3.
あれから学年末のテストが始まり、慌ただしくなったと思ったら卒業式で先輩を送り出し、気がついたときには春休みに入っていた。
春休みに入ると、学校へ行く用事といったら美術部の部活動だけだった。
図書室に行くことも無くなっていた。春休み中は閉館しているので当然のことといえばそうなのだが。
読書することと気儘に絵を描くことが好きなわたしにとって、そのどちらかが欠けるのは一大事である。
学校の図書室ではなく区の図書館へ行く手もあったのだが、よりによってそちらも蔵書点検のため長期閉館となっていた。
いま手元にある本は既に読み終わったものと、先生に借りた例の本だけ。
しかしわたしは先生に勧められた本を読めずにいる。
だから、今日も美術室にこもっている。
本来週二回の部活動日を無視して毎日ここへ来ていた。わたしにはこの美術室に染み込んだ油の匂いと、誰もいない静かな空気が心地良いのだ。
美術部の春休み中の活動は、個人での作品制作が主なので殆どの部員は自宅で作業を進めていて、学校で作業する生徒はいなかった。
外は曇り、何時の間にか雨が降り出していたようだ。作業に没頭していたせいで気が付かなかったが、時刻は夕方を過ぎている。
活動時間を過ぎているので帰らなければならない。
しかし傘を持ってきていないことに気が付いた。
とりあえず帰り支度をして美術室を出る。
廊下は雨のせいか寒かった。
鍵を返しに職員室へ寄ると、春休みということもあってかいつもは教師や質問に来る生徒などで賑やかな室内がガランとしていた。
鍵を〈美術室〉と書かれたラベルが貼ってある定位置へ返却し、日時とクラス、自分の名前をノートに書き終わったところで、
「誰かと思ったら、橘か」
背後で聞き慣れた声がした。
思わず反射神経で振り返ってしまう。案の定、目の前にはこの間図書室で出くわした人物が立っていた。
「先生」
「橘って美術部なんだ。知らなかった」
「そうです。先生は春休みなのに仕事ですか」
「ご名答」
先生は相変わらず仕事熱心なようで、新学期から取り扱うプリントをこの時期から作っているようだった。手にはそれを示すように沢山付箋のついた教科書を持っている。
先生の授業は生徒から定評があり、特に補足として授業中に配るプリントは、年頃のティーンエイジャーが現国———とは実際名ばかりなのだが———を楽しめるようにと工夫されているのがよく分かる。それは時には芥川のラブレターの抜粋を載せたり、太宰の屈折したバックボーンを紐解いたりなど何でもあり。同時に受験対策のポイントもしっかり押さえてあるのだ。
そしてきわめつけは彼のルックスだった。平均以上の身長と眼鏡の奥の理知的な双眸、整った顔立ちもあいまって、特に女生徒から彼の授業は支持されている。
「先生の授業ってプリント楽しいですもんね」
つい思っていたことを言ってしまった。
先生は嬉しそうに微笑む。
「橘はプリント見ていつも復習してるのかな、テスト満点ってことは、」
「あー、はい、そうです」
先生といると自分のテンポを見失う。図書室の時と同じだ。
内心あたふたしていると、何かを差し出された。
「そういえば橘、傘持ってないだろう。これを使いなさい」
男物の黒い傘だった。
わたしの持ち物が学生鞄だけだと気がついたからだろう。
「でもこれって先生のでは、」
「それは置き傘だから大丈夫」
でもこれを借りてしまうと、例の本と同様に返す際また先生に会わなければいけない。それは正直避けたい。
そしてわたしは先生に勧められた本を読めずにいる。
気が重い。
「この寒さで雨に濡れたら風邪を引くから」
先生はこの様子だと引く気はなさそうだ。
渋々だが、顔には出さないようにして傘を受け取った。
「それじゃあ、遠慮なく使わせてもらいますね。ありがとうございます」
わたしはそう言って一礼し、職員室を後にした。
本当は傘も借りたくなかったが、校舎から外に出た途端借りて良かったとほっとしたのも、また事実であった。
複雑。
この傘を返すのはいつになるのだろうか。