田中美琴
田中先生視点
どんな物語を読んでも私がいつも思うことは、この続きはどうなるんだろう、という決して答えの出ない疑問だった。
本屋では、出ているはずもない続編を探し回ったことさえあった。
どんな物語にも終わりがあって、その続きを知ることは私が"観客"である限りは決してできない。
だから、私は"観客"であることを辞め、誰かの物語の"登場人物"であるために、たいていの"人生"に登場する"先生"になった。
でも、私の知りたかった"物語"の続きは"先生"になっても見ることはできなかった。
所詮は、高校の先生の出演時間など"人生"の1割にも満たないのだから。
教師になってニ年ほど経った、ある雨の日のことだったか。
ちょうど担当する学年の大体の生徒の顔と名前が一致するようになったくらいの頃だ。
そんななんてことない日に、高校まで一緒だった幼馴染みの訃報が届いた。
幼馴染みとは言っても、特に仲が良かったという訳ではない。
だが、それなりに身近な存在かつ同世代の人の死は、私に確かな喪失感を覚えさせた。
私が今のように積極的に生徒と関わるようになったのは、その喪失感に対する恐怖が一番にあったように思う。
"高校生活"が"人生"におけるたった一割とは言うけれど、それはその"物語"が順風満帆に終えられた場合の話だ。"人生"が道半ばで終わった場合、"たった"一割は、"されど"一割に変わる。
"人生"の長さが幸せに比例すると言うわけではないけれど、"物語"の長さはエンドの分岐数に比例し、それはそのままハッピーエンドの可能性に比例すると思うのだ。
幼い頃私が知りたかった"物語"の続きは先生になっても見ることはできないけれど、幼い頃私がなりたかった"人生"の"登場人物"にはなることができる。
私は今日も、誰かの"高校生活に出演する。
「どうして青春って、青と春でできてるんだろうね。私にとっては、青も春も後ろ向きの意味でしかないのに」
もう7年も勤めた学校だと言うのに、保健室のベッドがこんなにも暖かいとは知らなかった。そんなことを考えながら、高校時代からの腐れ縁である友人、多摩川奈央の青春への妬みを黙って聞いていた。
「青については何とも言えないが、春ってのは高校生活にぴったりな言葉だと思うがな」
「それは、高校生活が人生のプロローグだから一年の始めを意味する春はぴったりだってこと?」
「......分かっているのなら聞くな」
目の前の友人はよく、こちらの心を読んだかのような発言をする。
「じゃあ、庭村くんの"高校生活"は何色になるかな?」
「......さあな」
庭村優悟。去年担任を務めていたクラスの生徒の一人。
特段気を留めていたつもりはなかったが、奈央曰く、私はこの生徒を特別視してしまっているらしい。
決して邪な感情を向けていないことは確かだが、言われてみると、彼を見かけると声をかけずにはいられない自分がいることには気付いた。
だって、私が見る彼はいつも、自分の"人生"の主人公ではなく、誰かの"人生"の"登場人物"であろうとしているように見えたから。
人生の始まりも終わりも、幸せな色で染まっているに越したことはないけれど、人生とはそう生易しいものではない事は分かっているから。
だからせめて、終わる時は笑っていられるように今を生きなければならない。
私の出演時間は、彼の"物語"の一割にも満たないだろうけど、彼の"高校生活"にせめて何かしらの色が付くように。
「庭村、またいつものお仕事か?」
今日も彼の"人生"に登場する。
田中先生は二十九歳です。決して三十路ではありめせん。




