彼への気持ち
自分の気持ちを自覚して以来、俺は何かと彼に質問したり、解らない事があると理由をつけては先生の部屋に訪れていた。
勿論、ゼミは紫村先生のゼミに即決した。
厳しいと評判だったが、そんな事は一切気にならなかった。
だって、先生と一緒にいられる時間が増えるのだから。
何かと先生の所にお邪魔しているお陰か、今では学生の中でも彼の一番の信頼を得ていると思う。
「先生、この間お借りした『社会理論と社会構造について』の本、凄く勉強になりましたよ」
俺は先生に会えた事で、嬉しくて声が上擦ってしまう。
スッと彼の座っているデスクに近付いて本を返す。
彼の近くに寄って行くと、うっすらと落ち着いた甘すぎない柑橘系の香りが漂ってくる。
この香りを近くで感じると、喜びのあまりくらくらと眩暈さえ起こしてしまいそうだ。
「ああ、武藤君は本当に勉強熱心ですね。あなたみたいな学生ばかりだと、私も嬉しいのですが」
そう言って、にっこりと俺に向けて笑ってくれる。
落ち着いた低めの声。
男にしてはしなやかなほっそりとした指先が、俺の置いた本にゆっくりと伸ばされる。
ああ、素敵だ……
彼のどんな小さな動作も、俺の心を捕えて離さない。
「そうだ、武藤君。こちらの本も読んでみたらどうでしょう?」
彼はそう言うと、本を持って本棚へと歩いて行く。
そして、背の高い書棚に背を伸ばして本をしまおうとしている。
俺は慌ててそんな彼の後ろへと急いだ。
彼はあまり背が高くなく、小柄で華奢な身体つきをしているのだ。
身長の高い俺から見れば、二十センチ程の違いがある。
スッと彼の背後に立ち、手を重ねて彼の手から分厚い本を取り上げた。
「先生、俺がやりますよ」
「ありがとう、武藤君」
彼の背中と、俺の身体が密着する。
首筋から仄かに香ってくる香水の匂いが先程近付いた時よりも、直接俺の鼻腔をくすぐる。
彼の着ているダークブラウンの上質なスーツの感触を、直接肌で感じる。
ああ、このまま彼の身体を抱き締めてしまいたい……
先生が貸してくれた分厚い本を抱えながら、彼の研究室をあとにする。
ドアを閉めてから、ふうと重苦しい溜息をひとつ吐いた。
いつも彼の部屋を出て来る時には、気分が沈んでしまう。
部屋に入る時とは、まさしく正反対の気持ちになる。
こんな実らぬ想いはもう捨ててしまおうかと、何度思っただろうか。
でも、彼に逢えない時間が続くと、そんな決心はすぐにどこかに吹き飛んでしまうのだ。
彼について、俺が知っている事と言えば――
年は三十五歳。
四つ年上の妻と、中学生の子供が一人。
彼が二十歳になる頃、その妻と学生結婚をしたらしい。
その当時、妻はすでに社会人で、彼は子守りをしながら勉学に励んだと言っていた。
どうしても研究者になりたかった彼を支えてくれた妻にいつも感謝していると、彼は以前頬を赤く染めながら語ってくれた。
彼はとても家族想いで、愛妻家だ。
家族の事を話すときは少し照れながらも、俺には向ける事のない優しい瞳をして話していた。
そんな彼に、想いを告げても受け入れてくれる訳はない。
でも、自分の想いをコントロールする事も出来ない……
いつも彼と会った後は、複雑な思いを心に抱えて、俺はのろのろとした足取りで研究棟を後にする。
コツコツと俺の足音だけが、誰もいない薄暗い廊下に響き渡った。
まるで、俺の心に響く虚しさと同じように。
ああ、俺は一体どうしたらいいんだ……
一方通行の想いは滅茶苦茶に頭の中を掻き回して、俺の心を袋小路に追い込んでいた。