第8話 異常値
走れなくなったのは、いつからだったのか。
正確なタイミングは、思い出せない。
気づいたら、息が上がるのが早くなっていた。
◆
訓練区画で、俺は膝に手をついていた。
ただの軽いランニング。
異能者対応を想定した基礎体力の確認。
以前なら、息が切れるほどの負荷じゃない。
「……っ」
胸の奥が、じわじわと痛む。
呼吸が浅い。
空気が、肺に入りきらない。
「朝倉さん、止めてください」
黒瀬の声が飛ぶ。
「大丈夫です」
そう答えながら、一歩踏み出した瞬間――視界が揺れた。
床が近づく。
「っ……!」
次の瞬間、俺は倒れていた。
◆
医療区画の天井を見つめながら、俺はぼんやりしていた。
「……失神?」
「軽いものです」
医師は、モニターを見ながら言う。
「ただし、数値が良くありません」
「数値……」
「心肺機能、神経伝達速度、いずれも平均以下です」
平均以下。
その言葉が、妙に重く感じられた。
「死因転嫁による影響と考えられます」
医師は続ける。
「毎回、身体は“戻って”いますが、完全な初期化ではない」
つまり。
「……壊れて、きてる」
俺がそう言うと、医師は否定しなかった。
◆
廊下を歩く時、手が震えているのに気づいた。
意識しないと、止まらない。
黒瀬が、隣を歩きながら言う。
「上層部には、報告します」
「意味、ありますか」
少し、きつい言い方になった。
彼女は、立ち止まる。
「あります」
だが、その声に、確信はなかった。
「……俺、もう」
言葉を探す。
「前みたいには、動けません」
「それでも」
黒瀬は、静かに言った。
「あなたしか、いない」
その一言で、会話は終わった。
◆
その日の任務は、見送られた。
“一時的な稼働停止”。
モニターには、そう表示されている。
『対象番号:A-17
稼働状態:要経過観察』
要経過観察。
故障しかけの機械みたいだ。
ベッドに座り、俺は自分の手を見つめた。
確かに、ここにある。
触れる。
動く。
でも。
死ぬ瞬間の感覚が、まだ残っている。
胸を潰された感覚。
呼吸が止まる恐怖。
それが、次の生までついてくる。
◆
夜。
俺は、久しぶりに眠れた。
夢を見た。
爆発は起きない。
誰も叫ばない。
ただ、俺が走っている。
全力で。
息も切れずに。
目を覚ますと、胸が苦しかった。
夢の中では、できていたのに。
◆
翌朝。
端末に、通知が入る。
『稼働再開予定:本日 18:00』
早すぎる。
俺は、画面を見つめたまま、動けなかった。
壊れ始めていると分かっていても。
数字が下がっていても。
それでも、俺は呼ばれる。
使えるうちは、使う。
昨日、誰かが言っていた言葉が、頭をよぎる。
――廃棄。
その意味が、少しだけ現実味を帯びてきた。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
まだ、動ける。
まだ、死ねる。
それが、何よりの問題だった。




