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実力のある歌手が必死に練習したって、今朝の佐伯ほど歌えるとは思えない。


こいつは自分の実力を知らない上――。


ミュージカルを専攻しているくせに俺の存在すら知らない――。


「そうやってふざけてろよ!」


「なんだ、なんで急に怒る?変なヤツだな…」


舌打ちする俺を尻目に、佐伯は狭くなった自分のベッドに丸くなる。


そして、すでに半分閉じかけた目で眠いと呟いた。



30分後――。


俺は人生初の人間目覚まし時計になった。


言われた通り、30分キッカリでベルを鳴らす。


「おい、起きろ!30分たったぞ!」


だがあろうことか佐伯は律儀な俺を睨みつけ――。


「うるさいな!これは普通の昼寝だ。今日は疲れたから夕飯まで起こすな」


迷惑そうにそう言ったのだ。


「ふっざけんな!さっきと話が違うだろが…!」


一発蹴り飛ばして様子を見ていたが、もうピクリとも動かない。


「しょーがねーな」


夕飯までにはまだだいぶ時間があったし、少ない荷物はもう大半片付いていた。


「よし」


俺は1人、寮内を散策してみることに決めた。


佐伯の鍵を拝借し、部屋を出る。


螺旋階段を下って、百合の香るロビーから共有フロアを一周する。



フランス料理のフルコースが出てきそうな豪奢な食堂。


たっぷりと白いレースのカーテンがかかった談話室兼カフェラウンジ。


少し進むとグリーンを基調にしたランドリールームがあった。


使われていない部屋の前をいくつか通り過ぎ、扉の開いている大部屋をのぞく。


中はビリヤード台とホームシアターが備わった娯楽室で――お上品な私服に着替えた生徒たちがナインボールに興じていた。


そのまま長い廊下を直進し、角を曲がると突きあたりに出た。


人気はなく、少し湿った匂いがした。


薄暗闇に現れた角部屋の重厚な扉を、俺は興味本位に開いた。


「すげえ…」


中は驚くほど天井の高い書庫だった。


自分の背丈の倍ほどある本棚の群れに、圧倒されつつ中に入った。


俺は本の背表紙を撫でながら、物音ひとつしない書庫の中をゆっくりと歩いた。


すべての本が、まるでここの本棚のサイズにあわせて製本し直されたかのように、規律正しくならんでいた。


音楽関係の本が大半だ。


一冊抜きだし、本を開いてみた。


その時だった――。


「――え?」


俺の真横を疾風が駆け抜けた。


「痛っ…」


真新しい本のページがめくれ、尖ったカッターの刃のように俺の指先を掠める。



傷口に視線を落とす余裕もなく――俺の目は真横を走り抜けてゆく疾風の正体をとらえていた。


猛スピードで走り抜けてゆくのは――少女のような人影。


いや、もちろんそれが女の子なんかじゃないって――頭では理解してたんだ。


だけど――。


なんて美しいんだろう。


窓から差し込む初秋の日差しを一身に受け、一瞬だけ俺を振りかえったその人を見たとたん。


俺を取り巻く世界は止まった――。


ほんのゼロコンマ数秒の出来事だ。


人間が物体を認識するまでには常にゼロコンマ2秒はかかるんだって聞いたことがある。


そういう意味では、人間はいつもほんの少し過去を見て生きているんだって。


だとしたら俺がほんの少し前に生きていた世界には――驚くべき奇跡が存在した。



その人は森の奥深く咲く白い薔薇のようだった。


まだ誰にも触れられたことのない薔薇の蕾。


濡れた大きな瞳は、真冬の空気をいっぱいに吸い込んで輝く黒鳥の羽の色。


紅い唇からのぞくのは、まだ生えかけの乳歯か象牙のアクセサリー。


困惑、あるいは混沌の表情を浮かべたその小さな顔を――。


光り輝くシルク糸が名画の額のように完璧に包みこんでいた。



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