②
実力のある歌手が必死に練習したって、今朝の佐伯ほど歌えるとは思えない。
こいつは自分の実力を知らない上――。
ミュージカルを専攻しているくせに俺の存在すら知らない――。
「そうやってふざけてろよ!」
「なんだ、なんで急に怒る?変なヤツだな…」
舌打ちする俺を尻目に、佐伯は狭くなった自分のベッドに丸くなる。
そして、すでに半分閉じかけた目で眠いと呟いた。
30分後――。
俺は人生初の人間目覚まし時計になった。
言われた通り、30分キッカリでベルを鳴らす。
「おい、起きろ!30分たったぞ!」
だがあろうことか佐伯は律儀な俺を睨みつけ――。
「うるさいな!これは普通の昼寝だ。今日は疲れたから夕飯まで起こすな」
迷惑そうにそう言ったのだ。
「ふっざけんな!さっきと話が違うだろが…!」
一発蹴り飛ばして様子を見ていたが、もうピクリとも動かない。
「しょーがねーな」
夕飯までにはまだだいぶ時間があったし、少ない荷物はもう大半片付いていた。
「よし」
俺は1人、寮内を散策してみることに決めた。
佐伯の鍵を拝借し、部屋を出る。
螺旋階段を下って、百合の香るロビーから共有フロアを一周する。
フランス料理のフルコースが出てきそうな豪奢な食堂。
たっぷりと白いレースのカーテンがかかった談話室兼カフェラウンジ。
少し進むとグリーンを基調にしたランドリールームがあった。
使われていない部屋の前をいくつか通り過ぎ、扉の開いている大部屋をのぞく。
中はビリヤード台とホームシアターが備わった娯楽室で――お上品な私服に着替えた生徒たちがナインボールに興じていた。
そのまま長い廊下を直進し、角を曲がると突きあたりに出た。
人気はなく、少し湿った匂いがした。
薄暗闇に現れた角部屋の重厚な扉を、俺は興味本位に開いた。
「すげえ…」
中は驚くほど天井の高い書庫だった。
自分の背丈の倍ほどある本棚の群れに、圧倒されつつ中に入った。
俺は本の背表紙を撫でながら、物音ひとつしない書庫の中をゆっくりと歩いた。
すべての本が、まるでここの本棚のサイズにあわせて製本し直されたかのように、規律正しくならんでいた。
音楽関係の本が大半だ。
一冊抜きだし、本を開いてみた。
その時だった――。
「――え?」
俺の真横を疾風が駆け抜けた。
「痛っ…」
真新しい本のページがめくれ、尖ったカッターの刃のように俺の指先を掠める。
傷口に視線を落とす余裕もなく――俺の目は真横を走り抜けてゆく疾風の正体をとらえていた。
猛スピードで走り抜けてゆくのは――少女のような人影。
いや、もちろんそれが女の子なんかじゃないって――頭では理解してたんだ。
だけど――。
なんて美しいんだろう。
窓から差し込む初秋の日差しを一身に受け、一瞬だけ俺を振りかえったその人を見たとたん。
俺を取り巻く世界は止まった――。
ほんのゼロコンマ数秒の出来事だ。
人間が物体を認識するまでには常にゼロコンマ2秒はかかるんだって聞いたことがある。
そういう意味では、人間はいつもほんの少し過去を見て生きているんだって。
だとしたら俺がほんの少し前に生きていた世界には――驚くべき奇跡が存在した。
その人は森の奥深く咲く白い薔薇のようだった。
まだ誰にも触れられたことのない薔薇の蕾。
濡れた大きな瞳は、真冬の空気をいっぱいに吸い込んで輝く黒鳥の羽の色。
紅い唇からのぞくのは、まだ生えかけの乳歯か象牙のアクセサリー。
困惑、あるいは混沌の表情を浮かべたその小さな顔を――。
光り輝くシルク糸が名画の額のように完璧に包みこんでいた。