③
俺は少々落ち目といえど、一時は天使だ神童だと騒がれ、時代の寵児となった芸能人の端くれなのだ。
少なくとも、ここにいるやつらの大半は目指しているであろう一流の舞台にだって立っていた。
周囲の目が舞台の上の俺を見るそれと重なって、少しだけ緊張がほぐれた。
「結城ジョージ!いやあ、そうか!」
アホプリンスも勢いつけて椅子から立ち上がった。
「考えれば分かるだろ…たけこなんて名前あるかよっ!」
自分の過去の栄光をひけらかしたみたいで少し恥ずかしくなって――俺は投げやりに答えていた。
「いやあ、俺が悪かった。そうか、結城ジョージだったか!」
それに今さらチヤホヤされたって――なんて、考えていた矢先。
「ジョージ!ものすごい日本人体型なのに、ジョージなんて名前か!」
あろうことか佐伯は大声上げて笑った。
「はっ…!?」
こいつは、俺を知らないのだ。
それだけでなく――。
「おまえっ…!ケンカ売ってんのかよっ!」
言うだけあって立ち上がった佐伯は、ゆうに180㎝を超えるモデル並みのスタイルを誇った。
見下ろされると一層腹が立つ。
「ものすごい日本人体型っていうのはなぁ、さっきの教頭みたいのをいうんだ!俺は177㎝日本人の標準以上!お前はアホだから無駄に背伸びたんだろ!」
俺は声を張り上げた。
もう誰がどんな目で見てようが関係なかった。
「しーっ、小杉原が泣きそうじゃないか。失礼だぞ、ジョージ」
佐伯はごついブレスレットを巻きつけた腕を俺の肩に回し、教頭に向かって人懐っこい笑顔を見せる。
「はなせよ!」
「まあまあ、名前間違えたぐらいでそんなに怒るな。俺とお前は今後片時も離れられないカンケイになるんだからな」
「はあ?ラリってんのかよお前!」
佐伯は馬鹿力で俺をねじふせ、身をくねらせる。
「俺は佐伯悠人。残念ながら今日はシラフだ。お前にはただ真実を告げている」
「どーゆー意味だよ!」
抵抗する俺の耳元に佐伯がいやらしく囁く。
「俺とお前はクラスメートでありルームメイトだ。よって今日から毎日24時間、生活を共にすることとなる!」
新種の悪夢だ。
運命からは逃れられないと言うかのように、アホプリンスの触手が俺の肩に絡みつく。
「じょ、冗談じゃねえ!」
反旗を翻そうと俺が体をよじった瞬間――。
パイプオルガンの音が止み、颯爽と立ち上がったバイオリンの一団が音楽を奏で始めた。
「……え?」
何が起こったのか。
するりと体が自由になる。
佐伯は姿勢を正し。
なんの前触れもなく。
1人歌い始めたのだった――。
モーツァルトの『アレルヤ』だ。
その第一声に俺は度肝を抜かれてしまった。
女性ソプラノ以外が歌うこの曲を、生で聴くのは初めてだった。
まさかこの奇怪極まりない男の口から、こんな声が出てくるなんて。
体制を立て直すこともできないまま、俺は広い館内に響き渡るその声に、ただただ息をのんだ。
佐伯は呼吸さえ忘れたように歌の世界に入り込んでいた。
淀みないソプラノの歌声――あたりは水をうったように静まり返る。
自分の心臓が高鳴るのを悟られたくはなかった。
だが意に反して俺は佐伯に釘付けになっていた。
まるでボーイソプラノそのものの歌声は、神を讃える喜びにあふれ、ビブラート。
バイオリン、オーボエとのかけあいも見事だ。
こいつの声に押されて、楽器はあくまで引き立て役になってしまう。
永遠にも思える数分間――。
空気が裂けるほどの高音を響かせながら、佐伯は驚く俺にウインクして見せる。
正直――しびれた。
バイオリンの音色に溶けだすハリのあるファルセットは実ったばかりのまだ青いぶどうのようだ。
ジューシーで甘酸っぱく、人々を魅了する。
俺だって子供の頃からミュージカルの世界に身を置いてきたから、驚くほど歌のうまい人間はたくさん見てきた。
でも上手い下手以前に、こんな澄んだ声で歌う人間を俺は見たことがなかった。
一縷の計算もなく、相手に聞かせてやろうという自尊心もない。
その点、物心ついた時から観客を喜ばせるためだけに歌っていたこの俺は、随分と計算高いエンジェルだった気がする。
「ウソだろ…」
思う存分神を祝福した佐伯は、音楽が止むと自分だけ天国に達したみたいな顔して、再び椅子に深く沈みこんだ。
賞賛と拍手のうず巻く中、白いローブをまとった神父が現れ祈りの言葉を囁きはじめる。
隣の席からは、すでに規則正しい寝息が聞こえてきていた。
そうして。
始業式が終わり――。
誰もいなくなったチャペルで、俺はステンドグラスが伝える聖母マリアの物語を眺めていた。
しばらくして、プリンス佐伯が目を覚ました。
「おお、ジョージ。なんでこんなとこにいる?」
寝起きの第一声からは、とてもじゃないけどさっきの歌声を想像することはできなかった。
一瞬でもこいつにときめいてしまった自分が情けなくなる。