9.至尚書台
尚書台とは、国の機密文章を扱う部署で、
人事を担当する吏部尚書はここに属する。
鮮卑族への大規模作戦には大勢の騎士が
必要となるだろう。
その一員として人事が下ることを俺は期待した。
だが一つ問題があった。
身長があまり高くない俺は、乗馬が凄く苦手だ。
いくら練習しても、俺の短い脚では馬の背を
挟むことが出来なかった。
しかし、非効率な事が大嫌いな俺は、自宅の
書庫から「孫子の兵法」を引っ張り出して兵学を
猛勉強した。
実際、前線で戦うだけが戦ではない。
「わっ」
尚書台に向かう俺の後ろを、
静かに徳珪がついて来ていたようだ。
「君はいつも黙り込んで、まるで神様とでもお話し
してるようだね」
「あっ、ああ、徳珪か。徳珪も尚書台に呼ばれたのか」
内心驚いたが、平静を装う事にしよう。
「ふふっ、ついにこの日がきたね。
僕は適当に任地で仕事して、箔をつけてから荊州に
帰るけど、君は騎士になれたらいいね」
何という志の低い奴だ。
まあ、一族の繁栄を守るのも一つの道だ。
己をわきまえた賢い選択と言えよう。
徳珪に尋ねた。
「荊州はそんなに良い所なんだ」
俺は春秋左氏伝などからその
地方の事は知っていたが、行ったことはまだ無かった。
「長沙の汨羅江では、五月五日に端午節という
お祭りがあって、そこでは屈強な水夫たちが
操船の技を競って河を競走するんだ。
徳珪が早口で地元の事を話し出した。
「幽州の馬とか冀州の弩とか言うけど、
この国で最強は間違いなく水夫だよね」
「それはどうかな。
世祖さまは幽州突騎を率いて天下を統一したぞ」
世祖さま(光武帝)もまた、皆が憧れる英雄の一人で、
これはもう漢民族の常識である。
「分かってないなぁ。世祖さまは荊州出身だよ」
世祖さまは水夫ではない。
何だか釈然としない気分である。
「で、そのお祭りで売ってる角黍(ちまき)が、」
「徳珪、着いたぞ」
尚書台に着いたので、一人で盛り上がる徳珪の話を
一旦遮った。
尚書台の中は静かで、職員が扱う木の板の音が
「カタカタカタ」と鳴り響いている。
部屋の一角に吏部尚書の机が並んでおり、俺と徳珪は
窓口に顔を出し問い合わせた。
「あの、すいません」
木の板を「カタカタ」と鳴らして作業していた職員が
机を立ち、窓口に出てきた。
「はい」
冷たく返事する職員に、俺は名乗った。
「郎官の曹孟徳です」
「お調べいたしますので、そちらへお掛けになって
お待ち下さい」
俺と徳珪は窓口の前にある莚へ座って待った。
「・・・」
「・・・」
「カタカタカタカタ・・・」
と、職員が木の板で手続きをしている。
数刻後には、俺は作戦参加への辞令が下るだろう。
「カタカタカタカタ・・・」
騎士になって戦で活躍して。
「カタカタカタカタ・・・」
世祖さまのように、郡で一番の美人を嫁に。
「カタカタカタカタ・・・」
さあっ、血肉わき踊る戦の世界へ。
「カタカタカタカタ・・・」
ちょっと遅くないか。
戦記物でこんな地味な描写を誰が喜ぶんだ。
こういうのって、髭のそれっぽい人が出てきて
「曹操よ、お前を任命するぞよ」とかやるもんだよな。
「曹孟徳さぁん」
ようやく窓口から呼び出しがかかった。
「あっ、はい」
「こちらが新しい赴任先になります」
俺は職員から木の板を渡され、それには、
こう書かれていた。
「辞令 曹操 雒陽北部尉」
おいおい、笑えない冗談だよな。
北部尉って、要するに都北部の番犬に
なれって事だ。
「違反者が出たらワンワンってか」
何かの間違いかも知れないので、職員に問い
合わせる。
俺はこんな所で立ち止まってはいられない。
「これ、他の人のと間違ってませんかね。
自分、騎士志望なんですが」
「確認してみます。
お調べいたしますので、そちらへお掛けになって
お待ち下さい」
「あっ、はい」
俺と徳珪は窓口の前にある莚へ座って待った。
「・・・」
「・・・」
「カタカタカタカタ・・・」
と、職員が木の板で手続きをしている。
別に文字数を稼いでいるわけでは無い。
お役所の手続きとはそういうものである。
馬に乗るのが苦手と言っても、何も跨がれないわけ
ではない。
俺の兵学の知識で鮮卑族を一網打尽に、
「曹孟徳さぁん」
「あっ、はい」
俺は再び窓口へ立った。
「こちらでお間違いないようです」
職員が冷たく言い放った。
「俺は元大長秋の孫で親父も」
後ろにいた徳珪が声を荒げる俺の肩に手をのせて
首を振った。
「どなたですか騒々しい」
窓口の奥から髭のそれっぽい人が出てきた。
「あなたねぇ、希望が通らなかったからって我々に
当たるのやめてもらっていいっすか」
以前一度見た事がある。
この男が吏部尚書の梁孟黄だ。
「お願いです騎士になりたいんです」
梁孟黄が背の低い俺を見下して。
「騎士になるには少し身長が足りないと思いまぁす」
「乗馬が駄目でも俺には兵学の知識があります」
俺は、無様でも夢の為に喰らいついた。
「兵学知ってる人なんて、この世には沢山いまぁす。
自分だけが特別だと思うのやめてもらっていいっすか」
「お前ぇ、言わせておけば」
まあまあとなだめる徳珪に連れられて、
俺は尚書台を後にした。
「今度荊州に来たら家へ寄ってよ。
蔡家自慢の大船を長江へ浮かべて派手に遊ぼう」
奴も赴任先を告げられて、明日発つらしい。
何だかんだでいい奴だった。
たしか、徳珪の名は瑁と言ったな。
まあ、荊州へ行くことは無いと思うが、
行くことがあれば、自慢のもてなしを受けるとしよう。
「では、俺も次へ進むか」
あくる日、俺は赴任先である詰め所の門を叩いた。
「本日付でここの尉(警察署長)となった曹孟徳だ」
「はぁい」
女性の吏(役人)に出迎えられ、
俺の北部尉としての仕事が始まった。
次回に続く。
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