第六話
クリスは静かに目を閉じた。
再び目を開けたのは授業終了のチャイムが鳴った時だった。先生の号令で慌てて席を立ち、礼をする。
(まさか授業が終っていたなんて……)
体の力が抜けたように椅子に座り、机の上に広げられたノートを片付けようと手を伸ばした。そこで気づく。ノートが真っ白である事に。
こんな事は初めてだった。
欠席しているスフェーンのためにもと思いノートを撮ろうとしていたのだが、授業に集中出来ていなかった。これでは何のために授業に出ていたかわからない。
――原因はわかっている。
あの時、言われた言葉がずっと胸に刺さっているからだ。
『いちいち恩着せがましいのよ!』
昨日、編入してきたルチル男爵の養女――セレス・ルチルから向けられた言葉。
そこには確かに嫌悪があった。
クリスは再び目を閉じた。自分の不甲斐なさに涙がこぼれそうになるが、ぐっと耐える。
(自分が口にした事はやりとげないと! )
泣いている暇はないと心を奮いたたせる。
(新しい環境に慣れなくて不安なのはセレス様の方なのに……)
クリスは昔の自分が置かれていた環境を思い出した。病弱で学園を休んでばかりだったため、友達をつくれなかった自分は既に出来上がったグループに入る勇気が無く毎日、図書室に逃げこんでいた。そして早く時間が過ぎて欲しいと願っていたのを。
......確かに一人は寂しかった。 ――でも安慮していたのも事実。
それを考えれば、 転入初日から何かと世話を焼き、話しかけた自分は煩かったかもしれない。
「今度はお茶に誘ってみましょう ! 」
クリスはセレスと距離を計りながら接していこうと決意した。
クリスはセレスの後ろ姿を眺めながら、小さくため息をついた。セレスに対してお節介だと気付いてから接触回数を減らしてきたのだが、セレスとは未だに友好な関係を築けていない。 むしろ、悪化している気さえする。
「……本格的に嫌われてしまいましたわ」
クリスは胸のうちを吐き出した。どうして仲良くなれないのだろうと嘆く。それに、最初にセレスからぶつけられた憎悪の感情が今では拒絶に変ってきている気さえする。面と向かって言われていた文句が今ではどうか? 言葉を交わすどころか目すらも合っていない。姿を見せるや避けられてしまう始末だ。
落胆していると女生徒たちの声が聞こえた。
「また、男に色目を使っているわ」
「節操無しですわね」
「本当にあの猫撫で声は不愉快です!」
セレスに非難が集中する。だが、当の本人が気にもとめないので、火に油を注いでいるようなものだった。
クリスも何度かセレスの目に余る行為を注意してきたが、聞き入れてもらえるどころかいじめの加害者にされてしまった。
(確かに接触回数を減らした事で注意する機会が増えてしまいましたからね)
仕方が無いと言えば仕方が無い。だが、そうも言っていられない。貴族令嬢となったからにはルールを守ってもらわなければならないからだ。そうしなければ家名に傷が付いてしまうから。そう思って、声をかけただけなのに......。
「放っておけ」
冷たく言い放った声の主をクリスは見た。
「――ジェード……」
「一長一短で礼儀作法なんて身につくもんじゃないし、あいつ神経図太いから心配するだけ損だぞ?」
前の座席に腰をかけたジェードがアゲットとセレスを横目にクリスに話しかける。
「そうは言っても、やっぱり心配です」
学園にいる間はアゲットが守ってくれるだろう。令嬢たちも聖女に堂々と危害を加えないかもしれない。だが、寮では? アゲットの手が届かない場所では? セレスと令嬢たちの間に良好な関係が築けていいないのであれば必ずしも大丈夫とは言えないのだ。
「ジェードはわからないかもしれないけど、新しい環境に慣れるのってすごく大変なの。自分を受け入れてもらえるのかは勿論、自分が受け入れられるかも考えてしまうの。不安と期待が交互に押しよせてきて、周りの人にどう見られているか常に気を張っていないと頑張れないの」
クリスは胸に重ねた両手を当てた。そして言葉を続ける。
「――だからスフェーンに話しかけてもらった時はすごくうれしかった」
クリスが今回、セレスと仲良くしようとした理由は自身の経験からだった。 スフェーンにしてもらった事、感謝の想い、うれしかった思い出をセレスにもわかってもらいたかった。わかちあいたかった。
「――でもスフェーンのように出来なかった……」
クリスは再び暗い表情をした。
そんな幼馴染の姿にジェードはかける言葉を探すが、なかなか見つからない。それでも何か伝えようと口を開いた瞬間――。
「そうですわ!」
柏手をひとつ打ってクリスは立ちあがった。「良いことを思いつきましたわ」と笑顔をジェードに向ける。
「私、スフェーンがジェードと仲良くなったようにセレス様と挙と拳で語りあってきますわ!」
「はっ!?」
ちょっと待て、と静止も聞かずクリスはセレスの所に走り去ってしまった。
まさに、この時ジェードはスフェーンを何が何でも連れ戻そうと決意した瞬間だった。
必要最低限の荷物と装備を持ったジェードは学校を飛び出した。向かう先はバイトに勤しんでいるスフェーンの所。
事の発端は血相を変えてジェードを呼び止めた担任からの言葉だった。
「頼む! スフェーン・ハーキマークォーツを連れてきてくれ!! 俺の人生が……俺の命が懸かっているだ!!」
「大袈裟過ぎだろ」
呆れるジェードに担任は顔を近づけた。両肩を力強く掴み、眼をクワッと開く。
「大袈裟じゃない! お前は――お前は知らないから、そんな悠長に構えられるんだ! お前の兄のサルファーだってハーキマークォーツ家のせいで円形脱毛症になったんだぞ!」
「…………は?」
「何としてでもスフェーン・ハーキマークォーツを連れてきてくれ! 了承するまで俺は離れないぞ! それが世話係になった者の運命なんだ!!」
大の大人に泣きつかれたジェードは大勢の生徒が見ている中、スフェーンを連れ戻す約束をさせられた。もともと、クリスの件で迎えに行こうと思っていた矢先だったから都合が良かったといえば聞こえは良い。悩む事無く即決したのは、遠巻きに見られている視線に耐えかねたからである。
スフェーンと出会ったジェードは開口一番、衝撃的な事実を口にした。
「お前、出席日数足りてないぞ?」
「................えっ?」
たっぷりの間をおいてスフェーンは聞き返した。
「だから、お前このままだと落第決定」
『落第』という嫌な響きが頭に残る。――いやいや、待って。えっ!? 私そんなに学校、休んでた?
(確かにお金のことばかり計算して出席日数は数えていなかったかも……)
現実を突きつけられたスフェーンは、今回の任務を一分一秒でも早く終らせようと心に誓った。