1
「あの」
誰かを呼び止めるような声が聞こえた気がした。立ち止まりかけたが知らない声なのですぐに歩き出す。
「あのっ、これ!落としましたよ」
今度は真後ろから少し弾んだ声がした。振り返ると差し出されたお気に入りのストラップ。
(えっ…)
俯き気味だった顔をあげるとそこには、ここふた月ほど何度も見つめ、でも1度も声をかけられなかった"彼"がいた。
------------
大学に入学して早々に恋に落ちた。話があったわけでも、少女漫画みたいに窮地を救ってもらったわけでもない。ただただ一目惚れをした。彼を見た瞬間、体が動かなくなった。まるで時が止まったかのようにその人しか見えなくなった。
凛とした立ち姿に目を惹かれ、冷たい印象を与える整った横顔を見て心を奪われ、友人とじゃれる笑顔を見て落ちた。
その時のわたしは魂が抜けたようだったとあとから友達に言われた。その子は「目開けたまま気絶してるのかと思った」と言った。
自分が面食い気味だという自覚は充分すぎるくらいあった。大好きな(ヲタクの域)のアイドルも、初恋の先輩も綺麗な男の人だった。高校時代の部活仲間には「まあ、面食いだもんね」としょっちゅう呆れられていたほど。だから自分が綺麗な人が好きだということは理解していた。
でも、さすがに一目惚れをするとは思っても見なかったけれどね。
わたしは誰かの恋バナを聞くのは好きだが、自分の恋バナを誰かに言うのは苦手だ。言うのがとても恥ずかしくて、友達にも気づかれるまで話せなかった。
なので今回一目惚れをした彼のことも誰にも話せずにいた。
しかし態度に出やすいので高校からの友達には、何かあったということはバレていたようで、
「なんか、いいことあった?」
と、みんなに言われてしまった。
「やっぱり、Twitter始めるべきかな…」
ぽつり、とつぶやく。大学の近くで見つけたレトロな雰囲気の喫茶店。落ち着いたジャズが流れる店内は初めてきたにも関わらず、気が緩んでしまってつい独り言を言ってしまった。
Twitterは友達の大多数がやっている。でも、わたしの情報何のために発信すんの?ていうか、そもそもそんな個人情報ダダ漏れにするの怖い。状態なのでやっていない。しかし、始めれば"彼"のことが知れるかもしれない。
どうしようかと考え込んでいると
「ご注文は決まりましたか?」
ふいに落ち着いた低い声で問われた。考え込んでる間に店員さんが注文を取りに来てしまったようだった。
「えっ、あっ、」
慌ててメニューに目を落とし、ページをめくっていると、くすくすと小さな笑い声が落ちてきた。
「慌てなくても大丈夫ですよ。甘いものはお好きですか?」
「あ、はいっ!大好きですっ!」
照れもあって必要以上に力いっぱい答えてしまった。あー、もう恥ずかしすぎる。周りの注目を集めてしまい顔を伏せる。
注目を取りに来てくれた初老の男性が柔らかく微笑みながらページををめくり、ひとつのメニューを指さす。
「ではこちらはいかがでしょうか。フレーバーコーヒーなので甘い香りも楽しめますよ」
そこには、チョコレート、バニラ、メープルと書かれていた。
フレーバーコーヒー、名前だけは聞いたことがあったけれど今まで飲んだことはなかった。
興味をひかれチョコレートで注文する。
「かしこまりました」
綺麗にお辞儀して去っていった。店員さんはカウンターのなかに入りコーヒー豆を挽き始めた。
(それにしても素敵なお店)
周辺にたくさんの大学や学校がある学生街にあるにも関わらず、少し奥まった所にあるからか騒がしさとは無縁のお店だった。店内の半分位は埋まっていたが、皆大きな声を出さずに会話しドリンクや軽食を楽しんでいた。
さっき騒がしくしちゃって申し訳なかったな…
はあ、とため息をつき窓の外を見た。
あれっ!?
そこには目の前の通りを足早に歩いていく"彼"の姿があった。