やさしい嘘の花園で 2
『こちらで働かせていただきたいんです。私、シーノンと言います。北部にお住まいの××××教授の紹介で来ました……。私、ほかに行く所がないんです』
七年前の、その日のことをシーノンは思い出していた。
まだ十になったばかりのシーノンが、痩せ細った体で背伸びしてルクス屋敷の玄関を叩いたときのこと。
ルクス博士は、名前に覚えのない教授の紹介のことよりも、ぎょろぎょろとみじめな目をした少女に暖炉の前でパンとスープの食事をとらせることを優先して彼女を招き入れた。
雇う雇わないはともかく、せっかくここまで歩いて旅してきたぶんの駄賃はそうして払うべきだからだった。
『でも君は主婦をするには小さ過ぎるんじゃないかなあ』
しかしルクス博士のおひとよしな性格は、リュクルスの件でもわかるとおりだ。一度でも縁をもった弱い者を突き放すことができない。博士の研究だって元々は、人の悩みをほうっておけない性格から始まっていることだった。
シーノンが自分で縫い上げた木綿のエプロンを、初めて身につけてきゅっと腰紐を結んだ日。
『ずいぶん上手に縫うんだね』
ひとつ年上のリュクルスが、ぴりっとしたシーノンの様子に感心と羨望を込めたまなざしを向け、それまでの人見知りな態度を解いて話しかけてきた。
『たくさん練習したんです!』
それが彼との初めてのやりとり。
◇◇◇
「あの、これ、こんな……」
さらりと冷たい絹地の衣装を頭からすっぽり被せられて、シーノンは息を詰まらせた。
身も心もちぢこまるような心地がした。
すうすうと隙間が空きすぎた衣装は落ち着かない。ぴっちりした実用的な服に慣れていた身体にとっては。どうにもこうにも……。
衣装部屋へ来るまえには温泉に浸けられ、のぼせるまで洗い上げられた。湯気でまっしろに曇ったメガネが乾いて晴れたら、目の覚める萌黄色のドレスを纏わされていた。
いつもの地味なお仕着せとは天と地ほど明度に差がある――それは貴婦人が身に纏うドレスではないか。
「私、侍女をさせてもらいにきたのですけど……」
「ええ。そうですね。ですから?」
「ですから、あの、侍女のお仕着せを……」
「お仕着せ? そんなものなくってよ。下働きの下女じゃあるまいし」
だいたい突然皇太子の肝入りで連れてこられて何なのこの子はどこの馬の骨でらっしゃるの、という態度を隠さずに、お人形さんのような顔をした若い侍女がドレスの裾の襞を整えながらじろじろと見上げてくる。
背後からもう一人が髪に櫛を入れて引っ張りまくる。頭皮の痛さに涙が出てくる。
「あら……」
「な、なんですか?」
「何ていう色の髪なの。まるで聖峰オーべの頂に積もる銀雪みたいね。あなた、登ってごらんになったことあるかしら」
「いえ、ないです……。そうなんですか、ちょっとがっかりです……」
聖峰オーベの銀雪は荘厳な美しさで知られるが、実際はそんなに地味な景色なのか……シーノンは肩を落とした。
「あなた、行儀作法は大丈夫なの。まあ、皇太子殿下からはなるべく人前に出さないように申しつかっているけれど」
「ご迷惑はおかけしないです。得意なのは雑巾掛けと料理と片付けと花と菜園のお世話です。腕っ節仕事もどうぞどんどん言い付けて――」
白い目に囲まれてシーノンはたじろぐ。
「ぞうきんがけ? お料理? あなた、わたくしたちが一度でもそんなこと、この手でしたことがあると思って?」
心の底から呆れられてしまったようで、シーノンはひたすら小さくなる。
「下級貴族の使う侍女なら知りませんけれど?」
「す、すみませんです――」
「あら……」
年長の侍女が思わず溜息を洩らす。
メガネの曇りが消え、豊かな長い髪が肩に流れ、色めの明るくて仕立てのよいドレスに飾られたシーノンの姿は、連れてこられたときの地味メガネ家政婦とは似ても似つかぬものに変貌していたからである。
「ちょっと派手すぎるのじゃなくって? お化粧もしていませんのに」
ということで、きらきらと光をあつめる白銀の髪はしっとりと優雅なまとめ髪に結い上げられることとなり、清楚で品のある侍女が完成した。
サロンの片隅で宮廷式のお茶の支度の作法を教わっていると、ゼーニッツが顔を出した。
彼もまたシーノンの変身後を見て、感に堪えぬように瞳を細める。
「やっぱり、その眼鏡のほうがいいね」
シーノンは先輩侍女たちの真似をして丁寧なおじぎで答えた。
「リュクルス君だが、まだ市中の牢にいる。なるべく負担のないようにと、信頼できる者を通じて配慮しているが……」
「感謝いたします。あの、できれば……」
「会いたいよね。しかし今はちょっと、難しい。二、三日待ってくれるだろうか」
「はい、もちろん」
希望があれば、我慢はたやすい。
リュクルスにもそれを伝えられる方法があればいいのだが。
ベルーナスの離宮は聖峰オーべの膝元にあって、《光ノ翼》の翼を模して建てられている。
白亜の宮は東の棟、西の棟と別れて両翼をなす。
東の棟でなければどこへ行ってもいい、とゼーニッツに言われた。
東には何があるんですかと問うと、「何もないよ。人気がなくてがらんとしているだけだから、迷うといけない」ゼーニッツ皇太子はどこまでも親切だった。
その午後、ゼーニッツ皇太子は帝都に発った。
「いい知らせを持って帰ってくるから」
と、自信に満ちた誠実な顔で言い残した。




