18.幸福な王子(1)
私は息を呑んだ。
目の前にいる竜は、水銀を吸い取れると当たり前のように言ったのだ。
「神経を汚染しているのよ? それでも取れるの?」
「水銀だけ抽出するくらい簡単ですよ。脈を辿ればいいんです。ほら、無から有を作る時は地脈を意識するじゃないですか? それと同じ様に血脈を意識すれば、アーさんにもきっとできますよ」
カンパネラはハッキリとそう言った。
「……いや、それは竜の特技だと思うわ」
「たとえばよ、カンパネラ。お前が水銀を吸い取って、弱るってことは無いのか?」
ホーエンハイムが尋ねる。
「いえ。逆に俺にとっては栄養のようなものです。吸い取って、別のものに変換することが出来ます。たとえば金とか」
「……なるほど」
ホーエンハイムは私の首根っこを掴んで――
「なぁなぁ、嬢さん。アレは金のなる木じゃねぇの?」
「……下賤な目でカンパネラを見ないで頂戴な」
まぁ、ホーエンハイムの言いたいことはわかる。
水銀に汚染された人を簡単に救えると言いのけた彼はすごい。
そしてその身体に有害物質を入れても、別の物質に変換できるなんて、竜って本当にすごい生き物なのね。
「カンパネラ、あなたはそれをどこで覚えたの? でまかせ、言ってみただけじゃ通じないわよ?」
「俺が生きてきた100年で知りました。最初は驚かれましたけど、こういうもんだと思い切ってますね」
あっさりと言いのけるカンパネラ。
確かに100年前までは水銀を使った治療も、ありふれていた。
そこでカンパネラが知識をつけたのかもしれない。
私はカンパネラのことを何も知らない。
誰に育てられたのか、誰とどう生きてきたのか。
いつか聞こう。
ゆっくりと時間のあるときに。
今はサーシャを救うことが大切だ。
「カンパネラ、お願い。この血液から水銀を抽出してみせて。それから、この水銀の薬という名の害のある物質も」
「はい。アーさんの仰せのままに」
カンパネラの瞳がぼぉっと光る。
まるで月の光のようだなと思った。
彼は水銀を飲むわけでもなく、それを光で浄化してみせた。
そして、彼の手からじゃらじゃらと銀貨が出てきた。
「……こんな感じですね」
そう言って、カンパネラは恥ずかしそうに笑った。
私はその凄さに圧巻されてしまった。
「おい姉さん、すごいものを拾ったな」
「……えぇ。私も竜ってこんなにすごいものだとは思わなかったわ」
開いた口が塞がらないというのは、こういうことを言うのだろう。
「この銀貨はすぐに消えるのか?」
「いえ。物質として残りますよ。本物なので」
くらっとした。
カンパネラの――竜の常識は、人の理をぐるっと一回転させる。
「よし、カンパネラ。次は金を行こう!」
ホーエンハイムが鼻息荒くカンパネラに食いつく。
カンパネラは面倒くさそうな顔をして、えー……と不満を漏らしていた。
「坊。私の竜に変な絡みをするのは、そこまでにして頂戴。カンパネラ。一度だけお願いするわ。……サーシャを助けてあげて」
「あの子だけでいいんですか?」
カンパネラはもっと出来ますよとアピールしてくる。
「だけ、でいいわ。お前の力を使いすぎて、変に噂が広まったら大変だもの」
「……それはアーさん的に、ですか?」
「お前的に、よ。竜は御伽噺や空想上の生き物と思われているのよ。万が一、面倒くさい輩に疑われたら、お前は実験動物にされてしまうかもしれないから……」
「……アーさんはお優しすぎますね」
カンパネラは微笑んだ。
「わかりました、元々アーさんの言われたとおりに力を使う気しかなかったですし。あとお役に立てれば良いんですが……ホーエンハイムさん、ナイフかメスをいただけます?」
「お、おう。何に使うんだ?」
ホーエンハイムはカンパネラにメスを渡した。
するとカンパネラは躊躇いなく、指の先を切った。
「――っ! な、何してるの!?」
私は慌ててカンパネラからメスを取り上げた。
「竜の血って、治療薬にもなるんです。あと竜の涙は宝石に。だから、この血を使って、何か治療薬にしてくれたら――」
カンパネラは笑顔で指先の血を小瓶に入れようとする。
思わず私は彼の頬を引っ叩いた。
「……やめなさい」
「どうしてですか? アーさん。貴方は医学の発展を」
「お願いよ。やめて。自分の身体を自分で傷つけるのは……やめて。私はお前にそこまでしてほしいと願ってないわ」
自己犠牲――それは美しい言葉ではあるけれど、その先にあるのは絶望だ。
自分を傷つけて、他人を救うなんて……。
そういえば、遠い国の御伽噺でそんな話があったわね。
王子の像が、友人のツバメにお願いして、貧しい人々に目のルビーやサファイアや、身体中の金箔を分け与えてあげて、最期にはみすぼらしい姿になってしまう。
それで王子の像は救われたの? 幸せになれたというの?
私はその物語を最後まで読むことが出来なかった。
私は彼の胸ぐらを掴んで言う。
「いい? カンパネラ。私の傍にいてくれるというのなら、これだけは約束して。
その一、自分を一番に考えること。
その二、自分を傷つけて他人を助けようとしないこと。
その三、自分で幸せを見つけること――いい?」
「三番目がとてもむつかしいですね。……幸せってなんなんでしょう?」
「そんなの私にもわからないわ。だから自分で見つけなさい。他人に頼らずに」
私は気づけば息が上がっていた。
興奮しすぎてしまったのだろう。
竜の血を見て――躊躇いなく自分の身体を傷つける彼を見て、その自己犠牲っぷりに、かつての自分を重ねてしまった。
「まぁまぁ、嬢さん。落ち着けって。ここは俺の家だ。痴話話なら屋敷に戻ってやってくれねぇかなぁ」
ホーエンハイムはそう言って、私の肩を掴んで、そっとカンパネラから離してくれた。
カンパネラは、私が何故ここまで怒っているのかあまり理解していないようだ。
「……まぁつまり、だな。お前はもっと自分を大事にしろ。嬢さんのことを傷つけたくなければな」
ホーエンハイムは言った。けれど、カンパネラにはまだピンと来ていないようだった。