最終話
目を開けると、空はますます黒い雲に覆われていた。午後から一時雨と言っていた今朝の天気予報は、大方当たりだろう。
身体を起こすと、いつの間にか人だかりが雲散霧消してしまっていた。特設ステージだけが寂しそうにぽつねんと佇んでいる。片付けされていないところをみると、午後からまた何か催しがあるのかもしれない。
腕にはめた時計に視線を落とすと、午後十二時五十分を過ぎたところだった。
また、他愛もない午後が過ぎていき、変化のない日々が過ぎていくのだろう。
そんな空虚な生活の中、ふと、和也のことを思い出してしまうのは――
彼が住む世界が、見える景色が、少しだけ羨ましかったからだ。
最後に差し出された手に握られていたのは、一体何だったのかわからないままだからだ。
風に頬をなぶられ、俺は傍らに置いていた弁当の空箱を手に取ると、重い腰を上げた。
その時、特設ステージの前を横切り、一人の小さな女の子が何かを追いかけるように走ってきた。
俺は目を見張った。
その女の子は笑い声をあげながら立ち止まり、空に向かって手を伸ばすと――何かを掴んだのだ。まさに、あの頃和也がやっていたように。
俺は弁当の空箱を地面へ滑り落とすと、そのまま彼女のもとへと走り寄った。
「何か捕まえたのかい?」
突然声をかけられたからか、彼女はびくんと肩を震わせ驚いた。
そうして振り返った顔が――ほころんだ。
「パパ!」
言われてぎょっとした。俺に向かってそう呼んだのかと錯覚したからだ。だが、背後から「どうした?」と優しい声音が聞こえてきたのでほっとした。
怪しい奴だと思われない為にも、彼女の父親に挨拶しようと思った矢先、
「パパ! 風の精霊捕まえたよ!」
その言葉に、俺は動きが止まった。
「どうかなさいましたか」
彼女の父親から声をかけられ、俺ははっと我に返る。
まさか、と思った。
このまま振り返ることを躊躇った。
すると、そんな俺を導くように。どこからともなく懐かしい匂いを乗せた風が、俺の髪を優しく撫ぜていったのだ。
その風は、初めて和也と出会った時に掴み損ねた風であり。
和也と共に遊びまわった夏を吹き抜けていった風であり。
最後の日、和也と共に置いてきた風であった。
そうか。
だから今日は朝から風が強かったのだ。
公園へ行こうか迷っていた俺の背を押してくれたのも、先ほど重い腰を上げるために頬をなぶってくれたのも全て――
風の精霊、か。
俺は口元に小さく笑みを浮かべると、ゆっくりと振り返った。
彼の顔を見た瞬間。
俺は三十路にもなって、溢れる涙を止められなかった。
和也は幼い頃の面影を残しつつ、以前にも増して優しい顔つきになっていた。
あの頃と同じように、いつも笑顔を絶やさないでいるのだろう。目尻に笑いじわがくっきりと残っている。少し筋肉質な身体になっているのは、彼のそれまでを表しているようで……
「パパ、どうしたの?」
和也の裾を掴んで引っ張っている彼女をよそに、和也も微笑んだ目尻に涙を浮かべていた。俺が誰だか思い出したのだろう、その微笑みに、その涙に、和也の想いが込められていた。
俺はずっと考えていた。あれから二度と会うことのなかった和也と、偶然にもどこかで再会したならば。
第一声は何を言おうかと。
何と話しかけようかと。
あの頃と同じ風が、二人の足元を通り過ぎる。
俺は手のひらで涙を拭うと、そのままぐっと握り締めた。そうして、和也の前に差し出す。
「何が見える?」
そう言いながら開いた俺の手のひらを見つめて、和也は微笑んで言った。
「最後に、亘に見せたものと同じものだよ」
了




