ルクス屋敷のシーノン 1
高原の透きとおった陽が射す窓から、レースカーテンを揺らして冷涼な風がそよぎ入る。
ぴよぴよとセアカコマドリの輪唱がすぐ近くから聞こえる朝の診療室で、訥々として穏やかなリュクルスの声が説明をつづけた。
「おうちへ帰ったらご自分の部屋の目につくところに置いておけばいいです。前日の夜は一晩、これを顔に被って寝てください」
「なりたい自分になれますか……?」
少女の言葉に期待と不安がいりまじる。
「うん……。……信じれば、きっと」
少女は受けとった〈仮面〉を大事そうに両手にのせる。薄く削り出した木製の仮面。全体を白い肌色に塗られ、縦横無尽に重ねられたパステルの色彩。春の盛りの花畑のようなぬくもりのある華やかさで抽象的に描かれているのは、美しく恥じらう年頃の女性のおもて。
眼窩に嵌め込まれた楕円のぺリドットの薄緑色が、少女の瞳の色にとても近い。
「従姉妹のサーラに話したら、あなたも絶対に好きな人と近づけるって。去年の〈光ノ祈リノ大祭〉でサーラが旦那さんと出会ったみたいに。サーラが昨日もまた言ってたわ、あれはルクス工房の仮面のおかげだったのよって」
「そう言っていただけるのは、僕も嬉しいですが――」
「わたし、一度も自分から彼に話しかけたことがないんです。エリッケはいつも男の子仲間に囲まれているし、そうじゃなくてもわたし、男の子とは目を合わせるのも怖くて、でもエリッケは、そんなコソコソしたわたしに、親切にしてくれて……いいえ、荷物を持ってくれたりってだけなんですけど……そう、わたしが大袈裟に感じているだけかもしれない……」
「大丈夫ですよ、ミレアンさん。勇気を出して。きっと上手く誘えるし、楽しいダンスが踊れますから」
内気な村娘のミレアンは、布に包んだ仮面を後生大事そうに抱えて、リュクルスに感謝のあふれるお辞儀をし、診療室を出ていった。
入れ替わるように診療室へ入ってきたのは、ひっつめあたまに銀縁メガネのつるをひっかけた、この屋敷の家政婦である。
痩せた身体を濃紺のお仕着せにぴったりと包み、ぺったんこのエナメル靴でぺたぺたと壁際を移動する。
ちょっとの隙間もない袖口と首元には三連星のごとき金ボタンが鈍い輝きをはなち、やや時代がかった純白のエプロンとヘッドドレスは噛み応えがありそうなほどにバリっと糊がきいていた。
ブ厚いビン底メガネの奥で、家の中を汚すものなら蟻の足跡も見逃さぬ、という目がぎょろぎょろと動く。
手にした濡れ雑巾で窓枠を拭きながら、地味メガネ家政婦が〈光矢ノ乙女〉の聖歌を口ずさんでいると、後ろで吹き出して笑う声がした。
「ほえぇ……?」
あわてて振り返った家政婦が見出したのは、何やら瞳をなくして可笑しがっている主人リュクルスの姿である。
「シーノンまでが〈光ノ祈リノ大祭〉に浮かれ気味なんだね」
「はあぁ、お聞き苦しい歌なんかお聞かせしてしまって」
「ううん、シーノンの声は好きだよ」
恥じ入って畏まる家政婦の前でリュクルスは、座っている椅子の足元に散らばる木屑を手のひらで集めようとする。
「ああぁいけませんリュクルスさま、そんな掃除はシーノンがやっておきますからぁ」
家政婦は雑巾を掲げ、床に目がけてすっ飛んだ。
「せっかくシーノンがピカピカにしておいてくれるのに。削り屑が仮面の裏に残っていたんだな、汚してしまった。ごめんね」
「シーノンの仕事ですから。リュクルスさまはそろそろちゃんと休んでくださ――」
頭上でリュクルスがふいに咳き込んだ。
笛にむなしく風が通るような音を喉からたてて苦しげな呼吸を繰り返す。青ざめた顔でリュクリュスは胸部を押さえる。
「ほらぁ、言わないことじゃないじゃありませんか。このところ根をお詰めになっていましたから!」
「シーノン、動悸がしてきた」
「ほらほらほらぁ~!」
疲労が過ぎるとリュクルスを襲う、いつもの発作だ。
傾いたリュクルスを支えようとした腕に、シーノンの予想をこえて均衡を失った彼の身体が崩れ落ちてきた。
傍らにある机の側面にリュクルスの背を凭れさせると、彼は荒く呼吸しながら目を閉じた。
「ゆっくりなさっていれば治まりますよ。すぐ治まりますからね」
闇色のオニキス石よりもなお漆黒な彼の髪が瞼に被さっているのを払ってやり、安心させるために言った。
冷たい風の入る窓を閉めようと立ち上がったら、まだ袖を掴んでいたリュクルスの手が、乱暴なくらいの力で彼女を引き戻した。
「ほわっ」
「ごめん……」
せっぱつまった声音で呟いて、リュクルスは尻餅をついた家政婦の胴に腕をまわす。
「背中、貸して……ちょっと、怖いんだ……」
はっとしてシーノンは身じろぎをやめ、ばたつく足を床に着けた。
背中越しに、リュクルスを不安に陥れている拍動がシーノンにも伝わる。
ひどく早くて、馬の駆け足みたいにリュクルスを蹴立てている。
「どうぞ私なんかの背中の贅肉でよかったら、いくらでも寄りかかってくださるべきですよ」
するとリュクルスが、余裕はないながらも小さく笑ったのが、首筋に触れた吐息で知れる。
「違うんだ……こうしてシーノンの体温と、ゆっくりした鼓動を感じているとね……だんだん落ち着いてくるんだ。すごく安心する……」
日なたの丘の大樹の下で恋を語らう男女のような体勢で密着した二人だが、その関係はただ単なる屋敷の主人と雇われ家政婦だ。寄りかかっているのは厳めしい書斎机である。けれどリュクルスに合わせて目を閉じれば、セアカコマドリの囀りと、優しいそよ風に、戸外にあるような長閑さを感じる。
「……リュクルスさま?」
だいぶ二人の鼓動の間隔は近づいた。発作もすでに治まったようだった。規則正しい呼吸が家政婦のヘッドドレスのフリルを揺らす。
「シーノン、温かいね」
「リュクルスさまの身体が冷たすぎるんですよ。ちゃんとお食べにならないと、燃料にならないんですから」
ぐるりと交差してエプロンの端を掴んでいるリュクルスの手を、シーノンは母親がするようにぺちんと叩いた。主人の手は、いつも驚いてしまうほどひんやりと冷たい。末端に血が行き届いていないのではと心配になる。
「美味しく食べてるつもりなんだけどなあ……」
「そればっかりはシーノンを見習っていただかないとです」
「うん。だからこうやって、分けてもらってる」
リュクルスは生まれたときから度を越して病弱だった。
疲れるとすぐに熱を出すし、何か悩み事があるだけでも熱を出す。喉が弱くて埃の多いところでは呼吸困難の発作を起こす。小食で、口数も少なく、笑顔といえば苦痛を隠すために弱々しくそれを用いていた。冬になれば風をこじらせて一カ月や二カ月寝込むのが当たり前だった。
生きていることに無理があるのじゃないかと思えてしまうほどに儚げな風情の少年――。シーノンが彼に初めて会ったときの印象である。七年前のことだ。
けれど少年が成長し、青年へとさしかかるにつれ、危うげなほど青白かった顔色は一人前の生気をそなえたものとなり、つねに彼を脅かしていた死の気配は、命の刈り取りをあきらめたように徐々に影を薄くしていった。
骨格も今ではだいぶ確かで、女性にしては長身なシーノンよりも頭一つぶん背が高く、シャツをまくり上げた腕は、堅い木材を彫り込むことに慣れた立派な職人のものだ。
リュクルスは己の獲得した穏やかな日常を、シーノンの献身のおかげといってはばからない。
しかしシーノンにしてみれば彼の健康のために何ができたという思いもない。一つ屋根の下に暮らしはじめた十のときから、同じ年頃の優しい少年のために祈り、願い、男所帯の生活を少しでも柔らかく清潔なものにするべく働いてきたとはいえ、シーノンは医者ではない。奇跡の薬を作ったわけではないので、感謝の言葉を浴びても身に余る。身の竦む思いのほうが勝つ。むしろ奇跡を起こす力を持っているのはリュクルスのほうなのだ。
彼が虚弱体質を乗り越えて生きることを許されたのは、だからおそらく、彼自身がその力によって積んだ善行が〈一極〉に認められたからだ。
悩める人の心を癒す、ルクス心療研究所リュクルス製の仮面――。
「リュクルス様?」
まもなくしてリュクルスは、シーノンの肩に額を預けたまま眠りに落ちた。
ゆうべもおとといも徹夜していたのだから当然だ。
〈光ノ祈リノ大祭〉が近づくと、ルクス心療研究所の仮面工房にはミレアンのような少女たちや男の子たちが人目を忍んで訪れて、恋の病への処方を求める。リュクルスは滅多なことでは依頼を断らないため、この一月で十五もの仮面を彼一人の手で作っている。
祭りの前日を期限にした依頼はミレアンの仮面が最後だった。
「だめです、リュクルス様、だめです。寝るならちゃんと寝台で寝てください」
風邪でも引いたら大変だ、と、揺り起こす。
「……ん……、ああ……でも寝ちゃ駄目なんだ。セデリィカが来るから。約束してるから、多分もうすぐ――」
丁度そのとき、屋敷の玄関で呼び鈴が鳴った。
ほどなく診療室の戸口に、ふわりと清楚なフリルスカートの裾を揺らして、可憐な娘が覗いた。
「リュクルス、おはよう。お仕事終わったのよね?」
「終わったよ。いま支度するから、ちょっと待っててくれるかな」
「あら、リュクルス、髪がひどく乱れてどうしたの……。シーノン、彼また発作を起こしたのじゃなくて?」
家政婦に助けられながら床から立つリュクルスの様子を見て、セデリィカが心配そうに寄ってくる。
「ええ、そうなんです。セデリィカ様からもおっしゃってくださいませ。リュクルス様は無理をし過ぎなんです」
「ねえリュクルス、街へ行くのはやめて私の家でゆっくりお食事しましょう。今日は休診日だからお父様が家にいるの。ついでに簡単に診てもらえばいいわね、ね、それがいい」
「たいした発作じゃないよ……。〈光ノ祈リノ大祭〉のドレスと小物を揃えに行くんじゃなかったのかい? あんなに楽しみにしてたじゃないか」
「いいのよ。私が考えなしだったのよ。忙しそうなあなたを独り占めしたかっただけ。ドレスなら本当は帝都のお店のカタログでもう注文してあるのだもの」
後ろめたさの表情さえ、セデリィカは若い娘らしい魅力にした。
リュクルスはちょっと目を閉じて笑っただけで、彼女にされるがまま手を取らせた。
「お隣なんだから、着替える必要ないわ。あなたが地下室で作業浸けのあいだ、話したいことが溜まっているのよ。さあ行きましょ」
セデリィカはリュクルスの頬に手を伸ばして触れ、恋人同士らしく見つめあい、彼の頷きをもらう。
「シーノン、夜には戻るよ」
リュクルスは屋敷の玄関でそう言い残した。
「いってらっしゃいませ」
閉じた扉の前で、家政婦シーノンは主人を見送ってふかぶかと垂れていた頭を上げた。
がらんとした静けさが満ちた玄関ホールに、柱時計が十時の鐘を響かせる。
「……さてと、お掃除お掃除。それからお夕食の仕込みもしなくっちゃあ」