序章
あらかじめ暗やみの部屋に潜んでいた朝比奈凛は、完全に暗順応が機能していた。そこへ一切の音もたてずに窓を開け、何者かが侵入してくる。ここは地上三十階であり、窓の外に床なんてものはもちろんない。
息を潜めていた凛は、手に持っていたロープを勢いよく侵入者の方へ投げつけた。
「どうやらここまでのようね」
ロープは、侵入者の身体を絡めているようだった。
「今までの盗みは、完璧だったのに。どうしてここに人がいる。どうしてこんな小娘に捕らわれる。理解できない。そんなところかしら?」凛が軽快に喋るのに対し、侵入者は黙している。
「短絡的感情に任せて人様のものを盗んでしまおうなんて、そんなことが許されると思っているの? ねえ――」
凛は一呼吸入れてその名を呼んだ。
「怪盗ロキ」
束の間の静寂。そして、怪盗は――笑った。
「はははははははっ」
その声は不気味な機械音であった。ボイスチェンジャーだろうか。「君は……、君は何も盗まないと言うのか?」ロキは無機的な声で問う。
「私は何も盗らないわ」凛が答える。
「くくっ……」ロキは薄気味悪く笑い、そして、それを堪えているかのようだった。
「君は……、言葉を、技術を、情報を、他人から盗んだことがないというのか?」ロキは更に問う。
「ないわ」
「では君の知識、行動、思想は生まれたときから備わっていた、或いは独自に生み出したのだと?」
「あなたが盗むような、美術品と一緒ではないわ」
「論点がずれているよ。君も盗んでいる……。君も盗んでいるじゃないか。君のいう――人様のものを」ロキは歪んだ口許を、手で押さえる。「しかも、君の場合は無意識ときている。自覚がないのだね。非常にたちが悪い」
「怪盗ロキは盗みの技術だけでなく、屁理屈も一流のようね」凛は落ち着いた口調で言ったが、ロープを握るその手は感情を抑えきれていないようだった。
「盗んでいるのだよ、君も。そして、その行為にさえ自分で気付いていない。くくっ、笑止の極み」
凛はついに黙した。
「早く気付きたまえ……」ロキは金属が軋むように、そっと囁いた。
「そのロープに」
何かに気付いたかのように焦る凛。ロキを捕らえていたはずのロープは、いつの間にか凛自身の体を絡めていた。凛はその場に膝から崩れ落ちる。
「さて、私は宝刀《列抜》を戴いてから帰るとしよう。では失礼するよ、レディー」ロキは漆黒のマントをひるがえし、颯爽と去っていった。
圧倒的な存在感――。
屈辱的な劣等感――。
そして、完全なる敗北感――。
エージェント朝比奈凛。ここに初めてのミッション失敗を喫することとなった。