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梔子の呪い ~江戸の毒薬師、謎の祟りを解く~

作者: 月影の書記
掲載日:2025/10/13

この物語は、江戸の片隅で薬を扱う変わり者の主人公が、呪いと噂される怪事件に挑むミステリーです。

 私の仕事は薬屋だ。江戸の片隅、裏路地のまたその奥で、埃をかぶった薬草箪笥に囲まれながら、日々薬を調合して糊口をしのいでいる。

 薬屋といっても、流行りの高価な丸薬や、お大尽が求めるような滋養強壮の類は扱っていない。扱うのは、腹下しに効く黄檗きはだの皮や、切り傷のためのもぐさ、あとは風邪に効く葛根かっこんくらいなものだ。客も近所の貧しい者ばかりで、儲けは雀の涙ほどもない。


(まあ、それでいい)


 乳鉢で乾かした車前草おおばこを丁寧にすり潰しながら、私は一人ごちる。店が繁盛して忙しくなるのはごめんだ。それよりも、こうして薬草と向き合い、その効能や毒性に思いを馳せる時間の方が、よほど私にとっては価値がある。


 これは苦みを抑えるために甘草かんぞうを少し混ぜようか。いや、この客は肝が弱いから、副作用を考えて別のものに……。


 そんなことを考えている時が、一番心が躍る。

 特に、毒草を扱っている時は、乳鉢を持つ手に自然と力が入る。この根を少量煎じればただの腹下しだが、量を間違えれば腸を内側から焼き爛れさせる猛毒となる。この花の蜜は甘いが、一口舐めればたちまち呼吸が止まる。

 毒と薬は表裏一体。その繊細な均衡の上に人の命が成り立っているという事実が、私の心をひどく満たしてくれるのだ。


「――いるかい、薬袋みない!」


 がらりと戸が開け放たれ、野太い声と共にむさ苦しい男が入ってきた。年の頃は四十半ば。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、着流した着物の胸元はだらしなくはだけている。

 権兵衛ごんべえという、私の数少ない知り合いだ。元は岡っ引きだったが、何かしくじりがあったとかで、今は日雇いの下働きで食いつないでいる。私の亡き養父とは飲み仲間だった縁で、今でもこうして時々、厄介事を運んでくる。


「……何の用です、権兵衛さん。見ての通り、取り込み中です」

 私は乳鉢から顔も上げずに答える。

「そうつれないことを言うなよ。お前にとって、悪い話じゃねえんだ」

 にやついた顔で、権兵衛さんは私の手元を覗き込む。薬草の匂いが充満したこの狭い店に、酒と汗の匂いが混じって、眉間に皺が寄る。


「結構です。面倒事は間に合ってますので」

「まあ聞けって。金になる。それも、お前が一年かかっても稼げねえような大金がだ」

「大金は要りません。それ相応の面倒がついてくるだけでしょう」

 ぴしゃりと言い放つと、権兵衛さんは「うっ」と一瞬言葉に詰まったが、すぐにいやらしい笑みを浮かべた。

「金が駄目なら、こう言うのはどうだ?――珍しい薬草が手に入る」


 私の手が、ぴたりと止まった。


 顔を上げると、権兵衛さんは懐から小さな包みを取り出した。包みを開くと、中には黒く乾燥した奇妙な形の根が数本入っている。

「これは……」

「とあるお武家様の庭にしか生えてねえ、唐土もろこし渡りのもんだそうだ。滋養強壮の秘薬になるらしい。こいつを蔵ごとくれてやるって話だ」


 私は思わず立ち上がり、その根をまじまじと見つめた。見たことのない形だ。独特の、少し甘ったるいような土の匂いがする。これが本当に薬草だとしたら、一体どんな効能があるのか。あるいは、強力な毒の原料になるのかもしれない。

(試したい)

 じわりと、口の中に唾が湧く。この根を煎じたらどんな色になるだろう。舐めたらどんな味がするだろう。私の体で試したら、どんな作用が起きるだろうか。


「……話を聞きましょう」

 我ながら現金なものだと思うが、知的好奇心には逆らえない。


 権兵衛さんの話は、こうだった。

 北町奉行所の管轄にある旗本、松平家の屋敷で、このところ奇妙な出来事が続いているのだという。

 当主の若様が、原因不明の病で床に伏しているらしい。それだけではない。若様の寵愛を受けていた二人の側室が、ここひと月の間に相次いで同じような病にかかり、一人はとうとう実家に戻されたという。

 医者が診ても原因は分からず、ただ体が日に日に衰弱していくばかり。そして、病に倒れた者の部屋からは、決まって梔子くちなしの甘い香りが強く漂ってくるそうだ。


「屋敷の女中たちの間じゃ、こいつは『梔子の呪い』だって噂されてる。なんでも、昔、若様に手ひどく捨てられた女が、庭の梔子の木の下で自害したことがあったらしくてな。その女の怨霊が、若様と新しい側室を祟っているんだとよ」

「……馬鹿馬鹿しい」

 思わず本音が漏れた。呪いだの祟りだの、非科学的で実にくだらない。病には必ず原因がある。それは毒か、あるいは目に見えぬ虫(細菌)の仕業か。いずれにせよ、そこに怨霊が入り込む余地などない。


「まあ、そう言うな。奉行所も気味が悪ィってんで、内々に調べてるんだが、さっぱり手がかりがねえ。そこで、薬師の知恵を借りようってことになったのさ。原因を突き止めて、この呪いとやらを解いてくれたら、礼は弾むって話だ」

 権兵衛さんは私の顔を覗き込む。

「どうだ? お前にとっては、腕の振るい甲斐がある話じゃねえか?」


 確かに、その通りだった。

 原因不明の奇病。梔子の香り。次々と倒れる人々。

 私の薬屋としての本能が、その謎を解き明かせと囁いている。そして何より、あの未知の薬草。あれを手に入れるためなら、少々の面倒も厭わない。


「……分かりました。その話、引き受けます」

 私がそう言うと、権兵衛さんは「そうこなくっちゃ!」と手を叩いて喜んだ。


 松平の屋敷へは、権兵衛さんと、もう一人、案内役の侍が付くことになった。

 店の前で待っていると、涼やかな顔立ちの若い武士がこちらへ歩いてくるのが見えた。歳の頃は二十歳前後だろうか。上等そうな着物を着こなし、腰には見事な拵えの刀を差している。そこらの下級武士とは明らかに違う、育ちの良さを感じさせる男だった。


「お前が、権兵衛の言っていた薬屋か。ずいぶんと若いのだな」

 男は私を上から下まで品定めするように見ると、つまらなそうに言った。

たちばなと申す。北町奉行所の同心だ。此度の件、私が担当することになった。お前の働き、しっかりと見届けさせてもらう」

 橘と名乗ったその同心は、どこか私を試すような目をしていた。その整った顔立ちは、そこらの女が聞けば頬を染めるのだろうが、私にとってはただの造作の良い人形にしか見えない。


「薬袋と申します。若輩者ですが、お役に立てるよう努めます」

 私は感情を殺して、淡々と頭を下げた。

 橘様は、ふん、と鼻を鳴らす。

「口先だけなら何とでも言える。まあよい、ついてこい」

 そう言って、彼はさっさと歩き出してしまった。

 その後ろ姿を見ながら、私は小さく息を吐く。

(面倒なことになった)

 権力というのは、どうしてこうも偉そうに振る舞う人間を生み出すのだろうか。

 しかし、今は我慢だ。すべては、あの未知の薬草のため。そして、私の知的好奇心を満たすためなのだから。


 松平家の屋敷は、想像していたよりもずっと大きく、立派な門構えをしていた。

 門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がり、その一角に、問題の梔子の木が植えられていた。まだ花の季節ではないが、青々とした葉が茂っている。

 屋敷の中は、ひどく静まり返っていた。行き交う女中たちは皆、何かに怯えるように足早に通り過ぎていく。呪いという言葉が、この屋敷全体を重く支配しているかのようだった。


「こちらだ。若様の部屋は奥にある」

 橘様に案内され、長い廊下を進む。

 これから私が足を踏み入れるのは、人の欲望と嫉妬が渦巻く、呪われた場所。

 だが、私の心は不思議と落ち着いていた。むしろ、これから始まる謎解きに、胸が静かに高鳴っているのを感じていた。


(梔子の香り、ね)


 どんな毒が、私を待っているのだろうか。

 私は懐に入れた小さな薬研やげんの感触を確かめながら、薄く口の端を吊り上げた。


 案内された若様の部屋は、屋敷の最も日当たりの良い場所にあった。しかし、障子は固く閉ざされ、昼間だというのに薄暗い。そして、部屋に一歩足を踏み入れた途端、鼻腔を突くような甘ったるい香りに襲われた。

(濃すぎる)

 これは、梔子の花の香りだ。だが、まるで部屋中の空気を煮詰めたかのように濃密で、むせ返るほどだった。花の季節でもないのに、これほど強い香りがするはずがない。


 部屋の中央に敷かれた布団に、松平家の若様、信一郎しんいちろう様が横たわっていた。年の頃は橘様と同じくらいだろうか。かつては美男子であっただろう面影はあるが、その顔は土気色で、頬はこけ、唇は乾ききっている。力なく閉じられた瞼が、時折かすかに震えていた。


「――医者は何と?」

 私は、隣に立つ橘様に小声で尋ねた。

「過労による衰弱、としか。どの医者も首をひねるばかりだ。食事も喉を通らず、こうして日を追うごとに弱っておられる」

 橘様は苦々しい表情で若様を見下ろしている。その目には、単なる同情以上の、何か個人的な感情が滲んでいるように見えた。


 私は若様のそばに膝をつき、許しを得てそっと手首を取った。脈は弱く、速い。額に触れると、じっとりと冷たい汗が滲んでいた。瞼を指で押し上げ、瞳孔を見る。光に反応はするが、その動きはひどく鈍い。

 これは、ただの衰弱ではない。明らかに、何らかの中毒症状を示している。体内の臓器が、ゆっくりと機能を停止させられているような状態だ。


「何か、変わったものを口にされませんでしたか」

「いや。若様は美食家だが、奇矯なものを好まれる方ではない。倒れられる前日に食されたのも、好物の水菓子だと聞いている」

「その水菓子は、どのような?」

「確か……梔子の実で黄色く色をつけた、葛餅だったそうだ」


 また梔子だ。偶然にしては、出来すぎている。

 梔子の果実は、山梔子さんししという名の生薬として使われる。消炎、利尿、止血作用があり、打ち身の薬にもなる。そして、その黄色い色素は、古くから着色料として用いられてきた。毒性はない。少なくとも、そのまま食べたところで、人が倒れるような猛毒にはならないはずだ。


「失礼いたします」

 私は若様の口元に鼻を近づけ、息の匂いを嗅いだ。甘い梔子の香りに混じって、微かに、ほんの微かに、杏仁きょうにんに似た匂いがするような気がした。

(杏仁……? いや、違う。もっと……)

 何か、別の植物の匂いだ。私の記憶の奥底にある、ある毒草の匂いに似ている。だが、それが何かは、まだはっきりと思い出せない。


「おい、何を無遠慮に嗅ぎ回っている」

 橘様が咎めるような声を出す。

「……病の原因を探るには、五感を全て使わなくてはなりませんので」

 私は平然と答え、布団から離れた。

 部屋の中を改めて見渡す。香の類は焚かれていない。それなのに、この異常なまでの梔子の香りはどこから来るのか。

 私は鼻をくんくんと鳴らしながら、匂いの発生源を探した。箪笥、硯箱、枕元。そして、部屋の隅に置かれた小さな火鉢にたどり着いた。

 火鉢の中には、真っ黒になった炭が残っている。その炭に鼻を近づけると、ひときわ強い梔子の香りがした。

「これは?」

「ああ、それは若様が倒れられてから、奥方様が『邪気を払う』と言って焚かせているものだ。梔子の実を乾燥させたものを、炭と一緒にくべていると聞いた」

 看病をしていた女中が、おずおずと答える。

(なるほど。これが発生源か)

 だが、腑に落ちない。梔子の実を燃やしたところで、これほど強烈な匂いを発するだろうか。それに、若様が倒れた後に焚き始めたのであれば、病の直接の原因とは考えにくい。これは、何かを隠すための偽装工作かもしれない。


 次に、私たちはすでに実家に戻されたという側室、お絹の方の部屋を調べさせてもらうことにした。

 がらんとした部屋は掃き清められていたが、ここにもやはり、あの甘い香りが微かに残っていた。壁や畳に染み付いてしまっているのだろう。

 私は権兵衛さんに女中たちの足止めを頼み、橘様の訝しげな視線を無視して、部屋の隅々まで調べ始めた。畳の縁、障子の桟、箪笥の裏。こういう場所に、犯人は思わぬ痕跡を残していくものだ。


「……こんなところで何が見つかるというのだ。時間の無駄ではないか」

 腕を組んで壁に寄りかかった橘様が、呆れたように言う。

「素人目には、ただの埃にしか見えないでしょうね」

 私は床に這いつくばるようにして、畳の隙間を指でなぞる。そして、部屋の隅の、最も光が届きにくい場所で、それを見つけた。

 畳の上に、米粒の半分ほどの大きさの、黒い塊がこびりついている。指先でそっとこすると、ぽろりと剥がれ落ちた。懐紙に取り、鼻に近づける。

(……間違いない。燃えかすだ)

 何かの植物を燃やした後の、微細な燃えかす。そして、そこからも、あの梔子と杏仁を混ぜたような、奇妙な匂いがした。

「橘様。これを調べていただくことは可能でしょうか」

 私が懐紙を差し出すと、橘様は眉をひそめながらもそれを受け取った。

「……ただの煤ではないのか?」

「見た目はそうですが、匂いが違います。恐らく、これが毒の手がかりになるはずです」


 続いて、今も屋敷内で臥せっているもう一人の側室、お香の方の部屋へ向かった。

 戸を開けると、彼女は布団の中から怯えた目で私たちを見つめていた。お絹の方と同じように顔色は悪く、憔悴しきっている。

「……誰です」

 か細い声が、部屋に響いた。

「奉行所の者だ。此度の件について、いくつかお話を伺いたい」

 橘様が静かに言うと、お香の方はぶるぶると首を横に振った。

「お話することなど、何も……。これは呪いです。梔子の木の怨霊が、私たちを祟っているのです……!」

 彼女は布団を頭までかぶり、子供のように泣きじゃくり始めた。これでは話にならない。

 私は仕方なく、部屋の中を観察することにした。この部屋にも、やはり梔子の香りが満ちている。そして、枕元に置かれた湯呑に目が留まった。飲み残しの白湯が、少しだけ残っている。


「失礼」

 私は断りもそこそこに湯呑を手に取り、中身を指ですくって舐めた。

「おい、貴様!」

 橘様が驚いて私の腕を掴む。

「……大丈夫です。毒見は私の仕事ですので」

 舌の上で、注意深く味を確かめる。水そのものに毒が仕込まれている様子はない。だが、湯呑の縁に、ほんのわずかに粉のようなものが付着しているのを見つけた。

 それを指先でぬぐい取り、再び舐める。

(……苦い)

 そして、舌の先が、少しだけ痺れるような感覚があった。

 これは、ただの薬ではない。植物性の、神経に作用する毒だ。ごく微量であるため、すぐに命に関わることはないが、これを長期間にわたって摂取し続ければ、体は確実に衰弱していく。若様やお絹の方の症状と一致する。


「見つけました」

 私は橘様に向き直り、静かに告げた。

「犯人は、飲み水に毒を混ぜています。それも、毎日、ごく少量ずつ。時間をかけて、ゆっくりと相手を衰弱させる、極めて悪質な手口です」

「毒だと……? だが、医者は誰も毒の反応はないと言っていたぞ」

「それは、一度に摂取する量が、あまりに少ないからです。これでは、銀の匙を使っても検知できません。しかし、塵も積もれば山となる。この毒は、確実に体を蝕んでいきます」


 私は懐から小さな薬包紙を取り出し、湯呑の縁から慎重に粉末を採取した。

「この毒の正体を突き止めれば、犯人にたどり着けるはずです」

 私の言葉に、橘様は目を見開いた。その顔から、先ほどまでの侮りの色が消えていることに、私は気づかないふりをした。


 呪いなどではない。これは、人間の手による、極めて計画的で陰湿な犯行だ。

 そして、犯人はこの屋敷の中にいる。

 梔子の甘い香りは、この毒の正体と、犯人のどす黒い悪意を隠すための、巧妙なとばりに過ぎないのだ。


 私は採取した粉末を丁寧に懐にしまうと、屋敷の庭へと向かった。

 あの梔子の木を、この目で確かめる必要がある。

 きっと、そこにも何か手がかりが残されているはずだから。


 屋敷の庭は、しんと静まり返っていた。松の緑と白砂の対比が見事で、この屋敷の主の美意識の高さを物語っている。だが、今の私の興味は、そのような風流なものにはない。

 私の足は、まっすぐに庭の一角を占める梔子の木へと向かっていた。橘様が、怪訝な顔をしながらも黙って後をついてくる。


 問題の梔子の木は、屋敷の裏手、ちょうど奥方や側室たちが暮らす棟の窓からよく見える位置にあった。大きく枝を広げ、青々とした葉を茂らせている。女が自害したという曰く付きの木にしては、妙に生命力に満ち溢れているように見えた。


「……この木に、何かあるとでも言うのか」

 橘様が、私の背中に問いかける。

「呪いの噂の出どころですから。一応、調べておくに越したことはないでしょう」

 私は木の幹に触れ、樹皮の感触を確かめる。特に変わったところはない。次に、木の根元に屈み込み、地面を丹念に調べ始めた。

 手入れの行き届いた庭だ。雑草一本見当たらない。だが、その中で一箇所だけ、明らかに土の色が違う場所があった。周囲よりも黒ずみ、少しだけ盛り上がっている。まるで、最近になって何かを埋めたかのような跡だ。

 私は懐から薬草を掘るための小さなへらを取り出すと、その場所の土を静かに掘り返し始めた。


「おい、勝手なことを……!」

 橘様が制止しようとするが、私はそれを無視した。土を数寸掘ったところで、箆の先に、硬い何かが当たった。

 それは、黒く変色した植物の根だった。先ほど権兵衛さんが見せてくれた唐土渡りの薬草とは違う。もっと細く、ごぼうの根に似た形状をしている。

 私はその根の欠片を指でつまみ上げ、鼻先へと持っていく。

(……これだ)

 若様の息から感じた、あの杏仁に似た匂い。そして、側室の部屋で見つけた燃えかすと同じ匂い。間違いない。この植物こそが、毒の正体だ。

 土の中からは、同じ根が次々と出てきた。犯人は、毒の原料となるこの植物を、あろうことか呪いの象徴である梔子の木の根元に植え、育てていたのだ。

 なんという用意周到さ、そして悪趣味なことだろう。


「この植物は?」

 橘様が、私の手の中の根を覗き込む。

「恐らく、『鉤吻こうふん』と呼ばれる毒草の仲間です」

「こうふん……? 聞いたことのない名だ」

「ええ、日ノ本ではまず見られない、海の向こうの植物ですから。根、茎、葉、花の蜜、その全てに猛毒を含みます。特に根に含まれる毒は強力で、ごく微量を摂取しただけでも、手足の痺れや呼吸困難を引き起こし、やがては心臓を停止させる。しかし、量を調整すれば、すぐには死に至らず、じわじわと体を衰弱させていくことも可能です」


 鉤吻の毒は、非常に特徴的な症状を示す。今回の若様や側室たちのように、外傷はなく、ただただ衰弱していく。そして、その毒にはわずかな苦みと、杏仁に似た独特の香りがある。

 犯人は、その匂いを消すために、より香りの強い梔子を使ったのだ。

 梔子の実を燃やし、部屋に匂いを充満させる。梔子で色づけした菓子を食させる。そうすることで、万が一、誰かが毒の匂いに気づいたとしても、「ああ、梔子の香りか」と思い込ませることができる。

 さらに、「梔子の呪い」という屋敷に古くから伝わる噂話を利用した。病の原因を怨霊の祟りだと思わせることで、毒の存在そのものから目を逸らさせる。

 全てが、計算され尽くした、あまりにも巧妙な犯行計画だった。


「……なぜ、お前のような町の薬屋が、そんな異国の毒草について知っている?」

 橘様の声には、侮りではなく、純粋な疑問と警戒の色が混じっていた。

「薬屋ですから。毒と薬は紙一重。古今東西の毒について知っておくのは、当然の務めです。亡くなった養父が、その手の知識にやけに詳しい人でしたので」

 私はそう言って、立ち上がった。養父は、若い頃に蘭方医のところで働いていたとか、大陸を旅したことがあるとか、色々と言っていたが、本当のところは分からない。ただ、私に薬と毒に関する膨大な知識を残してくれたことだけは、事実だ。


「この鉤吻を手に入れられる人間は、限られます。唐土との交易に携わっている者か、あるいは、特殊な知識を持つ薬師か医者。橘様、この屋敷に、そのような心当たりのある人物はいますか?」

 私の問いに、橘様はしばらく黙り込んでいたが、やがて、はっとしたように顔を上げた。

「……奥方様だ」

「と、申しますと?」

「松平家の奥方様、ともえ様のご実家は、長崎で硝石や生糸を扱う大店おおだなだ。唐土の珍しい品々も、頻繁に出入りしていると聞く」


 これで、点が線になった。

 若様の寵愛を側室に奪われ、肩身の狭い思いをしていた正室。その実家は、希少な毒草を手に入れられるだけの財力と販路を持っている。動機も、手段も、揃っている。


「犯人は、奥方様。あるいは、奥方様の手足となって動く、極めて近しい人間でしょう」

 私が断言すると、橘様は苦虫を噛み潰したような顔で、「馬鹿な……」と呟いた。

「奥方様は、病弱で、部屋に籠もりがちな方だ。側室たちへの嫉妬はあったやもしれんが、人を殺めるような、そんな大それたことができるとは……」

「病弱で、部屋に籠もりがち。だからこそ、このような時間のかかる、陰湿な手口を選んだのかもしれません。自らの手は汚さず、誰にも気づかれずに、憎い相手を一人、また一人と消していく。これほど確実な方法はありません」


 私の言葉が、橘様の心に突き刺さったようだった。彼は何も言い返せず、ただ唇を噛みしめている。彼の中の、奥方様に対する印象と、今、目の前に突きつけられた事実との間で、葛藤しているのだろう。

(まあ、人の心の内など、どうでもいい)

 私の関心は、ただ一つ。この事件をどう終わらせるか、だ。

 そして、鉤吻という猛毒を、どうすれば薬として利用できるか。

(解毒薬を作らなくては)

 鉤吻の毒に直接効く薬はない。だが、症状を緩和させ、体の衰弱を防ぐことはできるはずだ。甘草かんぞうと黒豆を煎じたものは、古くから百毒を解すとされている。桔梗ききょうの根も、解毒作用が高い。それらを調合すれば、気休め以上にはなるだろう。


「橘様。若様たちの命が、今はまだ繋がっているのが幸いです。すぐにでも解毒の薬湯を調合します。ですが、それだけでは足りません」

 私は橘様の目をまっすぐに見据えた。

「毒の供給源を断たねば、意味がない。――奥方様の部屋を、調べさせていただきたい」

「なっ……! 無茶を言うな。何の証拠もなく、奥方様の部屋を改めるなど、許されるわけが……」

「証拠なら、あります。この鉤吻の根と、私が側室の部屋で見つけた毒の燃えかす。そして、湯呑に付着していた粉末。これらを調べれば、同一のものであると証明できるはずです」

 私は懐から、証拠として採取した懐紙を取り出して見せた。

「呪いを解くには、呪いの大元を断つしかありません。そして、この屋敷を蝕んでいるのは、怨霊などではない。人のどす黒い悪意です。それを、白日の下に晒すのが、あなたの仕事ではないのですか?」


 私の言葉に、橘様はぐっと息を呑んだ。その整った顔に、迷いと決意の色が浮かび、消える。

 やがて彼は、一つ、大きく息を吐くと、私に向かって言った。

「……分かった。俺が、責任を持つ。だが、もし何も出なかった時は、どうなるか分かっているな?」

「その時は、煮るなり焼くなり、ご随意に。もっとも、私は薬屋なので、できれば薬研で挽いてくれると嬉しいですが」

 軽口を叩くと、橘様は「貴様というやつは……」と呆れたように眉をひそめたが、その口元には、ほんの微かに笑みが浮かんでいるように見えた。


 こうして、私たちは事件の核心、奥方様の部屋へと乗り込むことになった。

 甘い梔子の香りに隠された、苦い毒の根源。

 その扉が、今、開かれようとしていた。


 承知いたしました。

 それでは、物語の締めくくりとなります、第一話「梔子の呪い」の「結」を執筆いたします。


 奥方、巴様の部屋は、若様の部屋とはまた違う静けさに満ちていた。塵一つなく整えられた室内には、高価な調度品が控えめに置かれている。そして、ここにもやはり、あの噎せ返るような梔子の香りが漂っていた。香炉から立ち上る紫の煙が、その発生源らしかった。


 布団の上に、一人の女性が上半身を起こしていた。年の頃は二十代半ばだろうか。透けるように白い肌、柳のようにしなやかな体つき。長い黒髪を緩く結い上げたその姿は、病のせいか儚げで、いかにも庇護欲をそそる。この人が、松平家の奥方様。そして、一連の事件の首謀者と目される人物。


「――奉行所の方々が、私に何か御用でしょうか。見ての通り、わたくしは病の身。あまり長くはお相手できませんこと、お許しくださいまし」

 巴様は、力なく微笑みながら言った。その声は鈴を転がすように愛らしい。これが、毒を盛るような女の顔だろうか。橘様が言葉に詰まるのも無理はない、と私は思った。


「奥方様。単刀直入に伺います。若様や側室の方々を襲った病について、何かご存知ではありませんか」

 橘様が、努めて冷静な声で問う。

「存じません。わたくしも、皆様のご容態を案じておりました。夫の寵愛を受ける方々が次々と倒れるなど、やはりこれは、あの梔子の木の祟りに違いございませんわ」

 巴様は、すがるように自身の胸元で手を組んだ。その仕草は、ひどくか弱く見えた。


(芝居がかったものだ)


 私は、そのやり取りを黙って見ていたが、しびれを切らして部屋の中を歩き回り始めた。

「無礼者! 誰の許しを得て……」

 奥方付きの侍女が咎めるが、橘様がそれを手で制した。私は構わず、匂いの発生源である香炉に近づく。

 中には、白檀びゃくだんと思しき香木と、乾燥させた梔子の花びらが混ぜられていた。しかし、それだけではない。指で中身を軽く探ると、底の方に、見覚えのある黒い粉末が溜まっているのを見つけた。

 私はそれを一瞥すると、次に部屋の隅にある小さな薬箪笥に目をやった。病弱な奥方様が、自身の薬を管理しているのだろう。


「失礼」

 私は侍女の制止を振り払い、薬箪笥の引き出しを一つずつ開けていく。中には、風邪薬や腹痛の薬といった、ごくありふれた生薬が並んでいた。しかし、一番下の、固く閉ざされた引き出し。そこに、私は確信めいたものを感じた。

 鍵はかかっていなかった。そっと引き出すと、中には小さな石臼と薬研、そして、麻袋が一つだけ入っていた。

 袋の口を開ける。中から現れたのは、庭で掘り起こしたのと同じ、黒く乾いた鉤吻の根だった。


「――これは、何でしょうな」

 私は袋を手に取り、巴様の前に差し出した。

 その瞬間、巴様の顔から、すっと表情が消えた。か弱き佳人の仮面が剥がれ落ち、能面のような、感情の読めない顔が現れる。

「……さあ。何のことでございましょう」

「とぼけても無駄です。これは鉤吻という猛毒を持つ草の根。これを細かく砕き、日々の食事や飲み水にほんの少しずつ混ぜる。そうすれば、人は病のようにゆっくりと衰弱し、やがて死に至る。梔子の強い香りは、この毒の持つ独特の匂いを隠すための偽装。そして、古くから伝わる呪いの噂は、人の目から毒の存在を逸らすための、何よりの隠れ蓑になった」

 私は淡々と事実を述べた。

「あなたは、この屋敷の者たちが抱く怨霊への恐怖心すら、殺人計画の道具として利用したのです」


 私の言葉に、巴様はふ、と小さく息を漏らした。それは、諦観とも、嘲笑ともつかない響きを持っていた。

「……あの女たちが、憎かった」

 ぽつりと、呟きが漏れる。

「若様は、わたくしなど見向きもなさいませんでした。病弱な妻を疎み、若く美しい女ばかりを側に置いた。この広い屋敷の中で、わたくしは、まるでいないもののように扱われた。わたくしの心が、どれほどの日々、静かに血を流してきたか、誰にも分かりはしないでしょう」

 その声は、もはや弱々しくはなかった。底冷えのするような、静かな憎悪が込められていた。

「だから、消えてもらいました。一人、また一人と。呪いのおかげで、誰もわたくしを疑いはしなかった。……あなたさえ、現れなければ」

 巴様は、その冷たい瞳で、私をまっすぐに射抜いた。

「お前は、一体何者だ」


「ただの薬屋です。人の命を救う薬も、人の命を奪う毒も、私にとっては等しく興味の対象ですので」

 私はそう答えると、橘様に向き直った。

「これで、謎は解けました。あとは、よしなに」


 橘様は、複雑な表情で巴様を見つめていたが、やがて覚悟を決めたように深く息を吸い込み、部下たちに命を下した。

 松平家の奥方、巴様は、その日のうちに屋敷の奥深くにある一室に幽閉された。表向きは、病の療養のため、ということになるのだろう。武家の体面というやつは、面倒なものだ。


 私はと言えば、すぐに若様たちのための解毒薬の調合に取り掛かった。鉤吻の毒そのものを消すことはできないが、甘草と黒豆で毒の巡りを抑え、桔梗の根で肺の機能を助ける。あとは、本人の体力次第だ。

 数日後、若様と側室は、峠を越したと聞いた。まあ、私の仕事はここまでだ。


「――これ、約束のもんだ」

 権兵衛さんが、例の唐土渡りの薬草と、ずしりと重い銭の包みを店に持ってきたのは、それから十日ほど経った頃だった。

「大層なご活躍だったそうじゃねえか。奉行所の若い旦那が、お前のことをえらく褒めてたぜ」

「別に。私は私の仕事をしただけです」

 私は薬草の包みを受け取り、中身を確かめる。未知の薬草が放つ匂いに、自然と口元が緩む。これがあれば、また新しい薬が、あるいは毒が、試せる。


「そういや、橘の旦那から、これも預かってきた」

 権兵衛さんが、もう一つ、小さな包みを差し出した。中には、黒く乾いた鉤吻の根が数本入っていた。証拠品として押収されたものの一部だろう。

「『研究熱心な薬屋への、僅かな礼だ』とよ。全く、あの旦那も人が悪い」

 にやにやと笑う権兵衛さんを適当にあしらい、私は鉤吻の根を光にかざして見つめた。

 人の憎悪が生み出した、悲しい事件の元凶。しかし、私の手にかかれば、これはあるいは、別の何かの特効薬になるやもしれない。


(やはり、一番面白いのは毒と薬だ)


 人の感情のもつれなど、所詮は他人事。それよりも、この根が秘めた未知の可能性の方が、よほど私の心を躍らせる。

 私は新しい乳鉢を用意すると、鉤吻の根をそっと置いた。

 江戸の片隅の、埃っぽい薬屋。私の日常が、また戻ってきた。

 そして、それが何より、私にとっては心地よいのだった。

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