恋の終わり
かなり強く何かで殴られたのだろう、目の奥に眩しい光が浮かんで、それはチカチカと点滅を繰り返す。
全身の力が抜けて、ソファから自分の身体がずるっと崩れ落ちていくのが解った。
床にドサリと自分の身体が落ちた音が、他人事のように自分の耳に入ってくる。
俺は後頭部を押さえながら、薄れゆく意識をなんとか繋ぎとめようと、必死に身体を起こそうとした。
ガンガンと痛む頭を抑えて、霞む視界の先に見えるのは、怯えた目をして恐怖に震える彼の姿。
「先生……」
愛しい彼に向って、小刻みに震える手を必死に伸ばしてゆく。
「近寄らないでくれ!」
聞いた事のないような彼のヒステリックな声。
いつもの落ち着いた声ではなく、明らかに動揺を隠せない声。
震える彼の手には、分厚い本が握られていた。
その本の角で、俺は後頭部を殴られたらしい。
普段温厚な彼に殴られたというその事実に、ショックで思考がぐちゃぐちゃだ。
「先生……好きなんです……」
掠れて悲しげに震える自分の声。
とめどなく溢れ始める熱い滴が、瞳の奥から零れ落ちてゆく。
涙で霞んだ視界がゆらゆらと揺れて、彼の姿が徐々にぼやけはじめる。
あなたが好きで好きでたまらないんだ。
あなたが欲しくてたまらないんだ。
どうしたらいいのか、誰か教えてくれ!
「わ、私は、こういう趣味はありません。男性を愛する事など、出来ない……」
「でも、先生、俺で感じていてくれたじゃないですか……」
「そ、そんな……私は……」
彼は乱れた服装もそのままに、バタバタと大きな足音を立てながら慌ただしく研究室から出て行ってしまった。
俺はそのまま崩れ落ち、失意のまま意識を飛ばした――
それからすぐに彼は休職してしまって、学内で姿を見掛ける事は無くなった。
俺はあの日から、ショックでほとんど大学へは行っていない。
どちらにせよ、もうほとんど単位は取っていたので、大学に行く必要はなかったのだが……
あの日の彼を思い出す度に、後悔と苦々しい想いが俺の心を支配した。
あれ以上の否定はない。
あれ以上の拒否はない。
彼はノーマルだ。
それは当然だ。
そんな事は解りきっていた。
俺はもう彼に嫌われているだろう。
疎まれているだろう。
男が男を襲ったのだ。
ノーマルな人間には、一生理解出来ないだろう。
でも、俺は本気だった。
彼以外、目に入らぬほど。
彼に夢中だった。
初めてだった。
あんなに人を好きになったのは。
愛していたのに……
彼しか欲しくなかったのに。
ここまで欲しいと思ったのは、彼だけなのに!
告白なんてしなければ良かったのか……?
いや、今更言ってもしょうがないのだ。
過ぎてしまった時間は、もう戻らない。
もう二度と、彼と会う事はないだろう。
彼の笑顔を見る事は出来ないだろう。
俺の恋は、終わったのだ。
自分勝手に暴走して、無残にも散ってしまったのだ。
後悔をしても、仕方がないのに……
毎日、毎日そんな事を考えて後悔の日々を送るうち、俺はすべての事に力が湧かなくなり、すっかり自暴自棄になって荒れた生活をするようになってしまった。
「おいっ、雅也! 起きろ!」
「う……ああ、省吾か……」
今日も行きつけのバーで飲んだくれて、いつの間にか意識が飛んでしまったらしい。
いつここに来たのか覚えていないが、悪友の新田が、バーのカウンターで突っ伏していた俺の身体を揺すっていた。
「雅也……そんなに、センセイに振られたのがショックだったのかよ……」
肩に置かれた手を軽く振り払い、俺は力なく笑いを浮かべて新田の顔を見上げた。
「……そんな事ねえよ! なあ、省吾、飲もうぜ!」
全身に廻ってしまったアルコールで、頭の中に薄い透明な膜が張ってしまったようになり、何も判断する事が出来ない。
俺に出来る事は、ただ、彼の顔を思い出さないように酒に溺れる事だけ。
「いい加減にしろよ、雅也!」
新田のその言葉を最後に、俺は再び意識を失った。