6.師の教え
盧先生は、前に南の反乱を収めた経験を期待
されて、ふたたび南へ派遣される事になりました。
先生は、学舎の隅に積んである大きな板を
取り出し、教卓の後ろへ雑に「ドン」と置くと、
カッカッカッと音をたてながら、小刀で板へ
とても大きく「礼」と彫りました。
「私は正しい伝統を子供たちに伝える為、
故郷へ帰り、この学舎を開きました」
先生は、弟子たちに優しく語りかけます。
「実は、私は人の気持ちが全く理解出来ません」
先生は右手で自分の胸の辺りを軽く叩いてから、
大きな「礼」の文字を指差しました。
「『礼』とは、気持ちを形にするための手段です」
盧先生が弟子たちの方を強く見つめます。
「毎日の挨拶から、ご先祖様の供養など、
正しい『礼』を皆へ教化することが出来れば、
人は想いを同じくする事が出来、争いの無い世が
続いて行くと、私は信じています」
誰も他人の心なんて分かりません、
言葉では伝わらないこともあるでしょう。
ただ、「礼学」に対する盧先生の誠実さは、
言葉に乗って劉備の魂へと響いていました。
「へえ、なかなか良いこと言うじゃねえか」
気ままに遊び呆けていた劉備の生き方は
「礼」から遠く外れたものでした。
もしかしたら、盧先生のような良い指導者の
もとで「礼」をしっかり勉強すれば、彼も少しは
まともな人間になっていたかも知れません。
「まあ、『礼』みたいな畏まった事なんざ、
俺の柄じゃねえかな」
隣に座る同じ一族の徳然は、涙を流しながら、
盧先生の話を聞いています。
余程、良い先生だったのでしょう。
劉備は、徳然の無念に同情しました。
「今一度、礼によって整理された道を正さねば
ならん時期が来ました」
盧先生が釣鐘のような大声で言いました。
「戦乱の時代、孔子さまの教えは世に散らばって
しまいました。
時を経て、民衆の間では誤った教えが広まって
います。
しかし、権威ある博士たちが研究の粋を集めた
アレが完成すれば、民を正しい道へ導くことが
出来るでしょう」
清流派と濁流派の権力争い、
増えていく流民たち。
そして、南下する騎馬民族。
国は様々な問題を抱えていました。
社会不安が押し寄せる中、儒教によって民族を
団結させれば国難を乗り越えられると考えたので
しょうか。
その為に、何か計画が進められているようです。
それを語る盧先生は、まっすぐな目をしていました。
ただ、この場所にいるのは、劉備や公孫瓚の
ように、ある程度、名声や財産がある家の子弟たち
だけでした。
「春秋に護られし劉氏の正統、
我々で正しく伝えて行きましょう」
盧先生がそう話を閉めると、
「蒼天さまの聖なるご加護を」
と、最後に弟子たちと復唱し、
惜しまれる中、先生は去って行きました。
「明日からどうしよっかなぁ」
劉備は帰路つぶやきました。
徳然は努力の甲斐あって、何とかお役所の仕事に
付けそうでした。
公孫瓚たちはそれぞれ自分たちの家へ帰るようで、
劉備は元通り、莚売りに戻らなければなりません。
「お前の飯代、どうすっかなぁ」
持ち馬の的に語りかけました。
的は、他の馬と比べて、なかなか
大きい体をしており、今までは公孫瓚に餌を
分けてもらっていたのですが、この巨体を
飢えさせない為には莚売りの手伝いだけでは
稼ぎが足りそうもありません。
しばらく歩いていると、自分が住むお屋敷の
ノッポな桑の木が見えてきました。
「俺は、きっとこんな羽飾りのついた車に乗って
やるんだ」
劉備は幼いころ一族の子供たちと遊びながら
そんな事を言っていたのを思い出しました。
羽飾りの車とは、皇帝さまが乗る馬車の事で、
自分が皇帝になると言うことを意味しています。
叔父の子敬さんに
「お前、めったな事を言うな、一族を滅ぼす気か」
と、こっぴどく叱られたのでその時のことは
よく覚えていました。
「劉氏の正統ねぇ」
劉備がそう呟いていると、
「何をブツブツ言ってんだよ」
と、後ろから声がしました。
振り返ると遊び仲間の耿雍がいます。
「よう、耿(かん)さん」
「耿(こう)だっつうの」
耿と言う姓は、この地方では(かん)
と発音されていたようです。
「俺のご先祖は一応これでも世祖さまを
お助けした雲台二十八将の一人だぜ。
正しく呼んでもらわねえとなぁ」
世祖さまとは、一度滅びた国を再興した
人物の事をそう呼びます。
この場合、「光武帝劉秀』の事を指します。
「お前さんのご先祖、序列は何番目だっけ」
劉備が耿雍に聞きました。
「じゅっ、十三番目」
耿雍が口ごもり気味に答えました。
「びっみょう、超微妙」
「劉さんとこだって、臨邑侯がご先祖って、
すっげぇ微妙じゃねえか」
臨邑侯とは、「光武帝劉秀」の兄「劉演」の
子孫が封ぜられた爵位で、
劉演は、優秀な劉秀との引き合いに出された
挙げ句、漢帝国再興の半ば誅殺されてしまう
と言う可哀想な人物でした。
「てっめぇ、不敬罪で死刑だ」
やり返す耿雍に劉備は、笑いながら
軽くヘッドロックをかけました。
その時、「ほっほっほ」と笑い声がしました。
「元気がよろしいな」
楼桑の村の外れに差し掛かった頃、
髭を蓄えた人物に声をかけられました。
次回に続く。
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