたのは、たしか、祝祭の日が初めてだ。あの時、急にシーノンを離れて飛んでいってしまったロッコを追いかけていたら、リュクルスに掴まえられて――。

『紐さえあったら、シーノンは生まれたお城に帰れまんねん!』

「お城……?」

 ますます話が謎めいてきた。シーノンがどこに帰れるというのだ。シーノンが元いたところは暗い暗い暗くて寒い牢屋の中だ。

 リュクルスがいま閉じ込められているような……。

『ばってん、紐がなかんば、あんおひとのお命は儚うおなりもうす』

 ばたばた、ばたばた、風と一緒になって花を散らして、ロッコがすました声音で言う。

 花びらが強風に流れて渦を巻き、シーノンの頬をなぶった。

『だけんども、ほんとうならば、あんおひとはとっくに亡うなってるんが天の定め』

「とっくに……? 誰、が……?」

 湖上庭園の柱廊に、ひゅううと音を鳴らしながら強風が吹き抜けた。

 背後に小さなくしゃみが聞こえた。シーノンはびっくりして振り返る。

「ねえ、きみ、だれ……?」

 日差しに前髪を光らせて眩しそうに目を細める少年が、噴水の向こうに立っていた。

 ひさしにして掲げる手の甲に血管が透けて見える。

 青白い顔の中の色素の薄い瞳。

 その瞳は怪訝そうでいて、好奇心と警戒をあらわに浮かべている。

 暖かそうだけれど重そうなガウンを引きずって、いくらか頼りない足取りで近づいてきた。

「私……」

 シーノンは眼鏡をかけた。

「その眼鏡、母上と同じだ」

 少年がひょいと指さして言う。

 骸骨みたいに細い手首が袖から覗いた。

「皇太子殿下にいただいたものなのです」

「ああ、そうなんだ」

「あの……」

「いま誰かと話してた?」

「いえ! ……いえあの、ぜんぜん誰とも話してないですよ、ぜんぜん」

「じゃあ独り言?」

 背丈よりも幼く見える仕草で首をかしげる。

「はいあの、癖なんです……」

「なんだ」

「え?」

 ひどく興をそがれたように少年は視線を明後日へ投げた。今度のそれは背丈より大人びて見える仕草だった。

「この世のものではないものと話してたのかと思ったんだ。例えば精霊とか、幽霊とかね。もしかしたら《一極》とかさ」

「《一極》様と……お話ができたら、《光矢ノ乙女》になっちゃいますね」

「僕の知っている翼人はね、《一極》に会ったことないって言うけれど、本当かどうかわからないよ。女は嘘つきだからね。翼人も人間も、女は優しい嘘をつく。男は卑怯な嘘をつくんだ」

「はあ」

 一迅の風が吹いて、少年が咳き込んだ。

 シーノンは病的につづくその咳を見て、少年のそばに駆け寄った。

 華奢な肩を支えると、恥じ入るように顔半分をそむけて隠しながら、シーノンの腕を掴んで、容赦なく襲う発作に耐えた。

「《一極》と話せるならね……訊いてみたいことがあるんだ……。どうして僕の周りの人間たちが、僕のせいで嘘をつかなきゃいけないような、こんな僕を、この世に置いておくのかって。《光ノ翼》は嘘を禁じているじゃないか。嘘は罪なんだよ。僕は罪を誘い出すために生きてるようなものなんだ。僕は害悪だよ」

「どんな嘘――」

 聞こうとして、言葉を失う。

 押さえていた口元から剥がされた少年の手のひらは、鮮血にべったりと濡れていた。命の断末魔のような朱色が、庭園の咲きどきの花より鮮やかに咲いていた。

「……嘘、なんですかね」

 シーノンが唇から零した呟きに、少年は顔を上げる。

「嘘なんでしょうか。希望なんじゃないですか?」

 ほとんど無意識のうちにシーノンはハンカチを出して少年の口元にあてがう。

「信じていたい希望なんじゃないでしょうか? その人たちにとっての……」

 シーノンには覚えがある。あり過ぎるほどにある。

 無責任な嘘になることを恐れつつも、そうとしか言えない楽観(きぼう)を、何度も、何度も、リュクルスの前でくりかえしてきた。


――きっと明日には熱が下がります

――お薬を飲んで、ゆっくりおやすみになったら楽になってますからね

――ご本を我慢しておやすみになったら、早くお庭に出られますよ

――きっとリュクルス様は大丈夫です!


 全部、全部、全部、明日の保証などできはしないシーノンが、それでもリュクルスに希望を持たせたくて言ってきたことだ。希望を力にしてほしくて。

 誰よりもシーノンが、一秒も早いリュクルスの回復を信じたくて。

 その言葉は本当になったこともあるけれど、大部分は嘘になってリュクルスを弱々しく微笑ませた。そう、決まってリュクルスのほうが、すまなそうに笑うのだ。

 シーノンは残酷なことをしていたのだろうか?

 空しい嘘で、リュクルスを傷つけていたのだろうか?

 この少年の心のように。

「そうか。じゃあ、口にした時にそれが嘘じゃなければ、教義にはひっかからないのかな?」

 きょろりと真面目な表情をして、少年が瞳の奥で考え考えしながら言う。

 急に覗かせた生真面目さが、小さな顔にむしろあどけない色を飾った。

「そうですね……、うん、そう、そうですよ!」

「なんだ、そうか」

「解決しましたね!」

「訊いてみるものだね」

「ですね」

 ぱちぱちと少年が長いまつげごと大きな瞳を瞬く。

 少年は出会ったころのリュクルスに少し似ている、とシーノンは思った。姿かたちがというよりも、その身に醸し出す雰囲気が。

 儚げで、折れそうで、けれども芯には譲らぬところを持っている、その瞳の強さが。

 ちょっと首をかたむけて、少年はシーノンの姿を上から下からまじまじと眺める。

「きみ、姉上(・・)がいたりしない?」

「いいえ、いませんけど……」

 なにしろシーノンは天涯孤独の身の上である。

 ――人ですら、ない。

「何だか僕の知っている彼女(・・)に雰囲気が似ているけれどね。でもあんまり公言しちゃいけないんだよね、翼のある彼女のことは」

 その時、庭園の入り口のほうから人を呼ばわって探しているようなさざめきが近づいてきた。

「いけない。見つからないように戻らないと」

 瞬間、溌剌とした少年らしい表情で舌を出し、シーノンの元から離れて駆け出した。

「じゃあね」

 赤みがかった金色の髪を風にひるがえして少年は柱廊へ消えていった。

 ぽつんと取り残されてから、シーノンは我に返るようにその疑問に立ち返った。

 ――彼はいったい誰だったのだろう。


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