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【AI小説】最後の切符|2026

掲載日:2026/05/28

 ユキは、廃線の駅の椅子で目を覚ました。


 額の奥を刺すような鈍痛。手を当てると、指先がひどく冷たい。

 自分が誰なのか、なぜここにいるのか。考えようとするほど、記憶は足元の霧に吸い込まれて消えていく。


 静寂が耳に痛い待合室で、ユキは「それ」を見つけた。

 足元に落ちていた、一枚の古びた切符。

 拾い上げようと指を伸ばしたとき、視界の端に黒い影が落ちた。


「出口を探しているの?」


 低く、感情を排した声。見上げると、そこには漆黒のドレスを纏った女、クロエが立っていた。彼女の瞳は、すべてを見透かすように冷ややかだ。

「これは……」

「それはあなたが手放した、あるいは手放せなかった未練の欠片」

 クロエは細い指で切符を指し示した。

「その切符を使えば、列車はあなたを『あるべき場所』へ運びます。ただし、記憶を取り戻すことには代償が伴う。真実を知って、今より深く傷つくことになっても、あなたは行きますか?」

「……行かなければならないんです。誰かが、私を待っている気がするから」

 ユキの言葉に、クロエは微かに口角を上げた。それが慈悲なのか嘲笑なのか、今のユキには分からなかった。


 列車が霧の海を切り裂き、加速していく。

 ガタン、ゴトン、という規則的な振動が、私の空っぽの胸を叩く鼓動の代わりを務めている。窓の外を流れる乳白色の闇を見つめていると、不意に、座席のビロードから這い出してきた微かな温もりが、私の指先をくすぐった。


 それは、記憶の呼び水だった。


 最初に蘇ったのは、「色」だ。

 モノクロームだった世界に、鮮烈な「赤」が飛び込んできた。それはクリスマスの飾りのようでもあり、誰かが巻いていたマフラーの色でもあった。

 続いて、「音」が弾けた。

 雪を踏みしめる乾いた音。遠くで響く踏切の警報音。そして、私の名を呼ぶ、少し低くて柔らかな声。


「――ユキ」


 その声が脳裏に響いた瞬間、ダムが崩壊するように、濁流となって「記憶」が押し寄せてきた。

 私は、あの霧の駅で誰かを待っていたのではない。

 私は、あの駅で「彼」を見送っていたのだ。


 冬の日だった。

 空からは、意志を持たない白い欠片が、音もなく降り積もっていた。

 ホームに滑り込んできた列車の排気熱が、冷え切った私の頬をわずかに掠める。目の前には、ケイゴがいた。

『必ず戻ってくる。だから、待っていて』

 そう言って私を抱きしめた彼の胸の熱さを、私は今でも覚えている。厚いコート越しに伝わってきた、確かな命の脈動。あの時、私の世界は彼の体温だけで満たされていた。

『今日こそは、伝えよう』

 そう決めていた言葉があった。けれど、喉の奥まで出かかったそれは、列車の発車を告げる無機質なベルにかき消されてしまった。


 指先に、熱い雫が落ちた。

 自分が泣いていることに、私はようやく気づく。溢れ出した涙は、凍りついた私の頬を伝い、生まれて初めて知るような痛みとなって胸を締め付けた。


 改札を抜けた先、朝の光が氾濫する地下コンコースで、私は「彼」を見つけた。


 ケイゴだった。

 人混みの中、迷いのない足取りでこちらへ歩いてくる。その視線が、まっすぐに私を捉えた——そう信じて、私は駆け寄った。

「ケイゴ!」

 叫んだ名は、喧騒にかき消される。

 手を伸ばし、彼の胸に飛び込もうとした瞬間、衝撃のない虚無が私を貫いた。


 すれ違ったのではない。私は、彼の体を「透過」したのだ。


 振り返ると、彼は私など最初から存在しなかったかのように歩き続けている。

 その時、一人の女性が私の背中から現れ、私という空間を乱暴に通り抜けていった。


 ——熱い。


 彼女が通り抜けた跡には、暴力的なまでの体温が残っていた。それは、今この瞬間を生き、血をたぎらせ、彼を愛している者だけが持つ、傲慢なほどの命の熱量だ。

「ケイゴさん!」

 女性が彼に抱きつく。ケイゴは優しく笑い、彼女の肩を抱き寄せた。その腕は、確かに彼女の体温を、実在を、受け止めている。


 私は、自分の手を見つめた。

 透けてはいない。けれど、どれだけ握りしめても、そこには温度がない。

 彼が幸せであること。守るべき誰かがいること。それを知れば救われると思っていた。でも、今の私の胸を焼いているのは、救済などではない。

 彼が生きている世界から、私という存在の痕跡が、一滴の染みも残さず消し去られていることへの、吐き気を催すような疎外感だ。


「納得がいきましたか?」

 コンコースの柱の陰から、クロエが音もなく現れた。

 周囲の人間は誰も彼女を気に留めない。ここには私と彼女、二人分の「死」だけが浮いている。

「……彼、笑ってる」

 私の声は、自分の耳にさえ届かないほど頼りない。

「ええ。あなたが彼を愛していたように、彼も今、別の誰かを愛している。それが命のことわりです。さあ、準備は整いましたか?」


 私は、幸せそうに遠ざかっていく二人の背中を見つめた。

 愛する人の幸せを喜べない、醜く冷え切った心が、自分の中にあることに絶望する。

 彼を愛していた「私」は、どこへ行けばいいのか。この記憶は、ただ私を傷つけるためだけに返されたのか。


「……いいえ」

 私は首を振った。

 この「温かさ」を奪っていった女性への、どす黒い嫉妬。彼を忘れられない自分への呪い。

 清々しい結末なんて、どこにもない。

 私はただ、消えない胸の痛みを抱えたまま、出口のない地下通路の真ん中で立ち尽くしていた。




──THE END──

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