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ジャンク

作者: 衣良 弛雨

 リリリリリ……。

 電子音がけたたましく鳴り出した。

 真っ暗な部屋の中に、ぼうっと白い光が浮かぶ。音を発しているのは携帯電話で、その画面では着信を知らせる文字が躍っている。

 ベッドの上で何かがもぞもぞと動いて、青白い手が携帯を探す。二秒後には音は止み、その代り二人分の声が上がった。

「もしもし? ――あ、つながった。久しぶりだね、あんまり連絡できなくてごめんね」

「……大丈夫だよ」

「無理してない?」

「うん」

 答えているのは少し舌足らずな少女の声で、機械越しの声は男性のものだ。おそらく保護者、もしくは友人、あるいは恋人のどれかだろう。あまり齢の疲労を感じられない声なので、父親という訳ではなさそうだ。それでも少女よりいくらかは年上らしい。

「本当に大丈夫? 体調はいいのか?」

「うん」

「信用できないな。それ本当なのか?」

「本当。大丈夫」

 短く単調なやり取りが繰り返される。男性の心配げな声に、少女は似たような言葉しか答えない。肯定と、安心させるための言葉のみだ。少女は話し口に唇を寄せて、小さくその短い言葉たちを何度も呟いた。

 淡々としか返事をしない少女を更に心配したのか、電話の向こうの男性の口調が言い聞かせるようなものになった。

「……すぐ帰るからね」

 その直後、男性がいる側から楽しげな声が上がった。間違えようがなく女性のものだ。そのだいたいが、黄色く媚びて、甘えていて、幸せそうで――。

 少女の唇がキュッと引き結ばれる。携帯電話を握る指が白いのを見れば、力を入れていることはすぐに分かる。

 男性の声が少し遠のいた。向こうの女性に向かって話しかけている、機械を顔から遠ざけたのは少女に対する配慮なのだろうが、そんなことは無駄だ。女性の名を呼ぶ声の優しさも甘やかすような声色も何て言っているのかも――、全部少女に聞こえている。

 少女の空いている手が、ベッドのシーツを握りしめた。

 一分と待つことなく、男性の声が再び近くなった。少女の名前は口にしていない。

「聞いてる? すぐに戻るから、待ってて」

 結ばれた少女の唇は、ゆっくりと、小さく開かれた。

 うそつき。

 それはそう動く。しかし声は出していないため、永劫男性に届くことはなく。

「…………。――分かった。待ってるね」

 そうして明るい声を装って、彼を安心させるための――ただの、そう、ただのうわべだけの安い言葉を囁いた。

「うん。じゃあまた後で」

 若干事務的になった声で男性が言う。

 少女がまたね、と返す間もなく電話は一方的に切られた。

 ツー、ツー、ツー、ツー……。

 後に残ったのは虚しく響く電子音だけだ。少女は茫然自失としてそれを聞き、何をしているかという自覚もなしに、ぼんやりとボタンを押した。

――ブツッ。

 鳴らなくなった携帯電話の電源ボタンを長押しし、画面を黒くする。唯一の光を失って、室内はもう一度暗闇を取り戻した。

 昔の少女なら、男性からまた連絡があることを期待してそんなことはしなかっただろう。だが、彼女はもう絶望を知ってしまっていた。

 何時間も待ち日が昇り、また夜が来てもメール一通すら来てないときのあの感覚。悲しいというか、切ないというのだろうか。痛さもあるが、心のぽっかりと穴が開いた、もしくは何かが抜けてしまったような深い空虚感。それを表現するのにぴったりな言葉を、少女は“絶望”しか知らない。

 一縷の望みに縋るのには、払う対価が大きすぎる。

 もう見たくないんだよ。聞きたくないんだよ。

 少女はポツリと呟いて、小さな電話機器をぬいぐるみの山へ放り込んだ。――はずだが、暗くて狙いを外したらしく、バキッという不吉な音が上がった。

……でも、もうどうでもいい。

 少女の枯れた瞳に涙が浮かぶ。それをこらえるために、彼女は身近なクマのぬいぐるみを抱き寄せ、強く抱きしめた。

 ――ぬいぐるみはあたたかくない。

 男性と疎遠になってから、それに気が付いた。いつも優しく包んでくれたあの腕が、離れたからかもしれない。

 そして男性の声も、もうあまりあたたかくない。彼にとっては、自分の存在はもう荷物でしかないことを少女は知っていた。だから彼を安心させるために、これ以上心配も迷惑もかけないように、気を軽くしてあげるために、同じ言葉を繰り返す。

 ――大丈夫。

 本当は大丈夫ではない。

 ――平気だから。

 そんな訳ない。

 ――気にしないで。

 ……気にしてほしかった。気にかけて、心配して欲しかった。

 だがそれは、男性に迷惑をかけることになってしまう。

 少女は自分のことを弱虫だと笑う。嫌われるのが怖いだけなのだと。

 だから、男性のどんな言葉にも従順に、当たり障りなく且つ彼が気にする程でもない言葉を吐き、首降り人形のように頷くだけだ。

 本音は言えない。戻ってきてと、帰ってきてと、叫んでしまえばすべてが崩れてしまいそうだ。後で独り泣き寝入りをするだけ。

 初めから、分かっていた。

 いろいろな問題を抱えた幼い自分と一緒にいることを、彼が迷惑していたことは。

 知っていたクセに見えないフリをして。それが彼を縛っていたことも。

 それを彼が苦痛に感じていたことも。

 重荷なのだ。知っていた。分かりたくなかったが、もう要らないと、言われていないのに分かってしまう。

「………――要らないんだ、私なんか」

 ポツリと呟いた少女の目から、涙が零れ落ちた。

 クマの毛に顔をうずめても、涙と嗚咽は溢れてくる。いっそ大声を上げて子供のように泣いたら楽になれるのだろうか。

 だがどんなに声を上げたくても掠れたものしか出てこず、行き場を失った熱は喉でわだかまる。

 閉じた瞼の裏に男性の姿が浮かぶ。その隣には見知らぬ女性がいる。二人とも幸せそうだ。

それは幻想なんかではない。現実だ。蕩けるように甘い仮想とは違って、容赦なく心を抉ってくるリアルなのだ。

 私のいない所で。私を差し置いて。私以外の人と、幸せになっているあのひと。

 どす黒い思考は少女をとらえ、悲しみの深淵へ突き落した。

 ……だけど、祝わなきゃ。

 少女は何度かそう口にした。自分自身に言い聞かせるように、震える声を抑えて。


 自分が悪いと思っているのなら、もう彼から離れるべきだ。

 そうだよね、そうでしょう?

 さんざん自分勝手に振り回しておいて、今もまだ縛るなんてあのひとに悪い。

 いけないのは私なんだ。私の性格がひどいから。私が自分のことしか考えなかったから。

 ほら、彼もこんな人間に呆れて嫌気がさしてるよ。

 あのひとがもう気にしなくていいように、要らない子は消えようね。


 声に出す度に、その独白は少女の何かを、決定的な何かを確実に壊していった。

 だからもう、あのひととの連絡は断とう。

 あらかじめ用意もしてある。意志が切れないうちに、また叶いそうにない希望を拾う前に、自分の殻に閉じこもった方がいい。

 そう思った少女は、昨日までに思いついた限りのことをした。

 固定電話のコードは引き抜いておいた。携帯電話は先程壊したし、男性が合い鍵を持っている玄関の扉の鍵も変えた。郵便受けは塞いだらさすがにまずいかなと思ったので、表札を汚すにとどめておいた。汚れと言っても名前が見えるか見えないかというギリギリの線まで酷くしたものだ。更にありとあらゆる窓とカーテンを閉じ、隙間をビニールテープでふさいでおいた。外から一度見てみたが、引っ越した後の部屋みたいに見えた。

 そして私は、ぬいぐるみしかいないこの小さな空間にいて、彼がこの部屋ごと私の存在を忘れてくれればいい。

 少女は泣き笑いの表情になって、布団の中にもぐりこんだ。

 泣き疲れが誘うまどろみに落ちながら、少女はふと一つ、やり忘れたことを思い出した。

 ――そういえば、ドアチャイム、切ってなかったなあ。

 ……まあいいか。

 そう思うあたり、まだ細い細い蜘蛛の糸に縋りたがっているらしい。来ないと諦め切っているはずなのに、心のどこかでもしかしたら、を期待しているようだ。

 そうすることでどれほど傷つくか、少女は身を通してよく知っているのに……。

 あぁ……馬鹿だ、私は。

 自嘲気味に笑って、少女は意識を手放した。



 数週間が経った。

 昼間だというのに暗い部屋の中、ぬいぐるみに囲まれたベッドの上で、痩せ細った少女が昏々と眠っている。

 端に寄せられたゴミ箱には、保存の効くジャンクフードの包み紙や栄養ドリンクのパックが詰め込まれていた。

 外に出ると、書かれた文字が読めない程に汚れた表札が真っ先に目につく。その下には口から新聞を溢れさせたポストがあった。それでも入りきらなかった灰色の紙の塊は、おそらく郵便配達の人が置いたと思われる、その下の紙袋に放られていた。一番上の物は雨でインクが滲み、何についての記事かもはや分からない。

 そんなポストのすぐ横に、ドアチャイムがあった。

 それを押す人は、誰もいない。


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