⑦
「子供の頃さ、母親に連れられて君が出ていたミュージカルを見に行ったんだ」
蒼井さんが話し始めた。
「君が劇中で歌い終わると、芝居はまだ続いているのにさ、会場全体がスタンディングオベーションで収まらなくなっちゃって…本当にすごかった。あれからずっと君のファンなんだ」
「そんな…。その日はたまたまデキがよかっただけですよ」
俺は首を横に振った。
謙遜してウソをついていた。
自分が一番よく知っている。
あの頃は毎日がそうだった。
でも今の俺は――胸を張って自慢話なんかできる立場じゃない。
「じゃあ僕は、結城丈児のレアな舞台が見られたラッキーな観客だったってことだね」
「どうかな…」
やばい展開だった。
これ以上過去の栄光に触れてはいけないと、心のどこかが反応していた。
俺の中で、そんな漠然とした不安が頭をもたげはじめた時だった――。
「へえ、俺たちにも見せてよ。そんな舞台」
斜め前から聞こえてきた嫌味な笑い声に、俺の心臓がドクンと脈打った。
室井だ――。
室井の一声でイヤな予感は現実のものになった。
「ねえみんな?結城くんに1曲歌ってもらいたくないか?転入してきた記念にさ――」
室井は俺の心に巣食う不安材料を、悪魔の触手で見事に探り当てたのだ。
あたりは急に騒々しくなり、みんなの視線が一斉に俺に集まった。
正に、俺の恐れていた事態はこれだった――。
「室井くん、急に無理言うなよ」
責任を感じた蒼井さんがいさめる中、室井に先導された野次馬たちが手拍子を始める。
徐々に響き渡る『歌え』コール。
「何言ってるんですか。結城くんはプロですよ?急だから歌えないなんて、むしろ彼に対して失礼じゃないですか?」
そう、俺はただの学生じゃない。
プロの歌手なのだ。
たとえ今は名ばかりで、歌えない歌手だとしても。
室井の言い分は正しい。
プロであるからには、急には歌えないなんて言い訳は通用しない。
「だけどっ…」
蒼井さんの言葉にかぶせるように、室井は俺を追い詰める。
「そうだ、今月の学校新聞に載せましょうよ。あの結城丈児が転入してきた当日みんなにすばらしい歌を披露したって。記事は僕が書きますよ。いいでしょうチーフ?」
言って、おもむろにポケットからデジカメを取り出した。
「チーフって?」
「ああ、僕と室井くんはこの学校の新聞部でね」
思わずため息がこぼれた。
こんなところにまでマスコミだ。
「まいったな…最近は全然…」
歌えないんだ――。
みんなの期待にそえるはずなかった。
実際外の世界の期待にそえなかったから、俺はここにいるのだ。
みんなが俺に期待するのはエンジェル・ジョージの歌声。
どこへ行ったって同じ。
俺がなくしてしまったものだけを、みんなが欲しがる――。
「結城くん、君の歌を生で聴けるなんて光栄だよ。今じゃ伝説だもんね?」
少なくとも、こいつの期待にだけはそえるだろう――。
室井は俺を思いきり高みに持ち上げておいて、落とす気だ。
これがさっきの仕返しなら大成功だ。
俺は転入早々、音楽科全生徒の前で生き恥を晒すことになるんだからな。
「断ったっていいんだよ?結城くん…」
蒼井さんが心配そうに俺の顔を覗き込んで言った。
「さあ、みんなお待ちかねだよ?結城丈児くんのステージで~す!」
室井は嬉々として声を上げた。
「――いや、いいんです」
俺は覚悟を決めて自分から席を立った。
「やってやろうじゃねーか」
俺は室井に向かって低く唸った。
たとえひどい結果に終わったとしても、こいつから尻尾巻いて逃げだすことだけはしたくなかった。
あたりが静寂に包まれる。
俺は空気をいっぱいに吸い込んだ。
天界まで伸びる歌声。
神様から与えられていたはずの宝物。
それが自分の中にあった感覚だけは、まだ忘れてない――。
第一声を絞りだそうと、俺が胸を張った瞬間――。
――パン?!
どこからか1本のフランスパンが飛んできて、ニヤつく室井の額を矢のように打ち抜いた。
「こらキツネ、結城丈児の歌はお前の見世物じゃねーぞ!」
振りかえると、ティーカップを手にした佐伯が立っていた。
迫力ある怒声にすくみあがった野次馬たちは、誰からともなく自分の席に戻っていく。
「ちょっ…何すんだよ?!」
紅茶を飲み干すと、佐伯は俺の体を後ろから抱きしめた。
「安っぽい挑発に乗んなよ、ジョージ」
そして、身をよじる俺に覆いかぶさるようにして囁く。
「今のお前が歌えないことぐらいみんな知ってるぞ――」
「え…?」
そして、ゆっくりと――真実を。
「伝説のボーイ・ソプラノ、エンジェル・ジョージは死んだんだ」
膝から力が抜けおちる。
こいつは知っていたんだ。俺の正体も、今の俺が抜け殻だってことも…。
だからあえてそのことに触れなかったんだ――。
俺は今になって、自力では立っていられないほど足が震えていたことに気がついた。
佐伯はみんなには分からないように、そんな俺を抱きしめ、支えてくれていたのだ。
「ジョージ!見たいテレビが始まるから部屋に帰るぞ!またな、ミツキ」
俺はそのまま引きずられるようにして静まり返る食堂を後にした。
屈辱、またひどい屈辱だ――。
「今度はお前が眠る番だ」
部屋に戻り、ベッドに投げ捨てられると今日1日の疲れが、どっと襲ってきた。
瞼の裏で美しいミサキ姫が俺に何度も問いかける。
『あんたこそ、大丈夫かよ?』
「あの野郎…」
俺は死んだように眠りに落ちていった。




