9.
図書室へ入ると、先生はこちらに背を向けていつもの席に座っていた。
シンとした室内は彼以外誰もいないようだ。
先生は何やら作業しているようで、図書室のものと思われる辞書や分厚い資料が机に無造作に置かれているのが目に入る。扉を開ける時に音を立てて入室したのだが、集中しているのかわたしに気付く素振りはない。
邪魔したら悪いかもしれない。
そう思い、お決まりの日本文学の本棚の前へ向かう。
しかし、わたしはその先生の整った背中———否意識的にそうしているような気がする———を見るとき、この人はいつも気を張っていて息抜きする時間がないのではと不安になることがあるのだ。自分の勝手な心配かもしれないので言ったことはないが。
眼鏡の奥の表情を分かるようになっても、それは先生についての些細な一部分でしかない。
『教師』としての姿。
わたしは、それしか知らない。
結局自分は彼のパーソナルな部分について何も知らないのだ、という事実が突き刺さる。
先生は自分について語らなかった。
わたしもプライベートについて突っ込んで聞いたことはなく、此処で話すことと言ったら専ら本や勉強のことだけだった。
今まではそれだけで良かったのに、同じ時間を共にするだけで満たされていたのに、すっかり変わってしまった。
わたしは何なのだろう。
この曖昧な距離を意識してしまうとどうしようもなくなる。
はあ、と溜息をついて気を紛らわせようと適当に気になる作家の本をぱらぱらとめくっていると「ああ橘、居たのか」と後ろから聞き慣れたテノールの声がした。思わず振り返るとすぐそこの席に座っている先生がこちらを見ていた。
「今日は溜息ばかりついて、どうした、」
「えっと、まあ、」
先生が心配そうにこちらを見つめてくるので先程考えていた諸々をどうしても思い出してしまう。忘れようとしてたのに。
とりあえずいつものように隣の席に座り、それから誤魔化そうと適当に話を振る。
「この間の現国のテストのことでちょっと」
「悩むほど出来が悪くないのにか、」
「、」
何も言えない。これは我ながら墓穴だった。
気まずくて視線を合わせられない。隣に先生がいるのに逃げ出したい気分だ。
「もし悩んでることがあるなら何でも言って欲しいんだけど、」
「あ、そういう訳ではなくて、」
何て言えばいいのだろう。気の利いた言葉が出てこない自分が嫌になる。
隣におずおずと視線を投げると、先生は穏やかな表情でこちらを待っているようだった。
でも、その目を見るとわたしは胸が苦しくなるのだ。
ただ苦しくて、だけど言える筈もなく無言が続いてしまう。
そうして蟠りだけが心に溜まっていく。
視界がぼやけた。今まで必死に我慢してきた涙がついに溢れて、生暖かい粒が頬に伝ったのがわかった。
「橘」
先生が静かにわたしを呼んだ。
はっと気が付いたときには、彼の唇はわたしのそれと重なっていた。ただ唇を合わせるだけの淡いものだったが頭の中は一瞬にして真っ白になる。
それから優しく抱き締められた。
ふわりと先生の匂いに包まれてどうすればいいか本当にわからない。わたしは何をするわけでもなくされるがままになっていた。それを察したようで先生はちょうどわたしの耳元のあたりで「ごめん」と呟く。
「橘が不安そうな顔してたから。
嫌だったらごめん、」
「いえ、あの。びっくりしただけで、わたし、」
状況に頭がついていかない。胸がどきどき鳴っていて、外に聞こえるんじゃないかというくらい煩い。
先生がわたしを抱きしめたままこちらを窺うように覗き込んで、しっかりと目が合った。
眼鏡の奥はひどく優しいので戸惑う。
そのまま整った顔が近づいてきてもう一度軽く口づけられる。先生の眼鏡が少し煩わしいかもしれないとぼんやりした感覚で思った。
先程より其れは少しだけ長い気がした。
唇が離れて、「俺だけじゃなくて良かった」と先生は嬉しそうに微笑んだ。
反則だと思う。そんな顔されたら抗えない。
「先生ってずるい、です、」
「それ前にも言われたな」
先生の余裕にむっとしてしまう。わたしはこんなにいっぱいいっぱいなのに。
半ば自棄になって目の前の胸にぎゅうっと顔を押し付けると、心音が聞こえてきた。
先生の奥で早く脈打つ鼓動が。
「あ、」
わたしが思わず顔をあげると、先生は珍しく悪戯が見つかった子供のように笑ったのだった。