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やさしい嘘の花園で 1

 夢から覚めない彼女の肩にそっと手が置かれる。

「シーノン、起きて」

「リュクルっ――」

 跳び起きるシーノンの目の前には、シーノンの主人のそれよりはるかに濃い青色の瞳をした、ゼーニッツ皇太子の心配顔があった。

 白んだ朝の中で、赤い髪が夕日を先取りするように輝いている。

「玄関の鍵が開いたままだった。いけないね」

「皇太子殿下、リュクルス様が……!」

 ここが殿下を招き入れるには無礼な廊下の奥であることも忘れて、シーノンは救い人にすがりつく。

 ゼーニッツは親身に膝をついてシーノンの慌てようを宥めた。

 肩に手をかけたまま、もう片方の手でシーノンの頭を撫でる。

「聞いている。申し訳ないことをした。あれは浅慮な行動をした私のせいなんだ」

「リュクルス様は、寒いとすぐ風邪を引いてしまうんです。牢なんかに閉じ込められていたら――」

「本当にすまない。私も一刻も早く彼の無実をあかしたい。君のためにもね、シーノン。しかし、問題が少し複雑なことになっていて……」

 そこでやっとシーノンは、やや落ち着きを取り戻しながらゼーニッツ皇太子の言葉を咀嚼しはじめる。

「複雑なこと?」

「そう。リュクルス君が逮捕されたのは私のせいだ。私の動きを嗅ぎつけた第二皇子ファニッツが、どうやら手を回したらしい。最終的には私の皇后への反逆心を捏造してでも暴き立てて、人気を失墜させようという考えだろう。ここで私がリュクルス君のために便宜を図ると、かえって彼と私にかけられている疑惑を証明することになってしまう」

「じゃあ……」

 リュクルスはどうすればいい。先の見えない不安にシーノンは震えた。

「大丈夫。焦らずに手を考えれば、必ず何とかなる。何とかするから」

 真摯な瞳をしてゼーニッツが言った。言葉では足りないと感じたように、ふいに彼の両手がシーノンを引き寄せる。抱き締められてシーノンは両目を見開いた。眼鏡がずれて、ロッコの羽ばたきが鼻先をかすめた。

 っくしょん!

「……すびばせん」

 盛大なくしゃみで身体が離れた隙に、急いでシーノンは下を向く。

「こんな場所で夜を明かすからだ。シーノン、離宮へ来てくれないか。屋敷に一人でいてはいけない」

 ゼーニッツはやりきれぬ顔で背後を振り返った。粉々の窓硝子の破片が落ちていた。投げ込まれた石の勢いのまま、そこまで散ったのだろう。真夜中にそんな音がしていた気がする。村人の苛立ちを感じる。

「そのほうが、つぶさに情報を聞かせられやすい。私の侍女に紛れてくれれば、君と話しているところを誰に見られても疑われずに済むしね」

 シーノンは迷いなく頷いていた。

 抱えられるように立って、ゼーニッツに従った。

 前庭に朝もやが流れる早朝。乗り込んだ馬車の中でシーノンがまたくしゃみをしたら、ゼーニッツ皇太子が手馴れた仕草で膝掛けをかけてくれた。あまりにさりげなく自然な手つきで膝掛けのすそを直すので、普段はリュクルスのためにそういうことをしているシーノンが面食らいながら感心してしまうほどだった。

「シーノンは、〈完全世界〉の神話を聞いたことがあるかい」

「《一極》さまが約束されたという……?」

「そう」

 窓枠に凭れるゼーニッツ皇太子の視線の先に、青々と天を刺す聖峰オーベがある。

「世界が滅びかけるとき、救いの鍵が世界を開く。いつか〈完全世界〉の鍵となる翼が生まれ落ちることを《一極》は予言している。だけど同時に、世界を滅ぼしかねない力を持つ翼も現れる。《一極》は常に二つのものを対立させる。対立の先に、双六(すごろく)でいう上がり(・・・)の場所を用意している。それが〈完全世界〉だ」

「みんな誰もが、健康で幸せになれるっていう……」

「そう。争いのない、平和な世界だ」

 生まれながらに人を説得する才能を賦与された声で、ゼーニッツは語る。

「海の向こうにあるという世界だ」

 大陸を囲む四方(よも)の海。

 南には、文字を持たない人々の住むレタレース大陸。レタレース大陸との交易は大陸を(うるお)し、造船技術の競争でもペンツェラルゼ、ラファタルの二大国にしのぎを削らせてきた。

 だが、どんなに船が進歩しても、辿り着けない場所があった。

 まだ地図に何もかかれていない未開の海――西と東に進路を取った船は、一艘たりとも帰還した例がない。それなのに海の果ての向こうからは、稀にだが、異人と呼ばれる黄金の肌をした人々を乗せた船が流れ着く。舌をとろかせる芳醇な酒の樽と、羽のように軽く暖かな虹色の毛色をした獣の毛皮を積み、船は嵐に流されてやってくる。

 黄金の肌をした異人は大陸に降りると数日のうちに病を得て死んでしまう。

「翼人の翼ですら辿り着けなかった、約束の地。勝者に与えられる豊饒の大地」

 ゼーニッツの瞳は、いつにも増して深く青く輝き、さざめいた。

 シーノンはそこに、紺碧の海を視た。

 瞳に宿す海の色が彼を憧れに導くのか、憧れが彼の瞳を海色に青くするのか。

 ゼーニッツの言葉には人を巻き込んで駆り立てるような熱がある。

「そういう世界に住んでみたくはない?」

「平和で、健康で……。本当にそんな世界があるなら、……リュクルス様がもう苦しい思いをしなくてすむなら……」

 ゼーニッツが両目を閉じる。

「君は優しいね、シーノン」

 急いでシーノンは首を振る。

 そうではない。シーノンがリュクルスの健康を願うのは、リュクルスが苦しむのをみることが辛い自分のためだ。

 逃げたくなるほど辛い自分のためだ――。

「僕らはまだ、片翼をとりかえせないまま、この不完全な〈半世界〉に囚われている」

 再び窓の外を眺め、遠くはるかな世界に向かって呟くようにゼーニッツは言った。

「また、醜い戦がはじまろうとしている」


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