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白虎の国王は愛の前で本性を見せる

作者: 秋月真鳥

 私は下級貴族の娘だった。

 生まれた瞬間から、私には良い縁談も幸福な結婚もないのだと分かっていた。

 全ての国民に獣人の血が入っているこの国は、獣の容貌が強く出れば出るほど血が濃いとして尊重される。父は顔も体も黒い毛皮に覆われて、猫の容貌の立派な獣人だった。母は耳と尻尾だけ特徴を持っている犬の獣人だった。

 生まれた私には全く獣人の特徴がなかった。

 艶やかな黒髪も、白い肌も、長い睫毛に縁取られた青い瞳も、この国では全く魅力がない。獣の特徴のないものなど貴族としてやっていけるわけがないのだ。

 良い家に嫁がせることもできない娘を持て余した父は、私を売った。

 私は王宮のメイドとして売られて、高貴な方々のお世話をすることになった。貴族として教育は受けているので、メイドにするにはちょうど良かったのだろう。私の家は犬の特徴を強く持って生まれた年の離れた弟が継ぐことになっていた。

 弟が生まれたから安心して両親は私を王宮のメイドにすることができたのだろう。


「うまくいけば高貴な方の妾くらいにはなれるかもしれない」


 父の言葉に心底嫌悪しつつ荷物を纏めて王宮の使用人の寮に入ったのは15の年。

 豊かな黒髪を引っ詰めて、私は王宮の端で働き始めた。

 メイドたち使用人というものは、高貴な方の前で存在しないのと同じ。空気のように自分の姿のないものと振る舞わなければいけない。

 元々本を読むのが好きで、口数の多い子どもではなかった私は、王宮の暮らしにもすぐに慣れた。床を磨き、手摺りを磨き、食器を下げ、洗濯をする。

 実家でも獣人としての特徴のない私は家事を押し付けられていたので、それが仕事となっただけで大した変化はない。

 一つだけ変わったことといえば、時折、この国の若き国王陛下のお姿を見られるようになったことくらいだろうか。

 この国の国王陛下は白い毛並みの虎の容貌をしている。氷の王と呼ばれているように、常に冷静で冷たくひとを寄せ付けないお方だと言われている。御年20歳になられた国王陛下は沢山の縁談が持ち上がっているが、そのどれもを受け入れず、孤高の存在となっている。


「宰相閣下の狼の娘さんも、お気に召さなかったみたいだよ」


 仕事をしながら私語をするなど言語道断なのだが、メイドの中には口の軽いものもいる。最近国王陛下は狼の宰相閣下の御令嬢と見合いをしたようだが、お気に召さなかったようだ。



 王宮勤めももう三年以上、私は18歳になっていた。父の言うような高貴な方からのお声もかからなかったし、誰かの目に留まることもない。ただの空気のようなメイドとして私はずっと王宮で仕事を続けて来た。

 どんな方ならばあの方のお気に召すのだろう。

 噂話をするメイドたちから離れて洗濯物を干していると、何か布切れが飛んできて私の顔に被さった。驚いてそれを引き剥がすと、香水の匂いのする豪奢なレースのハンカチだと分かる。

 どなたか高貴な方の持ち物だろうが、そのレースのハンカチは少し黄ばんで時間経過を感じさせた。

 洗濯物を干し終えて洗濯籠を片付けていると、王宮の警備兵たちがうろついている。


「本当にこっちの方向だったのか?」

「あんな小さなもの、飛んでいったら見つけようがないだろう」


 何か話しているが、警備兵は大抵位の高い貴族たちなので私から話しかけることは許されていない。私が売られる前の下級貴族の娘としてだったら話しかけることは許されたのかもしれないが、今は私の身分は使用人。ただの空気と同じメイドなのだ。

 そのまま立ち去ろうとしていると、裏庭の洗濯物を干すような場所に似つかわしくない人物が現れた。

 美しい刺繍の入った豪奢な上着とシャツを着て、尻尾を出す穴の空いたスラックスを履いた長身の白い虎の男性。それが誰かはすぐに分かった。


「国王陛下!」

「まだ見つからぬのか」


 苛立ったような声が牙のある虎の口から漏れる。驚き立ち尽くす私は、早くこの場から立ち去らねばならないのに動くことが出来なかった。

 黒い柄のある美しい白い毛並み。薄い水色の瞳。尖った立派な耳。ふさふさの毛が先にある尻尾。

 こんなに美しい生き物がこの世にいたなんて。

 この国で獣人が重用されるのには歴史的な事情があった。

 かつて戦乱の世において、獣人の血が濃くその特徴が顕著に現れているものの方が戦いにおいて有利で、ものすごい武勲をあげたのだ。国王陛下の血統は特に血が濃く、必ず獣の容貌を持つ後継者が生まれていた。

 私もこの国の国民であったようで、国王陛下の立派な虎の相貌に見惚れてしまう。なんて美しい男性なのだろう。見上げるような逞しい長身もまた、目を引いた。


「私の乳母が残してくれた、手製のハンカチなのだ。どんなことをしても探し出せ」


 ハンカチ?

 国王陛下が警備兵たちに言っている様子に私はポケットの中に入れた香水の香りがするハンカチを思い出した。取り出して勇気を出して国王陛下に近付く。


「恐れながら、国王陛下のお探しのものはこれでしょうか?」


 薄い水色の目が私を映した。直視されていると胸が落ち着かなくなって私は俯いてハンカチを差し出す。


「拾っていてくれたのか。礼を言う。ありがとう」


 氷の王と呼ばれるひととは思えない暖かな声が聞こえて、私の手からハンカチが外された。驚いている間に、国王陛下はハンカチが見つかったことを警備兵に告げて、王宮の中に戻っていった。

 最初で最後の邂逅。

 一生に一度くらいは私も美しい白い虎の国王陛下の視界に入ることがあった。

 それで全てが最後だと思っていた。



 ハンカチを拾った日から私に特に変化はなかった。

 重い濃紺の長いスカートのワンピース。ひっ詰めた髪は私の個性を殺した。

 このままずっと王宮で埋もれて生きていくのだろうと思っていた矢先に、私は新しい仕事を与えられた。床磨きや手すり磨き、洗濯物の処理など裏方の仕事ばかりだったのが、年齢もそこそこ大人になったということで、夜の仕事を与えられたのだ。

 といっても、性的なものではない。

 王宮で開かれる晩餐会の片付けや、舞踏会の片付けをさせられるようになったのだ。

 15歳で王宮に入った頃には年齢的に夜遅くまでの仕事は制限されていたが、18歳で成人するようになったので夜遅くの仕事もさせられるようになる。晩餐会や舞踏会の華やかな席にはもっと美しく獣人の特徴が少しでも現れたメイドが給仕するが、私は全てが終わった後の片付け。

 空いたグラスやボトルを厨房に運び、絨毯の染み抜きをして、椅子やテーブルも磨いていく。テーブルクロスは剥がして洗濯室に持って行く。他のメイドたちも仕事をしてはいるが、特に会話を交わすことはない。早く仕事を終えて眠りたい。そのことだけを考えて機械的に手を動かしていた。

 落とし物に気付いたのはある舞踏会の片付けをしているときだった。時刻は夜明けに近付いている。眠くて堪らないが仕事を放り出すわけにはいかないので、ソファの手すりを磨いていると、ソファの端に白いものが見えた。ソファのクッションの下に入り込んでいるそれを引っ張り出してみると、やや黄ばんだレースのハンカチだった。


「あれ……これは」


 見たことがある。

 忘れるはずもない、国王陛下との最初で最後の邂逅のときに拾ったハンカチに違いなかった。鼻をくすぐる香水の香りも間違いなくあのときのものだ。

 落として警備兵に探させていたような大事なものを、国王陛下はまた失くしてしまったのか。氷の王と言われる冷たく孤高の人物像に当てはまらない抜けた行動に笑ってしまったが、笑っている場合ではないとすぐに気付く。

 大事なハンカチをなくしたことに気付いた国王陛下は、大慌てで探していることだろう。いや、この時刻ならばまだ眠ったばかりで起きていなくて気付いていないかもしれない。どちらにせよ、気付けば警備兵が総動員されて探すことには違いない。

 誰かに頼んで国王陛下の元に届けてもらおうと思ったのだが、私は空気であるべきメイドで、国王陛下の部屋に近付けるような身分の方に話しかけられるはずもない。それでも一大事なのだからと勇気を出して国王陛下の執事に声をかければ、呆れられてしまった。


「私に声をかけて良い身分ではないでしょう。それに、国王陛下がそんな年季の入った黄ばんだハンカチをお持ちのはずがない」


 ばっさりと言い切られてしまって私は慌てて言い訳をする。


「以前にこれを落とされて、警備兵を使って探されていたのです」

「もっと美しいハンカチを国王陛下はいくらでもお持ちのはずです。そんな黄ばんだハンカチ、大事にしているはずがない。それを理由に国王陛下に近付こうという浅ましい考えが透けて見えていますよ?」


 揶揄するように言われてしまって、私はそれ以上食い下がることができなかった。

 しかし、このハンカチのレースの刺繍、香水の匂い。これが間違いなく国王陛下が大事にされていたハンカチだということには違いないと私の本能が告げる。


――私の乳母が残してくれた、手製のハンカチなのだ。どんなことをしても探し出せ


 警備兵に向かって命令した厳しい白い虎の横顔が思い出される。


――拾っていてくれたのか。礼を言う。ありがとう


 私のようなメイドに向かって「ありがとう」と暖かく言うくらいに国王陛下はこのハンカチを大事にしていた。国王陛下の乳母さんがどんな方かは存じ上げないが、きっと国王陛下を優しく育て上げたのだろう。そして今は国王陛下のお傍にはいない。それだけに国王陛下は乳母さんを懐かしがってお手製のハンカチを大事にしているのだ。

 御年20歳の国王陛下は成人しているが、激務の中で一人孤独に戦っているというのは聞いている。あの美しい方の大事にしているハンカチを手元に返して差し上げたい。

 私は仕事の終わった明け方にそっと動き出した。



 この時間でも働いているメイドがいるのは、私にとっては幸いなことだった。国王陛下付きのメイドと私の格好はほとんど変わりがない。紛れ込んでしまえば王宮の奥まで入り込める。

 初めて入り込んだ国王陛下の生活する棟に、膝ががくがくと震えて冷や汗をかいていた。

 私はただの空気。何事もないように通り過ぎれば誰にも気にされることはない。

 自分に言い聞かせて棟の階段を上がっていく。国王陛下のお部屋はこの棟の最上階にあるはずだった。

 獣人の国王陛下は手も人間のものに近いが白い虎の毛皮に覆われていて、細かいことができない。私の父がそうだったので分かるが、獣人の血が濃いものは人間の血が濃い細かな作業のできる手を持つものの助けなしには着替えもできない。

 高貴な身分ともなると着替えすらもプライバシーなどないのだ。

 そういう環境に育ったからなのか、国王陛下は度重なるお見合いも全て断って女性を寄せ付けたことがない。それはこの国にとって大きな問題だった。

 国王陛下には獣人の血が濃い女性と結婚してお世継ぎを作る義務がある。高貴な身分になると結婚や子どもを作ることまで義務なのだから、国王陛下が嫌になってこの人気のない棟に閉じこもってしまうのも仕方がないことなのかもしれない。

 最上階まで階段を上がると、国王陛下の声が響いていた。


「どこに置いてきてしまったのだ……あれがなければ、私は……」


 何か探している様子の国王陛下の部屋の扉は空いていて、国王陛下は扉から出て廊下を歩いてはまた部屋の中に戻っている。どうお声をかければ良いものか立ち尽くしていると、国王陛下の水色の目が階段を上がり終えた私の方に向いた。


「そなたは……」

「申し訳ございません、執事様にお渡ししようと思ったのですが受け取っていただけなくて」


 ハンカチを渡してしまえばそれでおしまい。国王陛下との繋がりがなくなるのは寂しい気がしたが、国王陛下の大事なものをお届けできたのならばそれでいい。

 白い刺繍の入った少し黄ばんだハンカチを差し出すと、ハンカチではなく私の手が取られた。

 強く引き寄せられて、私は国王陛下の胸に抱かれていた。

 見上げるような長身に逞しい体。かつて戦争を生き抜くために獣人が重用されたこの国において頂点に立つ一番強い男の胸に私は抱かれている。

 美しい毛並みも透明度の高い水色の瞳も間近で見てしまって私は胸が高鳴るのが止められなかった。心臓が早く脈打ちすぎて死んでしまうかもしれない。


「二度も助けてくれた……」


 胸の内を吐露するように国王陛下が私の耳に囁きかける。


「私にとってそのハンカチは、私を唯一愛してくれた乳母の残したものなのだ。そなたは、乳母に似ている」


 抱き締められたまま国王陛下が私を部屋の中に招き入れる。世話をするためのメイドもいない国王陛下の部屋に、私と国王陛下の二人きり。大きなソファに招かれて私のようなメイドが座っていい場所ではないはずなのに、国王陛下に抱き締められたままで私はソファに座っていた。


「そなたなら……」


 国王陛下の胸に抱かれて、心臓の音を聞きながら私は目を閉じる。どくどくと力強く脈打つ国王陛下の心臓が、私の胸もざわつかせる。


「乳母の思い出のハンカチは私の唯一の心の支えだった。これがなければ私は落ち着かぬのだ」


 大事な乳母さんのお手製のハンカチ。それがなければ落ち着かないと黄ばむまで常に持っているが、国王陛下のクールな印象と合わないのでそのことを打ち明けられない。それ故に執事も国王陛下のハンカチの件を知らなかったようだ。


「そなたになら、私の本当の姿を晒せるかもしれない」


 本当の姿!?

 それがどんなものなのか私の胸が騒がしく脈打つ。

 国王陛下の逞しい胸に抱かれて、低く良く響く声を聞きながら私がうっとりとしていると、国王陛下はそっと私から体を離した。やはりメイド如きに手を出すことは憚られたのだろうか。

 一夜の遊びでも構わない。国王陛下のものになりたいなどという私の思いは、驕り高ぶったもののようだった。



 立ち上がろうとした私に、国王陛下が手を握って止める。国王陛下の手はふさふさとした毛に包まれている。


「撫でて、くれぬか?」

「ふぇ?」


 変な声が出てしまった。国王陛下の前で不敬だと言われようとも私は非常に間抜けな顔をしていただろう。

 クールな容貌に氷の王と言われる孤高の存在。

 その国王陛下が私に何と言ったのだろう。

 自分の耳が信じられなくて、とても対応できない。

 固まっている私に国王陛下は真剣に語る。


「虎になど産まれたくなかった。私の母は私を産むときに亡くなった。私が獣人の血が濃すぎるからだ。獣人は生殖に長けていない」


 そもそもこの国で獣人と人間が混血するようになった理由は、獣人の出生率が非常に低いことと、生まれてくるときに母体が危険になることが多いからだった。人間と混血すれば獣人の出生率も上がって、母体が危険になることも少なくなる。

 しかし、国王陛下ともなれば血の濃いもの同士の結婚で生まれたわけで、出産のときにお妃様が命を落とされたという話は私も聞いていた。

 苦悩は理解できるのだが、その次に出てきた言葉はとても理解が追い付かなかった。


「私は猫になりたかった」

「はぁ?」


 やっぱり、ちょっと意味が分からない。

 これは本当に国王陛下なのだろうか。

 氷の王と呼ばれる国王陛下の口から出た言葉だったのだろうか。


「猫ならば、私の母は命を落とすことはなかった。私の乳母は私を可愛がってたくさん撫でてくれたが、獣人の特徴がなかったので、早いうちに引き離された。私は乳母に可愛がってもらっている時間が一番幸福だったのに」


 孤高の氷の王は、マザコンでした。

 まさかそういうことを言うわけにもいかないので、ソファで大人しくしていると、こてんと国王陛下が私の膝に頭を乗せてくる。


「撫でてくれぬか?」


 父が猫の獣人で頭や喉を撫でられるのが好きで、母によく撫でられていたのを思い出す。遠い目になりながら私は命じられたとおりにわしゃわしゃと国王陛下の毛並みを撫で始めた。

 もふもふすべすべの毛皮は撫でていると心地よい。


「秘密を打ち明けてしまった……私はもうそなたのことを放せはしない」


 とても深刻ぶって言っているけれど、内容が「撫でて欲しい」と「実は国王陛下はマザコンだった」なので私は遠い目をしているしかなかった。

 それから私は国王陛下付きのメイドに指名された。


 下着は自分で身に着けるがシャツや上着の細かいボタンが国王陛下の獣の手では難しかった。国王陛下付きのメイドとなった私は国王陛下の着替えを手伝った。細かな美しいボタンを留めて、逞しい胸板にドキドキしながらも国王陛下に服を着せて行く。

 こんなに屈強で美しいひとが私の手で整った装いになっていくのが楽しくもあった。


「私は他人に触れられるのが嫌いだった。唯一触れても平気なのは乳母と異母妹だけで、それ以外が触れると嫌悪感が酷かった……それなのに、そなたは平気だ」


 それどころか、もっと触れて欲しい。

 少しでも時間が空くと国王陛下はこの誰も来ない国王陛下のための棟にやってきて、私の膝の上に乗って、撫でることを命じてくる。


「耳の後ろも掻いてくれぬか? 喉も……」


 完全に私に甘え切っている国王陛下のお姿に、私はそっと目を逸らす。

 この方が孤高の存在として国をたったお一人で支えていると言われる氷の王なのかと二度見どころか、三度見、四度見したくなる惨状だ。

 カリカリと耳の後ろを掻くと幸せそうに目を細めて喉を鳴らしている。国王陛下は白い虎のはずだ。猫ではなかったはずだが。


「堪らない……そなたの手は心地よい」


 喜んでいただけているにならば光栄に思わなければいけないのかもしれないが、普段のクールな国王陛下が私の膝枕で甘えていることにどうしても頭がついていかない。

 手を伸ばして国王陛下が私の髪に触れる。艶のある長い黒髪は私の唯一美しさを誇れる場所ではあったが、獣人ではないという劣等感も同時に生んでいた。


「そなたの髪は美しい。とても手触りがいい」


 恍惚として私の髪を褒める国王陛下の喉を撫でる。ごろごろと喉を鳴らして国王陛下が喜んでいるのが分かる。


「喉はもっと強く……あぁ、アネシュカ、そなたなしではもう私は生きられぬ」


 アネシュカ。

 誰も呼ぶことのなかった私の名前を呼ばれて心臓が跳ねた気がした。

 生まれた家で獣の特徴がなかった私の居場所はなかった。両親も貴族として最低限度の教育は私に施したが、それ以外には興味がなく、私は名前を呼ばれることなどほとんどなかった。

 王宮に来てからはメイドとは空気のような存在で、いないものとして扱われるので私の名前は呼ばれるはずもない。



 国王陛下付きのメイドとなってから、初めに国王陛下に名前を聞かれたときにはとても驚いた。


「そなたのことは二人きりのときは名前で呼びたい。私のことも、ヘルベルトと名前で呼んで欲しい」


 国王陛下のお名前を呼ぶなどということが許されていいものなのか。

 戸惑う私は国王陛下のお名前を一度も呼んだことがない。国王陛下は約束通りに二人きりになると私の名前を呼んでくれた。


「アネシュカ、そなたを妹のユリエに会わせたい」


 国王陛下から申し出があった時点で私は嫌な予感がひしひしとしていた。私は全く獣の特徴を持たないただの人間の姿で、国王陛下と釣り合う相手ではない。妾にするならばともかく、異母妹に会わせるということは、もしかするとと考えてしまっても仕方がない状況だろう。


「国王陛下、わたくしはただのメイドです。使用人なのですよ」

「そなた以外私は求めておらぬ! そなたに一生撫でられて過ごしたいのだ」


 結婚してくれ!

 その言葉よりも前に告げられた「一生撫でられて過ごしたい」のインパクトが強すぎて、私は返事が出来ず、国王陛下はそれを返事と思ったようだった。


「アネシュカ、幸せにする」

「ふぁー!?」


 もう叫び声しか出て来ない。

 なんでこんなことになってしまったのか。

 正式に私と結婚するために動き出した国王陛下の前に立ち塞がったのは、異母妹のユリエ殿下だった。


「お兄様、我が身を正しく顧みてください! お兄様は虎です! 猛虎です! 子猫などではありません!」

「私は本気だ。アネシュカでなければ私を受け止めることはできぬ」

「どうせ、乳母に似ているからとかそういう理由なのでしょう?」


 白い虎の耳と尻尾の生えたユリエ殿下は、国王陛下と母君を違えている。国王陛下を産んで亡くなられた母君の後に、前国王陛下は後妻を迎えられたのだ。そうして生まれたのが異母妹のユリエ殿下で、ユリエ殿下は獣の特徴がやや薄いために母体も無事で母君は生存していらっしゃる。


「アネシュカ様がお気の毒です。結婚にはわたくしは反対致します」


 ユリエ殿下は国王陛下の真実を知っているようだった。その上で私の味方に付いてくれている。

 私は国王陛下から望まれていることが嬉しいのか、国王陛下の「撫でられたい」という特殊な望みを受け入れるのが無理なのか、よく分からない。


「お兄様は強引だから。身分というものを考えてくださいませ。アネシュカ様が断れるわけがないでしょう?」


 その通りだ。

 恐らくは私の実家では大喜びで輿入れの準備をしているだろう。私には帰る場所はないし、助けてくれるひともいない。

 けれど、その境遇は国王陛下もずっと同じだったのではないだろうか。

 国王陛下は他人に触れられるのが苦手で、乳母さんとユリエ殿下にしか触れられることを好まず、世話をされるときでも嫌悪感しかなかった。そういう体質が国王陛下の孤独を深め、氷の王として周囲を寄せ付けない環境を作ってしまったのかもしれない。

 私が見捨ててしまえば、国王陛下はどうなるのか。

 私以外の誰かが国王陛下の美しい体に触れて着替えを手伝う。

 そんなことに私は耐えられるのだろうか。


「わたくしは……」

「アネシュカ?」


 私はこのひとを放っておくことができない。

 これが愛ではなくても、今は恋ではなくても、いつかはお互いに支え合える恋人に、夫婦になれるかもしれない。


「ヘルベルト様、わたくし、結婚をお受けします」


 私の答えに白い虎のヘルベルト国王陛下の顔が微笑んだような気がした。

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