第2話 二度目の朝
ドアの向こうに立っていたのは、二人だった。
一人は、黒いスーツを着た男。
年齢は四十代半ばくらいだろうか。表情は硬く、視線は俺の顔を値踏みするように動いている。
もう一人は、女性だった。
同じくスーツ姿だが、こちらは少し若い。長い黒髪を後ろでまとめ、感情の読めない目でこちらを見ている。
「朝倉恒一さんで間違いありませんね」
女性が、淡々とした声で言った。
俺は一瞬、答えに詰まった。
どうして名前を知っている。
どうして、今、このタイミングで。
「……そうですけど」
警戒を隠さずにそう返すと、男の方が小さく息を吐いた。
「安心してください。怪しい者ではありません」
そう言って差し出されたのは、黒い革の手帳だった。
一瞬だけ開かれたそれには、金色の文字が刻まれている。
――公安。
その二文字を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
「少し、お話を伺いたいだけです。時間は取らせません」
女性の声は終始落ち着いていた。
断れる雰囲気ではない。
俺は黙って、ドアを開けた。
◆
車内は、異様なほど静かだった。
後部座席に座らされた俺の両脇には、いつの間にか男と女がいる。逃げ場はない。窓の外には、見慣れた街並みが流れているのに、現実感が薄かった。
「昨日の事故について、覚えていることはありますか」
女――後に黒瀬玲奈と名乗った彼女が、そう切り出した。
心臓が跳ねた。
「事故……って、バスの?」
「はい」
短い肯定。
その一言で、全てが偶然ではないと理解させられた。
「俺は……ニュースで見ただけです」
嘘だった。
だが、本当のことを言えるはずがない。
黒瀬は、俺の顔をじっと見つめた。
まるで、嘘かどうかを測っているみたいに。
「では、こちらを」
彼女がタブレットを操作すると、画面に映像が表示された。
夜の交差点。
規制線。
そして――爆発。
俺が、中心にいた。
映像の中の俺は、確かにそこにいた。
逃げるでもなく、叫ぶでもなく、ただ立っていて。
次の瞬間、消えた。
「……これは」
「防犯カメラの映像です」
黒瀬は淡々と続ける。
「爆発の直前、あなたが現場に侵入しているのが確認されています。そして、爆発後……あなたの遺体は、見つかっていません」
喉が、ひくりと鳴った。
「ですが」
彼女は一拍置いた。
「あなたは、今ここにいる」
それ以上、何も言わなかった。
言葉にしなくても、意味は十分すぎるほど伝わってくる。
「……俺は」
声が震えた。
「俺は、ただ、確かめたかっただけなんです」
「何を、ですか」
「……もし、俺がそこにいたら、何か変わるのか」
沈黙が落ちた。
男の方が、初めて口を開いた。
「変わりました」
低く、断定的な声。
「昨夜の爆発では、死者は出ていません。軽傷者が数名出ただけです」
頭が、真っ白になった。
「そんな……」
「事実です」
男は続ける。
「そして、その結果を生んだ要因は、あなたです」
車内の空気が、重くなる。
逃げたい。
今すぐ、ここから。
だが、同時に。
心のどこかで、納得している自分がいた。
――俺が死ねば、誰かが生きる。
その考えが、現実の形を持って突きつけられていた。
◆
車は、地下へと降りていった。
コンクリートの壁。
蛍光灯の白い光。
無機質な通路。
完全に、日常から切り離された場所だった。
「ここから先は、機密区域です」
黒瀬が言う。
「あなたの同意は必要ありません」
そう言い切られた瞬間、俺は悟った。
選択肢は、最初からなかったのだと。
通された部屋には、簡素な机と椅子が一つずつ。
壁には、何もない。
「朝倉さん」
黒瀬は、俺の正面に座った。
「あなたに起きている現象について、私たちは把握しています」
「……どこまで」
「あなたが死ぬと、時間が巻き戻ること。そして、その結果として、周囲の“死”が回避されること」
心臓が、嫌な音を立てた。
「そんな……」
「あなたは、特別です」
黒瀬の声には、ほんのわずかだけ、感情が混じっていた。
「そして、危険です」
彼女は、はっきりとそう言った。
「その力は、放置できない」
机の上に、一枚の書類が置かれる。
上部に記された文字。
『特務事故処理係 協力要請書』
協力。
その言葉が、ひどく空虚に見えた。
「拒否したら……どうなりますか」
俺は、絞り出すように聞いた。
黒瀬は、一瞬だけ目を伏せた。
「拘束されます」
それだけだった。
◆
地下施設の廊下を歩きながら、俺は自分の手を見つめた。
何も変わっていない。
普通の手だ。
それなのに。
この手は、何度も死んでいる。
これからも、死ぬ。
誰かの代わりに。
背後から、黒瀬の声が聞こえた。
「……あなたは、悪い人ではありません」
立ち止まり、振り返る。
彼女は、真っ直ぐ俺を見ていた。
「だからこそ、向いている仕事です」
その言葉が、胸に刺さった。
優しい人間ほど、使い潰しやすい。
そう言われている気がした。
廊下の先に、重い扉が見える。
その向こうが、俺のこれからだ。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
「……分かりました」
逃げられないのなら、受け入れるしかない。
そう思った時点で、もう。
俺は、向こう側の人間になっていたのだろう。
扉が、静かに開いた。




