ハルさんと シッシーと コハルさん
ハルさんとシッシーとコハルさん
野山が生き生きとした緑色に包まれ始めました。
八十八夜も過ぎて、今日は端午の節句。
ハルさんは、どっさりと柏餅をこしらえました。
「う~、こりゃたまんねえ渋さだな」
茶の間では、モグモグ柏餅をほおばりながら、シッシーが新茶をすすっています。
「知らなかったねえ。イノシシも新茶が好きとはねえ」
シッシー専用のお茶碗に、コポコポと新茶をそそぎながら、ハルさんはあきれたようにつぶやきました。
「そりゃそうと、ハルさん、今日はお客さんが来るんだろ? たしか幼なじみって言ってたよな」
「そうだよ。コハルとあたしは、小学校から高校までは、ずっとWハルさんって呼ばれるくらいの仲よしだったんだ」
けれども、卒業後は離れ離れになってしまったWハルさん。手紙や電話で近況を伝えあってはいるものの、実際に会うのは何十年ぶりのことでしょう。
「おいらも、コハルさんに会っていいのかい?」
遠慮がちなシッシーの問いかけに、ハルさんはちょっとためらいました。たしかに、シッシーという大切な友達がいるとは伝えているのですが、なにしろ五十年近く会っていないし、コハルさんはずっと都会で暮らしてきたのです。実際に大きなイノシシを見たら、驚いて逃げ帰ってしまうかもしれません。
「ごめんね。シッシー。ころあいをみてから、あんたを呼ぶから、ちょっと隣の部屋で待っててくれる?」
ハルさんの微妙な気持ちを察したのか、シッシーはおとなしく隣の部屋に入って行きました。
まもなく、玄関の格子戸を開ける音がしました。
「ハル~!来たわよ。コハルよ~」
隣の部屋のふすまをほんのちょこっと開けて、シッシーがのぞいているとはつゆしらず、出迎えたハルさんは、コハルさんを茶の間へと案内しました。
青いスカーフを首にまき、ショートカットで、金ぶちの眼鏡をかけた、すらっと背の高いおばあさん。。
―この人がコハルさんか……。
シッシーは鼻先でふすまをもうちょっとだけ開けると、興味深げに二人を見守っていました。
テーブルをはさみ、ハルさんと向かい合って座ったコハルさん。五十年ぶりの再会など、まったく感じさせないくらい自然におしゃべりが始まりました。
「ねえ、コハル、昔と比べて、とてもやせたわね」
「そうなのよ。いろいろ病気しちゃって、入院のたびに痩せてしまったわ」
「今はだいじょうぶ?」
「ええ。ピンピンしてるとはいいきれないけれど、おかげさまで何とか元気で過ごしているわよ」
「ならよかった! ねえ、柏餅食べる? 新茶も入れるわね」
「わあ、嬉しい! ハルがこしらえてくれたのね。新茶に合いそう!」
お茶を飲みながら、ひとしきりおしゃべりした後、コハルさんがこんなことを言い出しました。
「実はね、わたし、この頃とても忘れっぽくなってね。やることすべてを書きださないとだめなのよ」
コハルさんが手帳を差し出し、どれどれとハルさんがのぞき込んだときでした。わずかながらハルさんの肩がビクンと震えたのをシッシーは見逃しませんでした。
「若いころは途方もなく時間が長く感じられたのにね。今は短くて短くて。だからやるべきことはきちんとやっておきたいのに、どうしてもやり残してしまうのよね」
「ねえ……コハル……なぜそんなに急ぐのよ!」
とつぜん、テーブルにうつぶせ、ハルさんが泣き出しました。その様子に驚いたシッシー。待ちきれず隣の部屋から飛び出してきてしまいました。
「どうしたい、どうしたい、ハルさん!」
おろおろとハルさんのそばを行ったり来たり。
いきなり現れた大きなイノシシに、コハルさんはすばやく立ち上がり、息をのみました。
えい、ままよとばかり、ハルさんは涙ながらに叫びました。
「コハル、葬式を出すなんて、まだやるべきことじゃないわよ。もっと生きなきゃ!弱気になったらだめっ!」
「えっ?」
ハルさんが指さす手帳の言葉を見やったコハルさん。しゃがみこむなりお腹をかかえて笑い転げました。
「やだ、やだ、私ったらもう! シの字に濁点打ちそこなってるわ」
「ていうことは、ソウシキじゃなくて、ソウジキか?」
シッシーが解説し、ポカンと聞いていたハルさんは恥ずかしいやら、安心したやらで、またもや涙ぐんでしまいました。
「最近、コードレスの掃除機を買ったんだけどね、さっさと箱をあけりゃいいのに、ぐずぐずと一日延ばしにしてしまうのよ」
ソウシキ出すとメモしたコハルさんは、もじもじと恥ずかし気に打ち明けたのでした。
二人と一匹とで、改めてお茶の時間の仕切り直し。
またもや、渋いお茶と柏餅に舌鼓をうつシッシーを横目でみながら、コハルさんは何度もうらやましそうにつぶやきました。
「いいなあ……ハルは幸せよね。こんなかわいいイノシシが身近にいてくれてさ」
「都会に住んでで、コハルは怖いとか思わない?」
「思うわけないでしょ。ハルのかけがえのない友だちよ。私にとっても大切な存在だわ」
コハルさんの優しい言葉に、シッシーは思わず目を細めました。
楽しいひとときはあっという間に過ぎ去って、そろそろ帰りのバスの時間が近づいてきました。
ハルさんとシッシーは、庭先でコハルさんを見送りました。
「じゃあね、ハル、また手紙を書くわね。そうそう今度はシッシーにも手紙を書くから、読んであげてね」
「コハルさん、たのむから、おいらの名前に、テンテンつけてくれるなよな。まだじいさんにはなりたくねえし」
ハルさんがプッと吹き出し、コハルさんが声をたてて笑いました。
ハルさん、コハルさん、シッシーの心の色をうつしとったような、抜けるような五月の青空が、どこまでも広がっていました。