第29話 裏切り
黒瀬は、その通達を三回読み返した。
◆
『朝倉恒一を、指定時刻に医療区画へ誘導せよ』
『対象は協力的。強制措置は不要』
『回収後は、あなたの管轄を外れる』
淡々とした文章。
感情の入る余地はない。
それでも。
最後の一文が、胸に残った。
――管轄を、外れる。
◆
黒瀬は、端末を伏せた。
震える手を、机の下で握りしめる。
これは命令だ。
拒否すれば、自分が終わる。
受け入れれば――
朝倉が、終わる。
◆
彼の顔が、思い浮かぶ。
何度も死んで。
それでも、淡々と立ち上がる姿。
数字で評価されることを、当たり前だと思っていた彼が。
初めて、迷ったあの夜。
◆
「……人で、いろって」
誰に言われた言葉だったか。
それとも、自分で言ったのか。
◆
黒瀬は、静かに立ち上がった。
端末を操作する。
公式ログ。
監視プロセス。
――一時停止。
理由欄には、こう入力した。
『システム調整』
◆
十五分。
それだけあれば、十分だ。
◆
指定された時刻。
医療区画へ向かう廊下で、朝倉と合流する。
「……来てくれましたね」
朝倉の声は、落ち着いている。
「約束でしたから」
黒瀬は、そう返した。
嘘ではない。
だが、本当でもない。
◆
二人は並んで歩く。
医療区画とは、逆の方向へ。
朝倉は、すぐに気づいた。
「……違いますね」
「はい」
黒瀬は、足を止めない。
「回収です」
はっきり言った。
◆
朝倉は、何も言わなかった。
驚きも、怒りもない。
「……やっぱり、来ましたか」
「はい」
「俺が、狂わせたから」
「……そうです」
沈黙。
◆
黒瀬は、立ち止まった。
「でも」
声が、少しだけ震える。
「私は、あなたを連れて行きません」
◆
朝倉が、初めて彼女を見る。
「……黒瀬さん」
「今から十五分」
「監視は、切れています」
端末を見せる。
「行ってください」
◆
「あなたは」
朝倉が、低く言う。
「ここに残ったら――」
「切られます」
黒瀬は、即答した。
「多分、今日中に」
◆
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「それでも、いいです」
言い切った。
「あなたが、人でいる限り」
「私は、人でいます」
◆
その言葉に、朝倉は息を詰めた。
誰かが、彼のために死ぬ。
それは、彼が一番拒んできたことだ。
「……それは」
「違います」
黒瀬は、遮った。
「これは、私の選択です」
◆
遠くで、警告音が鳴り始める。
気づかれた。
残り時間は、少ない。
◆
「行ってください!」
黒瀬が、声を上げる。
初めてだった。
命令でも、報告でもない声。
◆
朝倉は、一歩、後ずさる。
そして。
「……生きてください」
同じ言葉を、返した。
それだけ言って、走り出す。
◆
背後で、足音が響く。
黒瀬は、動かなかった。
廊下の中央に立ち、端末を操作する。
「……対象、ロスト」
公式回線に、そう報告する。
◆
次の瞬間。
腕を掴まれ、床に押し倒された。
「何をした」
知らない声。
黒瀬は、抵抗しなかった。
◆
天井の白い光を見つめながら、黒瀬は思った。
これで、終わりだ。
だが、不思議と後悔はなかった。
◆
同じ頃。
朝倉は、闇の中を走っていた。
警報が、背後で鳴り響く。
もう、戻れない。
◆
端末が、短く振動する。
『……来たか』
ノクス。
『黒瀬は?』
朝倉は、歯を食いしばる。
『……残った』
一瞬の沈黙。
『そうか』
それだけだった。
◆
朝倉は、走り続ける。
胸の奥に、重たいものを抱えたまま。
誰かが、代わりに犠牲になる。
それを、許してしまった。
◆
それでも。
この選択を、無意味にはしない。
そう、強く思った。
朝倉恒一は、この夜――
完全に、国家を裏切った。
そして同時に。
誰かに、選ばれた存在になった。
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