◆ 飛んできてよ ◆
繁華街からほど遠い僕の職場のまわりは深夜ともなると漆黒の闇に包まれる。
車の流れさえ、疎らである。
いつもと違う事と言えば、今日は月がやけに明るい。
仕事が立て込み休日返上が続き、彼女と逢えない日が半月程続いていた。
その忙しさも一段落し、逸る気持ちをおさえつつ久しぶりに彼女にメールをした。
『来週の日曜にどこかへいきませんか?』
「なんか、もっと気のきいた誘いかたはないのかねぇ…」
平凡な文面に落胆する…
基本的に、必要な時にのみメールをする僕は女性を誘う気のきいた台詞は持ち合わせていない。
女性なら、マメに連絡をくれる男性の方が好きなのだろうが 僕には、元来その癖がついていないのだから仕方がない…
しかし、彼女にだけは例外であり慣れないながらも精一杯の意思表示をしている…つもりなのだ。
………………。
彼女からの返信はない。
時間は25時を過ぎている。
僕は、彼女からのメールの返信を待たず帰り支度を始めた。
警備員の「お疲れさまでした」という、ありきたりの挨拶に応対しながら会社を後にし、
僕は自分のマンションとは逆方向の、何時もとは違う道程へ20分程車を走らせた。
コンビニエンスストアの次の交差点を右に曲がると、左手に大きな桜の木が一本見えてくる。
その横にある10階立てのマンションの前で車を停め、三階の一番右はじの窓に目を向けた。
灯りはついていない。
「やっぱり、寝てるよなあ~」
彼女が住むマンションである。
時間が時間だけに窓が明るい部屋は数える程しかない。
この時間であれば、灯りをつけて頑張っているのは長い晩酌人か受験生ぐらいなものだろう。
僕は煙草に火をつけて大きく深呼吸した。
仕事から解放されたからなのか、なんとも言えぬ脱力感が快かった。
「今日は月が大きく見えるなあ~」
不気味なほど、月が大きく見える時がある。
エクストリーム・スーパームーン…
月が近地点に来たときに満月と重なり特別大きく見える現象だ。スーパームーンより遥かに神秘的だ。
でも、あれは確か18年に一度と言われていた気がする。
…ということは、これは錯視なのかもしれない。
それにしても、大きく白く月の模様までハッキリと見える。
僕は、その不思議な月明かりに少しでも近づきたくて車から降りてみた。夜の音だけが耳に響く暗闇は、もしかしたらタイムスリップをして時間を操れるような気分にさせてくれた。
もしかしたら、今の僕が一番欲しているものかもしれない…
◆
空を見上げてから程無く、携帯電話の呼び出し音がなる。
運転席に置かれたスマートフォンを慌てて握った。
画面には " ナオさん " の文字。
「あ…」
僕の口元に笑みが溢れた…
「もしもし?ナオさん?」
僕は、少し声を抑えて答えた。
今のこの時間では、声は響くだろうし警察に通報されかねない…
「お疲れ様、ようやく一段落ついたのね」
やはり、眠りについていたのだろう。
受話口から聞こえた彼女の声は、いつもより低いトーンに感じた。
「ごめん、メールで起こしちゃった?」
「平気、まだ、眠ってなかったのよ」
「ねぇ…ナオさん。今日は、凄く月が大きく見えるよ」
そう伝えると僕は、月を見上げた。
彼女が動いたであろう物音が受話口から聞こえた。
「ホント?月が大きく見える時は願いが叶うっておばあちゃんが言ってた…」
「そうなの?何か良くないことが起きるって言われてない?」
「そう言う人もいるみたいね。でも、私が小さい頃、大きな月を見て怖くて泣いた事があってね…そしたらおばあちゃんが言ったの。月が大きく見える時は願いが叶う特別な日なんだ…って」
すると、僕が視線を注ぎ続けていた三階の一番右はじの窓が暗闇の中、月の光に揺らいだ。
彼女の部屋である。
カーテンを開けて空を仰いだ人影…
彼女も夜空を見上げた。
僕らは暫くの間、同じ月を見上げていた。
二人とも言葉は発しなかった。
静寂な真っ黒の空間に白い大きな月が輝いている。
神秘的なその光景に「特別な日」は正に相応しく思えた。
それから『良くない事がおこる日』ではなく、『願い事が叶う特別な日』に僕の頭の中の記憶を司る部分が書き換えをしたのは言うまでもない。
「遠くてナオさんの顔が見えないね」
僕は、白い月から彼女へ視線を移した。
「そうね…カケルくんに羽があったらひとっ飛びなのにね。お願いしても羽は生えてこないよね…今、会社?」
「羽…アルカモヨ。下」
「あ…カケルくん?」
彼女の驚いた顔が目に浮かぶ。
こんな遅くに呆れただろうか?
迷惑だっただろうか?
ただ、彼女の居る部屋を見るだけで直ぐに帰るつもりだった。
それで、満足だった。
彼女は、優しく言った。
「飛んで来てよ…」
遠くて顔は見えなくても、彼女のイタズラっぽい瞳が僕には見えた。
僕は、彼女の部屋へ翔んでいった。
◆
部屋の前に着くとドアは開けられヒョッコリと飛び出した頭が僕を出迎えていた。彼女は体の線がうっすらと解る程の、グレーのマキシワンピースに半袖の白いカーディガンを羽織っている。
手櫛で整えられた髪の毛も、その無防備な姿も僕にとっては『カワイイ』以外の何者でもない。
「お疲れさま、恥ずかしいけど、酷い格好なの。許してね」
彼女は恥ずかしそうに言った。
彼女の部屋に間接照明の暖かい色が、部屋全体を照らし和やかな雰囲気を映している。
どんなに外が寒くても、この部屋は見るからに暖かく安心感を与える。
これが、灯りの効果と言うものなのだろう。
僕は上着を脱ぎネクタイを緩めた。
そして、白いソファーの前に腰かけた。
ソファーに腰かけないのには理由がある。
彼女はいつもフローリングに座る。
だから彼女と目線を合わせる為に、そこが僕の定位置となった。
上から目線は好きではない。
「はい、どうぞ」
僕に特大の円形のクッションを渡して、彼女はキッチンへ向かった。
そして、キンキンに冷えたビールとグラスを手にし、テーブルに置くと、再びキッチンへ戻って行った。
「おつまみが何もないのよね~」
そう言いながら再び冷蔵庫を開け、つまみになりそうなものを何品かチョイスしてテーブルに並べ立る。
「これだけあればいいよ」
と僕は『丸かじりショウガの酢漬け』を頬張る。
僕らの中で今、ちょっとしたブームなのだ。
ウマイ。
しかし、中には激辛のハズレくじのようなショウガもまあまあ存在するため 一気食いは禁物である。
それにしても、ビールがすすむ。
何やら手際よく料理をしていた彼女が差したのは、『温かいうどん』だった。
彼女のキッチンにはいつも『うどん』と『そば』の乾麺が常備されている。
今日の具は、玉子と長ネギ、野菜のかき揚げやとろろ昆布につくねだ。
その日の冷蔵庫にある材料によってトッピングは変わるものの、何時なんどき訪ねても『うどん』か『そば』であれば直ぐに用意が出来るのだ。
それも、実に手際良く…
「お腹空いてるでしょ?今日は、『そば』が無いから『うどん』で我慢してね」
夜中に食べる『うどん』は格別である。
何故なら、わざわざ夜中に作ってくれるという気持ちが最高の調味料になるから。
な~んて、格好つけてはみるものの彼女が作ってくれるなら何でもウマイのである。
それが、カップ麺でも、冷凍食品でも。
この気持ちは、大切にしたいヒトがいる男性になら充分理解して貰えると確信している。
一味を振りかけ、見るからに食欲をそそるその一品をあっという間に平らげる。
その間に、チーズの春巻きとぶりの照り焼きがテーブルに添えられた。
改めてビールで乾杯し、僕らは逢えなかった半月を埋めるように、お互いの出来事を話していた。
そして、アルコールのせいか…疲れのせいか…
心地よい感覚が僕らを包んだ。
「ナオさん?」
返事はない。
ソファーに凭れた彼女からは、軽い寝息を感じる。僕は彼女を抱き抱えベッドへと運んだ。
「カケル…くん」
灯りを消しにリビングへ向かった僕の背後から声が聞こえた。
どんな、夢を見ているのか彼女の口元は微かに笑っている様だった。
僕はあの窓を横目で覗いた。
窓の外が薄明かるい。
もう朝がそこまで来ているようだ…
そして…
僕らは眠りに落ちた。




