時給1075円の美しい同級生
金曜日の夜、コンビニエンスストアのATMで大井 祐一は当面の生活費を下ろした。
紙幣を財布に入れ、弁当と緑茶のペットボトルを手にレジへ並ぶ。
残業を終えた身体は疲れ切っている。自炊をする気力もない。
去年離婚してから、祐一にとっての食事は「ただの栄養補給」に成り下がっていた。
目の前では、一人の女性客が店員に煙草を注文している。
「115番を二つ」
祐一はその声に、ある女性を思い出した。
息を呑む。
改めて女性の後ろ姿を眺めた。
烏のように黒ずくめ。セミロングの髪もコートもスカートも靴も。
ヒールが高い靴を履いている。そのヒールの高さを、祐一は脳内で女性の身長から引いてみた。
――160センチくらい。
確かに身長は、祐一が思い出した女性とほぼ同じ。
しかし、その祐一より頭ひとつ低い身長は特別高くもなく、低くもない。
(まさかな……)
祐一がそう思い、自身の考えを否定しようとしたとき――
会計を済ませ、出口へ向かう女性の横顔が一瞬見えた。祐一は再び驚かされる。
(那賀山だ……。那賀山 莉花がいる)
祐一は、高校を卒業して一度も那賀山 莉花とは会っていない。八年振りの再会だが、その横顔は他人の空似などではないと確信していた。
あの美しさに他人の空似などありえない。
祐一は、店の出口へ向かう那賀山 莉花の背中を目で追う。追ってしまう。
声を掛けるつもりなどない。高校三年生の一年間、「ただのクラスメイト」だっただけでほとんど会話をしたこともなかったのだから。
外見も性格も、そして頭脳までも非の打ちどころがない女子。
あまり笑わないが、笑うとエクボが出来る女子。
それが祐一にとっての那賀山 莉花の印象だった。
数学が得意なこと以外、何も取り柄がない自分には恋心を抱くのさえ許されないような存在。
その祐一が勝手に作っていた「許されない」が、未だに祐一を縛り付けていた。
祐一はレジに一歩踏み出した。
――――
「大井くん」
簡素な夕飯を手に、店から出た祐一は背後から名を呼ばれた。
慌てて振り返ると、店の前に設置された灰皿の横に那賀山 莉花が立っている。
もうすっかり陽は落ちていたが、祐一にはその姿がはっきりと見えた。店内の照明、街灯、絶え間なく行き交うクルマのヘッドライトがその姿を浮かび上がらせていた。
右手人差し指と中指で煙草を一本挟んでいる。
「…………那賀山さん、えっと……久しぶりだね」
「あっ、私のこと忘れてなかったんだ?」
祐一はその言葉に驚く。那賀山 莉花が本気で言っているのか、自虐的な冗談を言っているのか分からない。
「うん。那賀山さんこそ、よく僕なんか覚えてたね」
「やだ。忘れるわけないでしょ? 私、一回だけ数学のテストで大井くんに負けてすごく悔しかったんだから」
「……あれは完全なまぐれだよ。たまたま勉強したとこばかり、テストに出ただけ」
那賀山 莉花は手の煙草を一度喫い、静かに煙を吐き出した。
祐一はその仕草を無言で眺めている。
「私が煙草喫うの、意外?」
「いや……、僕も喫ってたからね。もう辞めたけど」
「そうなの? 大井くん、煙草喫ってたんだ……。なんかそっちの方が意外かも」
那賀山 莉花がまじまじと祐一の顔を覗きこむ。その視線に思わず祐一は顔を背たくなる。学生の頃よりも洗練された美しさに、祐一は耐えられない。
那賀山 莉花が煙草を灰皿に捨てた。まだほとんど喫っていない煙草。
「ねえ……。今から海を見に行かない?」
何の脈絡もない提案に、祐一は背けそうになっていた顔を止めた。
「なっ……、なんで⁉」
「いいじゃない? 帰ってもコンビニ弁当、一人で食べるだけでしょ?」
確かに那賀山 莉花が言う通りなのだが、祐一の頭は展開についていけない。
「『私が煙草を喫う』なんて……、どうでもよくなることを教えてあげるからさ」
「ちょっ、ちょっと那賀山さん⁉」
ようやく祐一が口を開いたとき、那賀山 莉花は車道のタクシーへ手を振っていた。
――――――
二人は漁港に立っていた。
足元のコンクリート製の岸壁に、弱く打ち寄せる波の音が響いている。
今夜は月が出ていない。先ほどとは、打って変わって二人は闇に包まれている。
その闇の中、祐一の隣には黒に身を包んでいる那賀山 莉花。
那賀山 莉花は無言で闇の海を見ている。
祐一は無言でその横顔を見ている。
祐一はこの長い沈黙に、何故か息苦しさを感じていない。
那賀山 莉花が口を開くのを、開きたくなるのをいつまでも待とうと思っている。
「ねえ、大井くん」
海を見ながら那賀山 莉花が祐一に呼びかける。
「うん。なに?」
「一ヶ月に80万円稼ぐ人って……、時給いくら?」
真意が掴めない質問に祐一はたじろいだ。
「え……、その人は週に何日、一日に何時間働くのかが分からないと計算出来ないよ」
那賀山 莉花は黒いコートのポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
煙を吐き出し、視線は海に投げたまま祐一に答える。
「週に七日、一日に24時間。今月は31日まであるからそれで計算して」
「……1075.27円だね」
「さすが。はやいね」
話は進んでいくが、やはり祐一は那賀山 莉花の真意が掴めずにいた。
「私ね、今……、愛人やってる。一ヶ月80万円」
突然の告白に祐一は声も出せない。
「そいつ、いつも金曜の夜に来るの。今夜は急にキャンセルされた。家でなんかあったのかな」
祐一は動揺しつつも、意識の一部だけ妙に冷めきっている。
数学に関する意識だけは「さっきの計算はおかしい」と冷静に考えている。
――仮に毎週末5時間、その男と会っているのなら一ヶ月で20時間、時給換算したら時給4万円が正しいだろう。
那賀山 莉花が煙草を咥えたまま、祐一へ顔を向けた。
まるで祐一の再計算を予想していたかのようにため息を吐いた。白く浮かび、煙草の煙と混ざり合う。
「そいつが言うにはさ、私には『一緒にいないときにも価値がある』んだって。訳分かんないよね」
「うん、理解は出来るけど納得は出来ない」
「だよねえ……」
那賀山 莉花は祐一の目をまっすぐ見る。今度は、その視線を祐一は受け止めた。
「大井くんらしいね」
祐一は何も言わない。何も言えない。
何故、あの那賀山 莉花が愛人なんかをしているのか。
何故、あの那賀山 莉花がここまで変わってしまったのか。
理由を訊けば説明してくれるのだろうか。
説明を聞けば、理解も納得も出来るのだろうか。
いや、違う――。
説明なんか聞きたくない。
理解も納得も必要ないから。
「大井くん……、さっきの計算だと私は二時間で2150円だね」
「……うん」
那賀山 莉花が煙草を一服し、新たな煙が流れる。
「私、二時間買ってみない? 2150円で」
「えっ……!?」
祐一はそれ以上の言葉を言えなかった。「何故?」という言葉は煙のように消えていった。先ほどと同じことを考えていた。
何故、あの那賀山 莉花が愛人なんかをしているのか。
何故、あの那賀山 莉花がここまで変わってしまったのか。
やはり、説明など聞きたくない。
理解も納得も必要ないから。
「……大井くん、まさか計算してる?」
短い沈黙の後、那賀山 莉花が口を開いた。
「何を?」
「例えば、『買ってしまったら自分のイメージが崩れるんじゃないか?』とか」
その予想外の言葉に、祐一は短く笑った。
「那賀山さん……。僕にそもそも、崩れるほどのいいイメージないよね? 僕はそこまで自信過剰じゃないよ」
「あはは。大井くん、面白いね」
那賀山 莉花が楽しそうに笑った。
(あっ――――!?)
祐一は八年振りに見た。
那賀山 莉花の笑顔を。
那賀山 莉花のエクボを。
その笑顔とエクボに祐一は、思い知らされた。
自分の過ちを、思い上がりを、間抜けさを。
「何故、あの那賀山 莉花が愛人なんかをしているのか」だって?
「何故、あの那賀山 莉花がここまで変わってしまったのか」だって?
お前はあの那賀山 莉花の何を知ってたと言うのか――?
黒に身を包んでいる理由も。
煙草を喫う理由も。
海を選んだ理由も。
今、何一つ分からないじゃないか。
「どこが変わって、どこが変わってない」なんて、何一つ分からないじゃないか。
祐一は財布から、少し震える指で紙幣を抜き取った。
無言で那賀山 莉花へ紙幣を握らせる。
「えっ!? ちょっと……、大井くん!?」
那賀山 莉花の手には一万円札が八枚。
「僕は、今から那賀山さんを二時間買う。でも、顔も知らないそいつが決めた金額は納得出来ない。僕は僕が計算して出した――、納得出来る金額を払うよ」
「大井くん……、全然変わんないね」
また那賀山 莉花が笑った。
右頬にエクボが浮かぶ。
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