双子の空
放課後の屋上。
フェンス越しに広がる空は、今日もゆっくりと色を変えていく。
オレンジと藍が混ざり合って、グラデーションのように滲んだその夕焼けは、いつ見ても胸を締めつけるくらい綺麗で、だけど、うまく言葉にはできない。
「今日の空、ちょっと桃っぽいな」
隣で瞬がぽつりと言った。
「桃?」
思わず笑ってしまったけど、言われてみれば確かに、雲の端っこが少しだけピンクがかっている。瞬は昔から、そんな風に空に名前をつけるのが好きだった。俺にはただの夕焼けにしか見えない空も、瞬の目には、物語みたいに映ってるんだろう。
俺、悠斗【ゆうと】。そして隣にいるのが、瞬【しゅん】。
気づけばいつも、こうして並んで空を見てる。まるで夜空に寄り添って輝く、双子の星みたいに。
瞬とは、幼稚園のころからの付き合いだ。
最初の出会いは覚えていない。ただ、一番古い記憶の中に、いつも瞬がいる。
俺が砂場で泥団子を投げ合って先生に怒られた時も、瞬は隣で静かに絵本を読んでいた。でも、俺が泣きそうになってると、そっとポケットからキャンディをくれて、「これ、甘いよ」って言ったんだ。俺はその時、“優しい”ってこういうことなんだって思った。
小学校に上がっても、俺たちは相変わらず一緒だった。
俺は休み時間になるとグラウンドに飛び出してサッカーボールを追いかけるタイプで、瞬は図書室にこもって本を読み漁ってるタイプ。それなのに、なんでこんなに気が合うんだろうなって、自分でも不思議だった。
ある日、校庭でケンカして転んで、ひざをすりむいたことがあった。痛みよりも、何人かに笑われたことが悔しくて、俺はその場で泣いてしまった。
でも、その時だ。図書室帰りの瞬が、俺のところに駆け寄ってきて、何も言わずに自分のハンカチで俺の膝を拭いた。「笑われたって、走れるお前のほうがすごいよ」って、そんな風に言ってくれたのを覚えてる。
中学になっても、それは変わらなかった。
部活で泥だらけになった俺と、いつも文庫本を抱えてる瞬。
進む道は少しずつ違ってきたけれど、心の距離はなぜか縮まるばかりだった。
テスト前、俺がどうしてもわからなかった数学の問題。
ノートの端っこに図を書いて説明してくれる瞬の横顔は、なんだか少し大人びて見えた。
「お前、将来は先生とか向いてるかもな」って俺が言ったら、「悠斗がサッカー選手になるなら、それもアリかもね」って、照れたように笑ってた。
きっと、誰よりもお互いの弱さを知っているから。
だから、強がらずにいられる。無理せずにいられる。
それが、俺たちが“ずっと一緒”でいられる理由なんだと思う。
夕焼けが、夜の青にゆっくりと飲み込まれていく。
今日の空も、やっぱりエモくて、うまく言葉にならないけど――
たぶん、それを瞬と一緒に見てるってだけで、十分なんだ。
ある日、空に一筋の光がスーッと尾を引いて流れていった。
静かな空気を裂くように、一瞬だけきらめいて、そして儚く消えた。
「今の、見た?めっちゃデカかったよな!」
思わず声を上げた俺に、隣でスマホの星空アプリをいじっていた瞬が、目を離さずにぽつりと言った。
「あれ、多分彗星のかけらだね。正式には流星って言うけど」
それから、少し間を置いて続けた。
「でもさ……たまに、願いを叶えてくれるって言うじゃん。流れ星って」
「お前、案外そういうの信じるタイプ?」
俺がからかうように言うと、瞬は肩をすくめて、小さく笑った。
「信じてるわけじゃないよ。ただ……もし本当に願いが叶うなら、何を願うんだろうなって、たまに考える」
その目はスマホの画面じゃなく、もう空の向こう――見えない何かを探しているようだった。
その日の帰り道、いつもより少しゆっくり歩く瞬が、ふいに口を開いた。
「俺さ、本当は……もっとこの世界のことを知りたいんだ。空のこと、星のこと、人のこと……ぜんぶ」
「もっといろんな人と繋がってみたい。ちゃんと、心で。言葉じゃなくて、もっと深いとこでさ」
いつもは冷静で、どこか浮世離れした瞬の声が、その時は妙に人間らしくて、胸に残った。
俺は何も言えず、ただ隣を歩きながら、その言葉の余韻に耳を澄ませていた。
瞬の願いは、遠くて、でもどこかで自分の心にも似ていた。
言葉にできないなにかが、じんわりと胸の中に広がっていく。
流れ星が残した光の線は、もう空のどこにもなかったけど、あの瞬間の空の匂いや、瞬の言葉は、ずっと消えずに心に残っている気がした。
それから数日後の夜。
俺たちは、ちょっとだけ不思議な体験をした。
「見てみて、今夜はやけに星がクリアに見えるんだよ」
そう言って瞬が取り出したのは、あの古びた望遠鏡だった。
持ち手の革はすっかり擦り切れて、金属部分にもところどころ錆が浮いている。でも、瞬はそれを今でも大事そうに持っている。
この望遠鏡には、ちょっとした思い出がある。
小学校の修学旅行で京都に行ったとき、商店街のはずれにあった古道具屋で、二人で偶然見つけたんだ。木箱の奥に、ひっそりと置かれていたそれは、まるで昔の探検家が使っていたような、ロマンの塊だった。
「これ、めっちゃカッコよくない?」
「でも、俺たちのお小遣いじゃちょっと足りないかも」
財布の中身を見せ合って、数百円単位で相談して――結局、俺たちは手持ちをすべて出し合ってその望遠鏡を買った。
店のおじいさんが、ニヤッと笑って「これは昔、天文好きの坊さんが使ってたって言われとる道具なんや」とか言ってたのを、今でもなんとなく覚えてる。
それ以来、その望遠鏡はずっと瞬の部屋に置かれていた。
たまにベランダで星を見る時も、学校に自由研究で持っていく時も、瞬にとってはちょっと特別な相棒だった。
「ほら、悠斗も覗いてみて」
渡された望遠鏡を、俺は目に当てる。
――その瞬間。
いつもの星空が、一変した。
深い藍色の夜空が、万華鏡みたいにきらめいて、光の粒が渦を巻いている。
一つ一つの星が、色を持って脈打ってるみたいに、生きて見えた。
「これ……なんだ、これ……」
俺は思わず息をのんだ。
瞬は横で、瞳を輝かせていた。
「すごい……まるで、別世界みたいだよ、悠斗!」
その声が、本当に楽しそうで、少しだけ震えていた。
いつもの夜空じゃない。いつもの星じゃない。
だけど、どこか懐かしくて、胸の奥にふれるような、そんな景色だった。
俺たちはただ、望遠鏡を交代で覗いては、何度も「すげぇ」とか「やば……」とかしか言えなかった。
でも、それだけでよかった。言葉にできないこの感覚を、隣で同じように感じてるやつがいる――それだけで十分だった
俺たちは、あの古びた望遠鏡を通して、いつの間にか「世界」を旅するようになっていた。
といっても、それはSFに出てくるような銀河の果てとか、魔法の国とかじゃない。
もっと身近で、もっと不思議で、もっと静かな、誰にも気づかれずに存在している“もう一つの現実”みたいなものだった。
ある夜、俺たちは真夜中の学校にいた。
現実の世界ではとうに下校時間を過ぎているはずの教室に、ひっそりと明かりが灯っていた。
窓の外には、月が滲むように浮かんでいて、カーテンが風もないのにかすかに揺れている。
廊下の奥から、遠くにピアノの音が聴こえてきた。まるで、夢の中にいるようだった。
曲名なんて知らない。でも、胸の奥がきゅっとなるような、懐かしい旋律。
俺と瞬は、黙って耳を澄ませていた。誰もいないはずの音楽室。けれど確かに“誰か”が、あの鍵盤を撫でていた。
またある時は、シャッターが降りたままの、廃墟みたいなゲームセンターに迷い込んだ。
埃をかぶった筐体の中から、聴いたことがあるような8bitのメロディがかすかに流れていて、画面には誰もいないのにゲームが進んでいた。
ボタンもスティックも動いていないのに、「GAME OVER」の文字が、ゆっくりとフェードアウトしていくのを、俺たちはただ見つめていた。
こうした場所には、必ず“気配”があった。
人の姿は見えない。声も聞こえない。
でも、そこに誰かの「想い」だけが、確かに残っている。
寂しさ、後悔、やさしさ、願い――それらが、まるで言葉を使わずに、直接心に流れ込んでくるみたいだった。
最初は戸惑った。けれど、やがて俺たちはそれを「受け取る」ことに慣れていった。
「ねぇ、悠斗。これって、誰かの記憶なのかな」
そんな風に瞬がつぶやいた夜があった。
俺には答えられなかった。
でもきっと、それは誰かの大切な時間であり、想いであり、…そして、もしかしたら、叶わなかった願いの欠片なのかもしれない。
望遠鏡の中には、そういう世界がいくつも広がっていた。
それは現実の隙間に潜む、小さくて静かで、でも確かな「誰か」の存在。
そして気づけば俺たちも、見るだけじゃなく、その世界に耳を澄まし、心を重ねていた。
まるで――
夜空に光る星々のひとつひとつに、物語が宿っているかのように。
ある夜、俺たちは、いつものように望遠鏡を覗いていた。
けれど、その日は少し違った。
そこに現れたのは、小さな公園のベンチ。
でも、ベンチには誰もいない。曇り空の下、滑り台もブランコも、ただ雨上がりの水たまりを映していた。
不思議と、胸がざわついた。理由もなく、涙が出そうになる。
「……なんか、悲しいな」
隣で瞬がぽつりとつぶやく。
その時だった。
俺たちの耳に、幼い女の子の声が、かすかに届いた。
「……まっててね。すぐに、もどるから」
姿は見えない。でも、その声に込められた気持ちは、痛いほど伝わってきた。
その子は、何かを約束して、でも果たせなかった。
小さな手の中に、大切な“誰か”を残したまま、時間だけが過ぎていった。
「もしかして……」
俺はつぶやく。
「この世界って、誰かが心の奥にしまったままの願い――そういうのが、形になってるんじゃないか?」
瞬はゆっくりうなずいた。
「たぶん、そうだと思う。……しかも、俺たちには、それを“感じる”ことができるんだ」
そして、次の日の夜も、また次の日も、俺たちは違う場所に降り立った。
忘れられた路地裏で、ノートにびっしり綴られた手紙。
駅のホームで、誰かを待ち続ける気配。
図書館の奥で、返されなかった「ありがとう」。
俺たちはそれを拾い上げ、眺めて、時には声に出し、時にはただ黙って寄り添った。
するとその世界は、少しずつ色を取り戻していった。
感情がほどけて、やがて“誰か”の願いが、風のように消えていく瞬間を、何度も見た。
それはまるで――
空に昇っていく風船のようだった。
軽くなって、自由になって、空に溶けていく。
「……そうか、これは旅なんだ」
瞬が言った。
「心の中に残った、願いの痕跡を巡る旅。俺たちが、それを見届けるために呼ばれてるのかも」
そして俺は、思った。
この旅を続けていけば、いつかきっと、
自分の中にある願いの正体にも、辿り着ける気がする。
それが何なのかは、まだわからないけれど――
ある時、俺たちは地元の商店街を歩いていた。
かつては毎週末、家族連れでにぎわっていた場所。
でも今は、半分以上の店がシャッターを閉め、看板も色褪せて、誰も通らないさびれた通りになっていた。
瞬が言った。
「ここも、もうずっと時間が止まったままだな」
俺も、少し寂しさを感じながらうなずいた。
そのときだった。
突然、空が暗くなり、信じられないほどの雨と風が吹き荒れた。
音も光もかき消されるような、まるで嵐がこの場所だけを選んで襲ってきたみたいだった。
風に吹き飛ばされそうになりながら、俺は瞬の手を必死に掴んだ。
望遠鏡も、バチバチと青白い火花を散らし、今にも砕けそうだった。
「ヤバい、これ、ホントにまずいって!」
「大丈夫、悠斗」瞬は息を切らせながら、でも瞳だけは真っ直ぐに俺を見ていた。
「これは……ここに溜まった“想い”が、暴れてるんだよ」
俺は、意味がわかるような、わからないようなまま、でも直感で理解した。
この場所には、消えきれない願いが溜まっていた。
閉じられたままのシャッターの奥で、何年も誰かを待ち続ける気持ち。
通り過ぎた青春や、叶わなかった夢。
それが積もり積もって、今――
まるで嵐みたいに、心の空を暴れ回っている。
瞬は、ずぶ濡れになりながら望遠鏡を抱きしめるようにして、そっと目を閉じた。
「お願いだ。せめて、この街の、あの頃の輝きを……もう一度、思い出させて」
俺も、必死で祈った。
瞬とこの場所が、飲み込まれないように。
忘れられた“想い”が、俺たちの中でちゃんと受け止められますようにって。
そのときだった。
望遠鏡の奥から、ひとすじの光がスッと伸びた。
それはまるで夜明けの光のようで、だんだんと雨風を溶かしていった。
気がつけば、目の前には――
俺たちが小学生の頃に通っていた、懐かしい商店街の風景が浮かんでいた。
赤提灯の下で笑い合う大人たち。
紙風船を持ってはしゃぐ子どもたち。
試食のコロッケをくれる肉屋のばあちゃん。
あの頃、たしかにあった光景が、幻のようにそこにあった。
「きっと……ここにあった、たくさんの想いが、俺たちの願いに応えてくれたんだ」
瞬の声は少し震えていたけど、確かにあたたかかった。
俺たちはその場に立ち尽くしたまま、しばらく何も言わなかった。
けれど、その胸の奥には、なにかがゆっくりとほどけていくのを感じていた。
俺たちは、この望遠鏡の旅を通して、たくさんの「世界」と、そこに息づく人々の「想い」に触れた。
喜びも、悲しみも、諦めも、希望も――全部。
それは、俺たちの知らなかった、もう一つの「宇宙」だった。
そして、どんな困難な時も、隣にいる瞬と、心で繋がっていることの尊さを、俺は身をもって知った。
屋上で見上げる夜空は、相変わらず星の光が瞬いている。
でも今は、その一つ一つの星が、誰かの願いに見えて、どこか温かかった。
「なぁ、瞬」
俺はぽつりとつぶやいた。
「俺たちって、このまま、ずっと一緒に、いろんな世界を見ていけるのかな」
瞬はしばらく黙って空を見上げていたけれど、やがてゆっくりと微笑んで、俺の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫。だってさ――」
少し照れくさそうに、でも確かな声で言った。
「俺たちって、まるで双子の星みたいだろ?離れても、ちゃんと、同じ空で光ってるんだから」
俺は思わず笑って、うなずいた。
「ああ、そうだな」
これからも、俺と瞬は、この広い空の下で、たくさんの「世界」と出会い、
互いを信じ、支え合いながら、きっと輝き続けるのだろう。
――まるで、寄り添う二つの星のように。