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丸の内の空に、微風

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/14

第一部 笑顔の残響


朝の東京駅、丸の内中央口。ガラス張りの大屋根から差し込む光が、磨き上げられた床に幾何学模様を描き出す。その光の中を、黒や紺のスーツに身を包んだ人々の川が、一定のリズムで流れていく。その流れの一滴として、小野寺おのでら はな、27歳は、今日も背筋を伸ばして歩いていた。

彼女が勤める会社は、皇居のお堀に面してそびえ立つ、ガラスと鋼鉄でできた近代的なオフィスビルの中にある 。大手町や有楽町まで続くこの一帯は、日本のビジネスの中枢だ 。誰もが知る大企業の本社が軒を連ね、このエリアにオフィスを構えること自体が一種のブランド力を放っている 。華自身も、この街で働くことに静かな誇りを感じていた。広々とした歩道、手入れの行き届いた街路樹、そしてふと視線を上げれば、高層ビルの隙間に広がる空と、その向こうに鎮座する皇居の深い緑 。この対比が、華は好きだった。硬質で現代的なビジネスの世界と、悠久の時を刻む自然と歴史。それはまるで、彼女自身の心のようだ、と思うことがあった。

「小野寺さん、おはよう!今日もいい笑顔だね」 エントランスでセキュリティカードをかざすと、背後から明るい声が飛んできた。振り返ると、同期入社の佐藤さとう りくが、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。 「佐藤くん、おはよう。朝から元気だね」 「まあね。昨日のプレゼン、クライアントに刺さったみたいでさ。こっちの提案、ほぼ丸呑み」 軽口を叩きながらエレベーターに乗り込む。佐藤は広告代理店であるこの会社の中でも、特にクリエイティブな部署で活躍していた。常に新しい情報やトレンドにアンテナを張り、それを企画に落とし込む能力は、同期の中でも群を抜いている 。

華の仕事は、営業サポートに近い部署で、クライアントと社内の制作チームの間に立つ調整役だ。彼女の丁寧な仕事ぶりと、常に絶やさない笑顔は、社内外で評判だった。「華さんと話していると、なぜかうまくいく気がする」と、難しい案件を抱えた営業担当者から頼りにされることもしばしばだ。誰からも好かれている。それは事実だった。けれど、その笑顔の裏側で、華は時折、自分が空っぽの器のように感じることがあった。特にこの二年、恋人がいない生活は、週末の丸の内に似ていた。平日の喧騒が嘘のように静まり返り、家族連れやカップルが楽しげに行き交う中を、一人で歩いているような感覚 。満たされてはいるけれど、何かが決定的に欠けている。そんな漠然とした停滞感が、胸の奥に澱のように溜まっていた。

その夜、取引先との食事会がセッティングされたのは、丸の内オアゾの中にある、落ち着いた雰囲気の和食レストランだった 。知的で洗練された空間は、重要な会食にはうってつけだ。華も、上司の補佐として末席に座っていた。

そこで出会ったのが、武田たけだ 翔太しょうただった。大手総合商社に勤める28歳。話の端々から、彼の仕事のスケールの大きさが窺えた。海外の資源開発プロジェクト、複雑な三国間貿易のロジスティクス、為替リスクのヘッジ 。それは、華の日常とは全く違う、ダイナミックな世界だった。武田は、その世界で戦う男特有の、揺るぎない自信を全身にまとっていた。

会食が和やかに進む中、武田は意図的に華の隣に座り、巧みに話しかけてきた。 「小野寺さんは、いつもこのエリアで?丸の内は働くには最高の環境ですよね。刺激もあるし、それでいて皇居が近いからか、どこか空気が澄んでいる」 彼の質問は、単なる社交辞令ではなかった。一つ一つの言葉が、彼女という人間を的確に捉えようとする、明確な意図を持っているように感じられた。それはまるで、優秀な商社マンが新しい市場を分析するかのような、鋭さと緻密さだった 。華は少し戸惑いながらも、彼のペースに引き込まれていった。彼の話す海外での経験談は、華の知らない世界への扉を開けてくれるようで、素直に面白かった。

翌日、オフィスで昨夜の会食の報告書をまとめていると、佐藤がひょっこり顔を出した。 「お疲れ。昨日の会食、どうだった?例のカタブツ部長、ご機嫌だった?」 「うん、おかげさまで。武田さんっていう、商社の方がすごく話が上手で、場を盛り上げてくださって」 華がそう口にした瞬間、佐藤の表情が微かに変わったのを、彼女は見逃さなかった。 「へえ、商社マンね。そりゃ、人脈維持のための交際も仕事のうちだろうから、話くらい上手いか」 少し棘のある言い方に、華は内心驚いた。佐藤は普段、誰に対してもフラットな態度を崩さない。 「…まあ、仕事ができる人なんだなって思っただけだよ」 華が慌てて付け加えると、佐藤は「ふーん」とだけ言って、いつもの飄々とした顔に戻った。だが、その瞳の奥には、今まで見たことのない光が宿っているように見えた。それは、新しいキャンペーンのアイデアを見つけた時の光にも似ていたが、もっと個人的で、熱を帯びた光だった。


第二部 意図の交錯


数日後の昼下がりだった。華が自席で企画書をチェックしていると、内線が鳴った。受付からだった。 「小野寺様、お客様です。総合商社の武田様がお見えですが」 予期せぬ名前に、華の心臓が小さく跳ねた。約束などしていない。訝しみながらもエントランスに向かうと、そこにはスーツを完璧に着こなした武田が、涼しい顔で立っていた。

「突然すみません。近くまで来たものですから」 彼はそう言ったが、その目が別の目的を雄弁に語っていた。彼の本来の用件は、華の上司とのアポイントだったらしい。しかし、彼はそのついでを装い、完璧なタイミングで華を訪ねてきたのだ。 「この間の食事会、とても楽しかったです。もしよろしければ、もう少しゆっくりお話したいのですが」 人通りの少ない廊下の隅で、彼は単刀直入に切り出した。「今度、食事でもいかがですか」と。そのスマートな誘い方と、断られることを全く想定していないかのような自信に満ちた眼差しは、まさに「ハンター」のものだった。華は彼の勢いに押され、曖昧に頷きながら連絡先を交換してしまった。

その一部始終を、少し離れた場所から佐藤が見ていた。彼には二人の会話は聞こえなかったが、その距離感と雰囲気で全てを察していた。武田の狙いを定めたような身のこなし、そして、それに対して少し戸惑いながらも応じている華の姿。佐藤の胸の中に、チリチリとした焦りのような感情が広がった。まるで、コンペで競合他社に出し抜かれた時のような、苦々しい感覚だった。

その日の夕方、佐藤は仕事の相談にかこつけて華のデスクにやってきた。 「この間の案件、ちょっと相談したいんだけどさ。今日、この後時間ある?」 「ごめん、今日はちょっと…」 「そっか。じゃあさ、また改めて連絡するよ。あ、そういえば俺たち、プライベートの連絡先交換してなかったよな?同期なんだし、なんかあった時のためにさ」 その口実はあまりにも自然で、華は疑うこともしなかった。だが、佐藤の内心は違った。これは、武田という競合に対する明確な対抗策だった。彼は、負けるわけにはいかない、という強い意志に突き動かされていた。広告マンとしての本能が、この「市場」から撤退することを許さなかったのだ 。

その日から、華のスマートフォンは二人の男性からのメッセージで静かに賑わうようになった。 武田からのメッセージは、常に明確な目的を持っていた。『来週の金曜の夜、空いていますか?恵比寿に美味しいイタリアンがあるのですが』。彼のメッセージは、ビジネスのメールのように効率的で、無駄がなかった。 一方、佐藤からのメッセージは、もっと日常に溶け込んでいた。『今朝の部長のネクタイ、すごい色だったよな(笑)』『この前話してた映画、もう観た?』。彼は、共有された職場の経験や、カルチャーの話題をフックに、巧みに会話を繋げてきた。

二人とも、華に嫌われないように、しつこくなりすぎない絶妙な距離感を保っていた。その気遣いが、かえって華を悩ませた。どちらも魅力的で、悪い人ではない。ただ、その二つの異なるアプローチが、静かな水面に投げ込まれた二つの石のように、華の心に波紋を広げ続けていた。

そんなある日の夜、事件は起きた。 武田は、丸の内での長引いた会議を終え、タクシーを拾おうと大通りに出た。時刻は午後9時を回っていた。ふと、前方に見慣れたシルエットを見つけて、彼は足を止めた。華だった。そして、その隣には、親しげに笑いながら歩く佐藤の姿があった。二人は、東京駅に向かうイルミネーションで彩られた仲通りを、まるでカップルのように並んで歩いていた 。

その光景を見た瞬間、武田の胸に、これまで感じたことのない種類のモヤモヤとした感情が突き刺さった。嫉妬。それは、彼の合理的な世界には存在しないはずの、非効率で厄介な感情だった。彼はこれまで、欲しいものは戦略と努力で手に入れてきた。しかし、今、目の前にある光景は、彼のコントロールの及ばない領域で、何かが進行していることを示唆していた。

佐藤は、会社が同じだ。毎日顔を合わせ、何気ない会話を交わし、共に残業をすることもあるだろう。その「近さ」と「日常の共有」は、武田がどんなに努力しても手に入れられない、圧倒的なアドバンテージだった。総合商社の仕事は、世界を相手にするダイナミックなものだが、その分、物理的な距離や時間の制約も多い 。彼は、自分が戦略的な不利に立たされていることを、瞬時に理解した。このままではいけない。彼はポケットの中でスマートフォンを強く握りしめた。もっと、踏み込んだ一手を打つ必要がある。


第三部 四人の舞台


武田の次の一手は、迅速かつ大胆だった。その夜、彼は華にメッセージを送った。『今週末、食事に行きませんか。どうしても伝えたいことがあります』。その文面には、これまでのスマートな誘いとは違う、切迫感と決意が滲んでいた。

メッセージを受け取った華は、深くため息をついた。一対一で会えば、彼が何を伝えたいのかは明白だった。そのプレッシャーに、華の心は重くなる。どうにかしてこの状況を和らげられないか。彼女は返信に悩んだ末、一つの提案をした。『ありがとうございます。もしよかったら、私の友人も誘って、みんなで食事というのはどうでしょう?』

それは、明らかなディフェンスだった。しかし、武田はそれを逆手に取った。 『いいですね。では、僕も友人を…と言いたいところですが、あいにく急で都合がつかないようです。そうだ、もしよろしければ、この間お見かけした、小野寺さんの同僚の方…佐藤さんでしたか?彼も一緒にどうでしょう。職場の垣根を越えて、交流も深まりますし』

その返信を見た華は、思わず天を仰いだ。あまりにも見事な切り返しだった。武田は、華の防御壁を巧みに利用し、ライバルである佐藤を同じ土俵に引きずり出したのだ。断る理由は、どこにもない。華は、自分が巧妙な罠にはまったことを悟りながらも、『わかりました。佐藤くんにも声をかけてみます』と返信するしかなかった。

こうして、華、彼女の親友である由美、そして二人の求愛者、武田と佐藤という、奇妙な四人での食事会がセッティングされることになった。

舞台に選ばれたのは、恵比寿。丸の内という仕事のフィールドから離れた、お洒落で洗練された街。彼らが向かったのは、恵比寿ガーデンプレイスの最上階にあるレストランだった 。窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がり、そのドラマチックな背景が、これから始まる食卓での静かな戦いを暗示しているかのようだった。

乾杯のグラスが合わさった瞬間から、テーブルの上には見えない火花が散っていた。 「いやあ、こんな素敵なお店、なかなか来られませんよ。さすが武田さん、お店選びのセンスが違いますね」 先制攻撃を仕掛けたのは佐藤だった。彼は武田を持ち上げるふりをしながら、暗にその経済力と遊び慣れた雰囲気を由美と華に印象付けようとした。

武田は、その挑発を余裕の笑みで受け流す。 「仕事柄、海外からのお客様をお連れすることが多いもので。先月もドバイの取引先をアテンドしたのですが、彼らはこういう夜景が本当に好きでして」 彼はごく自然に、自分の仕事が持つグローバルなスケールと成功を会話に織り交ぜた 。それは、安定と野心、そして広い世界を見せてやれるという、彼からの無言のプレゼンテーションだった。

一方の佐藤は、カルチャーと共感を武器に応戦した。 「へえ、ドバイですか。すごいなあ。僕なんて最近、新しいSNSアプリのプロモーションで、ずっと渋谷の若者の動向を分析してましたよ。華も知ってるだろ、あの案件。今の10代が何に熱狂するのか、その心理を読み解くのが、まあ面白いんだけど、大変で」 彼は、華との「共有された経験」を巧みに会話に挟み込み、自分たちが同じ世界に生きる仲間であることをアピールした。彼の提供する価値は、刺激的な日常と、トレンドの最先端を共に楽しむライフスタイルだ 。

華の親友、由美は、黙ってワイングラスを傾けながら、この二人の男の「自己PR合戦」を冷静に観察していた。そして、その間で困ったように微笑みながら、時折、当たり障りのない相槌を打つだけの華の姿も。

華にとって、その時間は苦痛に近かった。二人の男性は、それぞれが持つ魅力を最大限にアピールしていた。武田が語る未来は壮大で、佐藤と過ごす時間はきっと楽しいだろう。頭ではわかる。けれど、心が全く動かない。まるで、自分という商品を前に、二人の優秀なセールスマンが、それぞれの商品の優位性を競い合っているのを見せられているような気分だった。そして、自分はそのどちらも買う気になれない、という気まずさだけが募っていく。

夜景はどこまでも美しく、料理は寸分の隙もなく完璧だった。しかし、華の心は、きらびやかな夜景とは裏腹に、どんよりと曇っていた。


第四部 偶然の幕間


緊張感に満ちた食事が終わると、華と由美は解放されたように息をついた。恵比寿駅の改札で二人の男性と別れると、由美が呆れたように言った。 「…お疲れ様。なんだったの、あれは。公開コンペ?」 「本当に、ごめん。まさかこんなことになるなんて」 華が心から謝ると、由美は笑って首を振った。 「あんたが謝ることじゃないでしょ。それより、このまま帰る気になれないんだけど。飲み直さない?私のとっておきの場所に」

由美に連れられて向かったのは、銀座だった。きらびやかでトレンディな恵比寿とは対照的に、銀座の夜はしっとりとした大人の空気に満ちていた。彼女たちは、雑居ビルの地下へと続く、狭い階段を降りていった。重厚な木の扉を開けると、そこは外の喧騒が嘘のような、静寂に包まれた空間だった。

そこは、「LITTLE SMITH」という名のバーだった 。馬蹄形のカウンターと、洞窟の中を思わせるアーチ型の天井が印象的な、隠れ家のような店だ。照明は落とされ、客たちの話し声もひそやかで、バーテンダーがシェイカーを振る音と、静かに流れるジャズだけが空間を満たしていた。華は、この場所に足を踏み入れた瞬間、強張っていた肩の力が抜けていくのを感じた。ここは、自分を偽る必要のない、本物の時間が流れる場所だ。

カウンター席に並んで座り、季節のフルーツを使ったカクテルを注文する 。 「で、どうなのよ」 由美が、氷がカランと音を立てるグラスを傾けながら、本題を切り出した。 「商社の武田さんは、典型的なハンターね。狙った獲物は逃さないタイプ。広告代理店の佐藤くんは、パフォーマー。観客を魅了して、自分のステージに引き込もうとする。華は、どっちを島から追放する?」 由美の的確すぎる分析に、華は苦笑するしかなかった。 「どっちも、追放かな…」 「え?」 「二人とも、すごくいい人だと思う。本当に。でも…なんて言うんだろう、心が動かないの。どっちかを選ばなきゃいけないって思うと、楽しいはずのことが、なんだか義務みたいに感じちゃって。今は、誰かと付き合う気になれないのかもしれない」 正直な気持ちを吐露すると、少しだけ胸が軽くなった。

その時だった。店の扉が静かに開き、一人の男性が中に入ってきた。長身で、落ち着いた雰囲気の男性だった。彼は店内を見渡し、由美の姿を見つけると、少し驚いたように目を見開き、そして小さく会釈した。 「あれ、きょうさん?」 由美が声をかける。 「由美ちゃんこそ、奇遇だね。一人で飲みに?」 「ううん、友達と。紹介するね、私の親友の華。こっちは、大学の先輩の藤堂とうどう きょうさん。29歳」

藤堂京。彼の存在は、それまでの空間の空気を一変させた。武田のような圧倒的な自信や、佐藤のような軽快なウィットとは違う、静かで穏やかなオーラをまとっていた。彼は、華たちの隣の席に腰を下ろすと、ごく自然に会話に加わった。

由美が冗談めかして、華が二人の男性の間で悩んでいることを話すと、京は興味深そうに耳を傾けていた。そして、華が困ったように俯くと、彼は静かな口調で言った。 「大変だね。でも、選ぶっていうのは、相手を評価することじゃないと思うよ。どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、自分が誰と一緒にいる時に、一番自分らしくいられるか。無理して笑ったり、背伸びしたりしなくていい相手が、きっと一番なんだと思う」

その言葉は、華の心のど真ん中に、まっすぐに届いた。武田と佐藤の前では、無意識のうちに「魅力的だと思われる自分」を演じようとしていたことに、その時初めて気づいた。彼らの期待に応えようと、背伸びをしていたのだ。京のアドバイスは、二人の男性のことではなく、華自身の心に焦点を当ててくれていた。その視点の優しさに、華は胸を突かれた。

彼との会話は、驚くほど心地よかった。彼は聞き上手で、華がぽつりぽつりと話す言葉を、一つ一つ丁寧に拾い上げてくれる。彼の前では、いつも浮かべている「愛想笑い」をする必要がなかった。

気づけば、終電の時間が迫っていた。 「…そろそろ、行かないと」 華が名残惜しそうに言うと、京も頷いた。店を出て、銀座の夜風に当たった時、華は自分でも信じられないような行動に出ていた。 「あの…もし、ご迷惑でなければ、連絡先を教えていただけませんか?」 自分から男性の連絡先を尋ねるなんて、生まれて初めてのことだった。 京は、一瞬、本当に驚いた顔をした。だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべると、「もちろん」と言ってスマートフォンを取り出した。

その夜、ベッドに入っても、華はなかなか寝付けなかった。武田と佐藤のことで悩んでいた数時間前が、遠い昔のことのように思えた。今、彼女の心を占めているのは、藤堂京という男性の、穏やかな声と、思慮深い眼差しだった。それは、これまで感じたことのない、静かだが確かな引力だった。


第五部 引力の行方


翌朝、華は目を覚ますとすぐに由美にメッセージを送った。『昨日はありがとう。あの、京さんのこと、もう少し教えてくれないかな?』

すぐに由美から返信があった。『食いつき早いね(笑)。京さんは、私も詳しくは知らないけど、確か武田さんと同じ総合商社勤務のはずだよ。でも、部署が全然違うって言ってたかな。仕事はすごくできるって評判。頭も切れるし、周りからの信頼も厚い。ただ…』

由美のメッセージは、そこで一度途切れた。 『ただ?』 華が焦れて催促すると、数秒の間を置いて、続きが送られてきた。 『今まで、彼女がいるって話を一度も聞いたことがないんだよね。モテないわけじゃないと思うんだけど…なんでだろうね。ちょっとミステリアスな人だよ』

その謎めいた情報が、かえって華の興味を掻き立てた。なぜ、彼は恋人を作らないのだろう。華は、もっと彼のことを知りたいと強く思った。

その週末、華は深呼吸を一つして、自分から京を食事に誘った。断られるかもしれない、という不安はあったが、それ以上に行動したいという気持ちが勝っていた。数分後、京から『ぜひ。楽しみにしています』という短い返信が届いた時、華は思わずガッツポーズをしていた。

彼らが会う場所に選んだのは、恵比寿の華やかさとも、銀座の重厚さとも違う、神楽坂の路地裏にある小さなビストロだった。石畳の小径に、温かい光を灯すその店は、二人がゆっくりと話すのに最適な場所だった。

食事をしながら話していると、二人の間には驚くほど多くの共通点があることがわかった。好きな作家、休日の過ごし方、仕事に対する価値観。京の物静かな態度は、興味のなさの表れではなく、彼の豊かな内面世界の裏返しなのだと、華は理解した。

彼もまた、総合商社という厳しい世界で戦っている。しかし、武田が語るような華々しい「ディール」や「交渉」の話は、彼の口からは出てこなかった 。彼が話すのは、もっと地道で、長期的な視点に立った仕事の話だった。 「僕は、新しい事業の種を見つけて、それが育つ土壌を整えるような仕事が多いんです。すぐに結果が出るものじゃないし、データ分析や地味な書類仕事も多い 。でも、5年後、10年後に大きな花を咲かせるかもしれないと思うと、やりがいを感じるんですよね」 その言葉は、彼の人間性をそのまま表しているようだった。派手さはないが、誠実で、物事の本質を見つめている。

華は、彼と一緒にいると、心が穏やかになるのを感じていた。いつも笑顔でいなければ、という強迫観念から解放され、ありのままの自分でいられる。嬉しい時は素直に笑い、疲れている時はそう言える。そんな当たり前のことが、彼といると、とても自然にできた。

ビストロを出て、夜の神楽坂をゆっくりと歩きながら、華の心の中で何かが明確な形を結んでいくのを感じた。 武田と佐藤からのアプローチに感じていた、あの息苦しさ。それは、彼らが悪いわけではなかった。ただ、彼らの求める「彼女」の型に、自分が合わなかっただけだ。そして、自分はその型に無理やり自分を押し込もうとしていた。

でも、京は違う。彼は、華に何も求めない。ただ、ありのままの彼女を見て、受け入れてくれている。

駅に向かう道すがら、華は確信した。 これは、恋だ。 flattered(お世辞を言われて嬉しい)でもなく、amused(面白い)でもない。心の底から湧き上がってくる、温かくて、少し切ない、本物の感情。

その事実に気づいた瞬間、華の心は歓びと同時に、新たな悩みに包まれた。 武田さんと、佐藤くん。二人のことを、どうしたらいいんだろう。 問題はもはや、「誰を選ぶか」ではなかった。「どうやって、この複雑に絡み合った糸を、誰も深く傷つけずに解いていくか」。華の新たな、そしてより難しい課題が始まろうとしていた。


第六部 告白と選択


数日後、華は再び京と会っていた。二度目の食事は、一度目よりもさらに打ち解けたものになった。帰り道、街灯が優しく照らす静かな道を二人で歩いていた時、不意に京が立ち止まった。

「小野寺さん」 彼の真剣な声に、華も足を止めて彼に向き直る。 「俺、小野寺さんのことが好きです」 その告白は、驚くほどストレートで、けれど少しも押し付けがましくなかった。彼の誠実な瞳が、まっすぐに華を見つめている。 「…あなたの状況が、複雑なのは知っています。由美ちゃんから少し聞きました。だから、答えを急がせるつもりはありません」 彼は、そこで一度言葉を切り、そして、華の心を解きほぐすような、優しい声で続けた。 「いつまでも待ちます。ただ、俺の気持ちだけは、伝えておきたかった」

その言葉は、華にとって何よりの救いだった。 武田の戦略的なアプローチは、華に「決断」を迫った。佐藤の競争心に満ちた態度は、華に「勝利者」を選ぶことを求めた。そのどちらもが、無言のプレッシャーとなって彼女にのしかかっていた。 しかし、京の告白は違った。彼は、華に全ての主導権を委ねてくれたのだ。「待つ」という彼の言葉は、彼女の心を尊重し、彼女自身のペースで答えを出すことを許してくれる、何よりも優しい申し出だった。それは、長期的な視点で物事を育むという、彼の仕事への姿勢そのものだった 。

その夜から、華の最後の長い熟考が始まった。彼女の頭の中で、三人の男性が、そして彼らと共にあるかもしれない三つの未来が、何度も何度も交錯した。

武田翔太ハンター

アプローチ: 直接的で、戦略的。ゴールを定めて最短距離で進む 。

コミュニケーション: 自信に満ち、常に主導権を握る。

彼との未来: エキサイティングで、ペースが速いだろう。彼の野心を隣で支える、パートナーシップ。世界を股にかける彼の隣で、自分も成長できるかもしれない。

私の感情: 彼の好意は嬉しいけれど、常に彼の期待に応えなければならないというプレッシャーを感じる。追われることで、自分のペースを見失いそうになる。

佐藤陸パフォーマー

アプローチ: 反応的で、競争心が強い。常に周囲を意識し、自分の魅力を演じる 。

コミュニケーション: ウィットに富み、会話は楽しい。しかし、本心がどこにあるのか、時々わからなくなる。

彼との未来: 楽しくて、社交的だろう。常に新しいトレンドや刺激に囲まれた、華やかな生活。

私の感情: 一緒にいて楽しいけれど、どこか気を遣ってしまう。彼の求める「面白くて可愛い彼女」を、演じ続けられるだろうか。心からの安らぎは、感じられないかもしれない。

藤堂京アンカー

アプローチ: 忍耐強く、誠実。相手を尊重し、急かさない。

コミュニケーション: 聞き上手で、思慮深い。言葉数は多くないが、一つ一つに重みがある。

彼との未来: 穏やかで、安定的だろう。お互いを尊重し合う、対等なパートナーシップ。刺激的な毎日ではないかもしれないが、確かな信頼と安らぎがある。

私の感情: 彼といると、ありのままの自分でいられる。見られている、という感覚ではなく、見守られている、という感覚。心が平和で、希望に満たされる。

考えれば考えるほど、答えは明確になっていった。華が本当に求めていたのは、誰かに選ばれることでも、誰かの隣で輝くことでもなかった。ただ、無理をせず、背伸びもせず、心から安らげる場所。素顔の自分でいられる人の隣。それだけだったのだ。

答えは、出た。

翌日、華はまず武田にメッセージを送った。『先日はありがとうございました。武田さんは本当に素敵な方だと思います。でも、ごめんなさい。お気持ちには応えられません』。丁寧だが、きっぱりとした文面だった。

次に、佐藤を会社のカフェに呼び出した。 「佐藤くん、この間はごめんね。色々考えてみたんだけど…」 華が言いかけると、佐藤はそれを遮るように、少し寂しそうに笑った。 「…だよな。なんとなく、わかってた。俺、ちょっとムキになってたみたいだ。ごめん」 彼の意外な言葉に、華は驚いた。彼は、いつものように飄々としていたが、その瞳は正直だった。 「ううん、私の方こそ。でも、これからも、同期として、いい友達でいてくれる?」 「当たり前だろ」 佐藤はそう言って、ニカッと笑った。その笑顔は、いつものパフォーマンスではない、本物の笑顔に見えた。

そして、その夜。 華は、京と会う約束をしていた。待ち合わせ場所の、丸の内仲通り。冬のイルミネーションが、街路樹をシャンパンゴールドに染めている 。 遠くから歩いてくる京の姿を見つけた瞬間、華の心に温かい光が灯った。

「藤堂さん」 華が呼びかけると、京は穏やかな笑みを浮かべた。 「華さん。寒くないですか」 「はい、大丈夫です」 華は、一度、深く息を吸った。そして、今まで誰にも見せたことのないような、心からの笑顔で、彼を見つめた。

「この間の、お返事です」

そして彼女が出した答えは、きらめくイルミネーションの光よりも、ずっと明るく、確かな輝きを放っていた。


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