4.
四月。
美術室で過ごす穏やかな春休みは過ぎていき、わたしは三年生になった。
先生に借りた傘を好い加減返しに行かなければならない。あの翌日に返すことも出来たのだが、どうしても先生に会う勇気がなかったのだ。
このあと、現代国語の授業がある。
今朝、授業後に返しに行こうとわたしは固く決意して登校し、机の横のフックに男物の傘をかけたのだった。
鞄の中には先生に借りたあの本が入っている。
あれから著者の萩原朔太郎についても調べたし、他の作品も読んだ。実にわたし好みの作家だった。先生に借りたこれだけは、未だに読む気が起きずにそのままなのだが。
先生はどうしてこの本をわたしに貸したのだろう。
そればかりが頭の中をぐるぐると回っている。
図書館や学校の図書室の本にはラベルがついているが、先生に借りた本にはそういったものは無かったし、状態からして古いもので且つ大切に扱われてきたということがわかる。自分が先生だったら、大事な本を優等生だからといって生徒に貸したりはしないだろう。
なぜ。
分からない。
「凛子、久しぶり。どうしたの難しい顔して」
はっとして顔を上げると、前の席に座っている彼女———結局三年間同じクラスとなった佐伯悠里がこちらをじっと見ていた。
悠里はクラスを盛り上げるのが上手く、行事では中心にいるような女の子だ。部活は陸上部。活発な彼女がどうして教室の隅っこにいるようなタイプのわたしと仲良くしてくれるのか謎だが、彼女曰く気張らずに居られて落ち着くのだという。
「ごめん。考え事してた」
「分かった、関係あるのはその傘の彼でしょ」
図星だ。やはり、三年間わたしを見ているだけあって悠里には敵わない。
悠里はにやりと悪戯っぽく笑った。
「どうせ先生なんでしょ」
「え、」
「だって凛子ってば現国のテスト満点だし宿題も完璧でしょ。それで授業中ずうっと先生のこと見てるし、おまけにその男物の傘。クラスの男子はそういうデザイン持たないもの。先生以外有り得ない」
そんなに分かりやすかっただろうかと一瞬考える。
「あ、別に言わなくていいの。ただわたしは禁断の恋でも応援してるから、何かあったら相談して。凛子ってば大人っぽい美少女なんだから先生もそこにやられたのね」
「あー、」
何か勘違いされている気がするが、悠里はいつもこんな調子なので気にしないで流すことにする。
わたしはこの後の現国のためにノートを開き軽く復習することにした。
「その傘は授業のあとに返すの、」
「そのつもり」
「ふうん。それでいて今日も復習熱心ねえ」
「そんなんじゃないよ」
悠里は終始にやにやと笑っている。視線が痛いなあと思いつつも先週の授業のポイントを目で追う。
「何か、安心しちゃった。凛子ってば年頃なのにそういうことに興味示さないし。クラスの女子で恋バナとかしても入ってこないから少し心配だったの」
「悠里、」
まさかそんなことまで案じていてくれたのか。知らなかった。
悠里の温かさがじんと胸に沁みる。
今日こそ先生に返さなくては、とさらにわたしは意を決した。
「ありがとう。でもきっと大丈夫だから」
「うん。あ、先生来たよ。小テストの満点記録更新、頑張って」
先生がガラっと扉を引いて教室に入ってきた。
いつもの風景なのに少し緊張する。
教壇に立つ先生と、わたし。
眼鏡越しに佇んでいる彼の双眸は、整った容姿のせいか何をたたえているかさえ読めない。
一瞬視線が絡まった。
「皆久しぶり。それじゃあ、授業を始めます」