◆ カケルです。ヨロシク ◆
准の家に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
『sound way』マンション。
僕はマンション横の、来客専用駐車場に車を停めた。准はここの25階に住んでいる。
実は、僕はエレベーターが苦手だ。
以前、自分のマンションでエレベーターに閉じ込められた事があるからだ。
ーーー 五年位前の事である。
当時は15階建てのマンションの5階に住んでいた。
出来れば見晴らしの良い部屋で、カーテンも不要な位上階の部屋を希望していたが、そのマンションの空き部屋は5階、3階、1階の6部屋のみだった。
そのマンションはエレベーターがガラス張りで外から中が見える。と言うことは中からも外が見える訳で…
その見晴らしが良く特に夜景はガラスを散りばめたようだと人気のあるマンションだったのだ。
それは、入居して間もなくの事だった。
ガタンッ…
大きな衝撃音と共に、何かに引っ張られる様にエレベーターが止まり、明かりが消え非常灯が点いた。と、同時にインターフォンでエレベーターが止まった事を告げ周りを見渡す。
管理会社が来るまでの40分間、いや実際はもっと短かったのかもしれない。
非常灯に勝る外界からの明るさに目を向けたとき、何とも言えない感覚が僕を襲った。
なんとも、恥ずかしい話だがガラス張りの窓から外が見えた時の恐怖を忘れる事が出来ない。
尋常ではない脚の震えと鼓動の爆発音に立っているのが、精一杯だった。
僕は戸惑いを隠せなかった。
なんとなく、昔から感じていた高所から下を見た時のなんとも説明のつかないワクワクするような不思議な感じ。それは、ワクワクではなくゾクゾクッとする全く正反対の気持ちであったことに、気づくのにそう時間はかからなかった。
僕はその時、始めて自分が高所恐怖症であることを認識した。
それからである。
エレベーターに乗ると手に汗を握る。
それから、直ぐに引っ越したのは言うまでもない。
「准…引っ越してくれよぉ…」
パネルの表示盤から視線を外さず、僕は呟く…
誰にも言ってはいないが、潤の部屋のある25階までは、僕にとって毎回チャレンジなのだ。
やがて、パネルの25の文字が点滅を始めた。
どれ程、この瞬間を待ちわびていたことか…
扉が開くと同時に僕の足はその小さな箱から飛び出していた。
◆
252号室
チャイムを鳴らし、返答を待たずにグレーの扉に手をかける。
カチャ…と言う音と共に、そのグレーの扉が開いた。准はいつもドアをロックしない。
「お?カケル、きたか?」
フライパンと菜箸を手にした准がリビングから顔を出した。
光を落としたダウンライトが心地よい。
白を貴重にしたインテリアが部屋を広く感じさせる。部屋の隅に置いてある、一際目を引く真っ赤なソファーは誰かからの誕生日のプレゼントらしい。なかなか、誕生日にそんな大物をプレゼントする人なんて、そうそう居ないだろう。自ずと相手は誰なのか想像出来てしまう。そのソファーは持ち主に愛用されることもなく、ライトアップされてインテリアの一部となっている。
「適当に座って。ビール、冷えてるから」
准はそう言うとキッチンに姿を消した。
変わりに、食欲をそそる香ばしい匂いが僕を出迎えた。
准は僕の大学時代からの友人だ。
日本人離れしたマスクはイケメンと呼ぶに相応しく女の子にモテる。
経済学部の僕と文学部の准とは学部が違うが、ウマが合うのか一緒の時間を共有する事が多かった。大した目標もなく「つぶしがきく学部だから」と選んだ理由も同じである。
「つぶしがきく学部」というのは、卒業後仕事の選択肢に縛られないと言うこと。
だが、准は大学を中退し調理専門学校に進路をかえ、調理師になった。
見た目は少々派手だが、『自分をもっている』凄いヤツなのだ。
僕はいつもの様に遠慮することなく部屋に足を踏み入れた。
准の後を追いかけるように、キッチンに滑り込み
いつもの冷蔵庫の、いつもの場所から缶ビールを、とりあえず一本取り出してプルトップを開ける。
首から下げたタオルで、まだ乾いていない髪を拭きながらビールを喉に流し込んだ。
「お~!染みるねぇ~」
風呂上がりの一杯を我慢してやって来た僕の喉は嬉しそうにビールを迎え入れる。
そのままリビングに入ると、そこには先客がいた。
歩きながら、グビグビと音を立てて喉に流し込んでいた僕は、慌てて缶を口から離した。
そして、少し遠慮がちに先客に挨拶をした。
僕に気づき、グラスを顔に近づけ、軽く会釈するのは女性だった。
「こんばんは。お先に戴いてマス」
少し甲高い優しい声がした。
「あ…」
僕は自分の目を疑った…
………!
駅前の彼女である。
ピンクのTシャツに黒のダウンベスト、ジーンズの装いで、この前とまるで雰囲気が違うが、紛れもなく駅前の彼女である。
激しい胸の鼓動が僕を襲う。
エレベーターに乗っている時より、遥かに激しい鼓動だ。
僕は身動きもせず、固まったまま立ち尽くしていた。
◆
「カケル?何突っ立ってんだよ。座れよ」
背後から、准の声がした。
「あ…ああ…」
僕は、我に返った。
彼女から慌てて視線を外し、何事も無かったかのようにセンターテーブルに進み出た。その足取りを、不安定に感じたのは自分だけだろう。缶ビールを持つ手が微かに奮えているのを感じる。
心拍数は上昇し、顔が紅くなっているのではないかと不安になりながら准に目を向ける。
しかし、そんな僕の事など眼中にない様子で准の視線は真っ直ぐに彼女に注がれていた。
「紹介するね。こちら一宮 ナオさん。こちら山田 カケルくん。二人、初めましてだよね?」
「いや…初めまして…っていうか…」
僕のシドロモドロの返事を打ち消すように直ぐ様、准が勝ち誇った様子で耳打ちした。
「超美人さんだろう…」
しかし…
どうして、准の部屋に彼女がいるのか?
これは、夢なのか?そっと右手の中指に力をいれる。
(動いた…夢じゃない)
いやいや、何をしているのか。
この方法は金縛りを溶く場合じゃなかったか?
もしかして…准の恋人だとか…
准はいいヤツだけど、どうも女性にだらしがない。いつも何人かの恋人の間を要領よく立ち回っている。だが、気兼ねなくありのままを見せあえる准との関係を僕は気に入っている。
告白も出来ずにズルズルと、なんとなくの付き合いをしたり、何も言い出せないままいつのまにか終わりを迎えている付き合いをしている僕よりは、ずっと正直だ。
僕の場合、始まりもなければ終わりもないのだから…
准に促され、僕は彼女の横に腰を降ろした。
彼女と向かい合う席には准のものであろうグラスにビールが1/3、残されていた。
僕は、准の隣…彼女の斜め前に腰をおろした。
「あ…カケルです。ヨロシク…」
上手く声が出ない。
緊張感が僕の喉をカラカラにしている。
当たり前だ。
逢いたかった駅前の彼女がここにいるのだから…
「よろしくね、カケルくん」
そう言うと彼女は缶ビールから僕のグラスにビールを注ぐ。僕は慌てて、そのグラスを持ち上げ会釈した。ビールの泡のシュワシュワ…と言う音が僕に落ち着く数秒間をもたらした。
彼女は僕と目が合った事など、覚えていない様子で落ち着いていた。
僕は…と言えば彼女と准が話している光景に多少の違和感を覚えながら、それでも何事も感じていないかのように不安な気持ちを隠してゴクリとビールを喉に流し込んだ。




