8.
先生が貸してくれる本は、特に偏っているわけでもなく何でもありだ。
授業で取り扱った誰もが知っている文豪の名作もあれば、最近デビューした新進気鋭の作家の作品もある。ミステリもあれば恋愛、エッセイ、歴史、時事まで。先生はジャンルを問わず興味が湧いたら何でも読むそうだ。
そしていつの間にか、図書室に居ながらにして借りるのは先生の私物の本となっていた。それらは読み込まれていて、しかしページが折れているなんてことはなく、丁寧に扱われているのが分かるものばかり。彼が根っからの本好きだということが伝わってくる。
今まで何十冊も先生から本を借りたな、とノートを取りながら授業中にぼんやりと思った。
放課後の図書室での雑談や、勉強や、ちょっとした仕事の手伝い。
別棟の渡り廊下。あたたかな夕日と、独特の本の匂い。
目を瞑ればいつでも浮かぶ風景———
わたしにとっては、三年間の教室よりもずっと思い出深い場所となっていた。
それも、日に日に終わりが近いことをわたしは実感している。
あと何回ああして過ごせるのだろう。
「はあ」
思わず溜息をついた。
窓辺の席を良いことに、校庭で体育をしている集団を眺める。ジャージを着てマラソンをしていた。楽しそうに笑っている生徒がいる。
羨ましい。
受験シーズンということでわたしも勉強しなくてはいけないのだが、すっかり板書を書き写す気が失せていた。
先生の授業なのに。
黒板には流麗な文字できちんと授業ポイントが書かれている。教壇に立つ先生もいつもと変わらず眼鏡を掛けていて、パリッとしたストライプシャツにネクタイ姿。
先生は、何も変わっていない。
整った文字も、容姿も、言葉も。
ただ眼鏡の奥に映すものが少し変わった———いや、わたしが理解しただけかもしれない。
変化したのは自分だけで、それ以外の日常は今までと変わらずに過ぎて行く。
皮肉だ。
「橘」
はっとして顔を上げる。
先生の授業で余所見するなんて迂闊だった。
わたしが真面目にノートを取っていた数分前のクラスの空気と今のそれは全く変わっていて、教室の全視線が自分に集中しているのがわかる。
前の席に座っている悠里が「大丈夫、」と心配そうにこちらを振り返っていた。
「済みません、考え事してました。気をつけます」
そのシーンとした空気を悠里が「優等生の凛子がぼーっとしちゃうなんて。先生ちゃんと面白い授業やって下さいよ」と言うと、クラスは一気に笑いに包まれた。
わたしはほっとした。目の前の悠里を見ると彼女は得意気に笑みを浮かべてウインクした。
「こら佐伯。それじゃあ、今からプリント配るから。是非楽しんでくれ」
先生も笑っている。内心呆れてるかもしれないと思っていたのだがそうでもないようだ。
そうしてそのまま和やかに授業は続けられ、今日も先生の授業は時間ぴったりに終わった。
その後の苦手な英語もそつなくこなし、あっという間に放課後となった。
悠里としては現国の授業での出来事が良かったらしく終始にやにやしていて、何かとからかってきたが部活があると言って行ってしまった。
陸上部は受験ギリギリまで部活動があるようで、毎日の予備校通いもあいまって忙しそうだった。悠里は大学でも陸上を続けたいらしく、志望校は運動も勉強も活発な歴史ある名門校。実に彼女らしい。
それに比べて美術部は早々に三年生は引退するので、予備校にも行っていないわたしは毎日をゆったりと図書室で過ごすことが日常になっていた。
受験勉強は気が重いがそろそろ追い込む時期だろう。頑張らなければならない。先生に現国だけでも過去問対策をしてもらおうかなと思う。
わたしは帰り支度を済ませると、足早に別棟へ向かった。