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僕らは痛みと共にある  作者: 藍ねず
モーラ・シュス・ドライ編
28/194

孤島

宵闇の島へ。


―――――

2020/01/29 改稿


 

「うわ、本当に暗いねー」


「ですね」


  潮の香りがしない海上で暗い周囲を見渡してしまう。


 空は厚い雲に覆われ、光りというものがまるで射さない。


 タガトフルムでも北の方の国では太陽が昇らない時期があるそうだが、ここは年中無休で夜らしい。気が狂いそう。


 もう私達がいた陸は遠くなってしまい、どれだけ飛んだかもよく分かっていない。ひぃちゃん、らず君、ありがとう。


 ――その孤島では、そこでだけは、絶対に死んじゃ駄目だよ


 ふと記憶が再生されてアミーさんの声が響く。彼はいつになく、心配そうだった。


 大丈夫です、アミーさん、死にませんよ。


 私は両手で細流さんの片手を掴んだ状態で浮遊し、眼下にある、そこまで大きいとは言えない島を観察した。


 ――モーラ・シュス・ドライ


 島全体がシュスで、二回の建て直しを経て今の姿になった場所。


 最初は陸と繋がる大きな橋があったけれど、それが壊れ、次に雲の上の光を集める為に建てていた塔が壊れた結果、今の仄暗いシュスに落ち着いたのだとアミーさんは教えてくれた。


 シュスは本当に夜のまま、街灯の明かり以外、光りというものが無かった。


 浅紫色のシュスの暗がりの中、浅黒く干からびた肌に赤いドレスを纏った少女達が目に映る。


 流れるように移動する彼女達はまだこちらには気づいていないようで、私の首筋を嫌な汗が伝った。


 昼が来ないここは、宵闇の島。


 そこの住人のモーラさん達。


「あれがモーラね」


「みたい、だな」


 下から聞こえてきた楠さんと細流さんの声に頷き、ひぃちゃんを揺らす風に気づく。


 その風は海上のものなのか、別なのか。


 私は嫌な不安に襲われて、横にいる結目さんを見上げた。


 彼は笑いながら私を見ている。


 風が強まり、肩にしがみついていりず君が震えていた。


「こっがらっしちゃーん」


 結目さんの立てられた右の人差し指を風が覆う。私は目を見開いて、口角だけは上げていた。


 嫌な予感しかしない。


 ヘンキーさんのシュスで先陣切って踊りに強制参加させられたことや、ショックさんの前にりず君が風で放り込まれた光景が思い出される。


 これは、この人は、絶対そういうことをする人だ。


「ッ、らず!!」


 ひぃちゃんの切羽詰まった声が聞こえ、体が一瞬下がる。同時に私の両腕が感じる負荷が大きくなった。


 らず君の力が無くなったと分かったのは直ぐだ。


 じりじりと、焦れるような速度でひぃちゃんが下降し始める。


 私は宙に視線を走らせて、風に巻かれたらず君を捉えた。


 震えて涙するらず君。


 私の喉が引き攣り、結目さんは陽気な声で笑っていた。


「俺さ、やっぱりまず行くべきは城だと思うんだー。けど、シュスの中にあんなにうじゃうじゃモーラいたら邪魔だからさー」


「ぁの、それ、さっき話してたことと違う……」


 頬を冷や汗が流れていく。私の口角は引き攣って笑い、意見は結目さんの言葉に掻き消された。


「囮、よろしくねー」


 瞬間、らず君の風が消える。


 私の体からは体温が一気に失せて、左手を細流さんから離してしまった。


「ひさ、」


「りず君ひぃちゃんパスッ!!」


 細流さんの声を遮って叫ぶ。


 同時にりず君は帯状に伸びて細流さんと楠さんに巻き付き、ひぃちゃんがりず君を掴んでくた。


 私はひぃちゃんがりず君を掴む前に離してもらい――落下する。


 私一人がいなくなるだけでもお姉さんの負担は減るものだ。


 大丈夫、そのままでいて。私は大丈夫。


 そう念じて、ひぃちゃんは何とかなると確信出来た。後は泣きながら落ちるらず君だ。


 彼を抱き締めて、この位置的に落ちる木のクッションに身をゆだねるか、りず君のまだ見ぬ底力を信じるしかない。


 安定しないまま落ちる体をどうにか整えて、右手をらず君へと伸ばした。


 暗い中で唯一彼だけが輝いているように見えるだなんて、嫌な感覚だ。


 私は奥歯を噛み締めて、口角を引き上げた。


 らず君が割れないならばそれでいいから。あの子が無事ならばそれが一番だから。私は怪我をしても大丈夫だから。あの泣き虫君を抱き締めてあげたい。抱き締めてあげなくてはいけない。


 想って、息を止めて、私の目一杯伸ばした右手はらず君を捕まえた。


 泣いていたらず君と視線が交わる。潤んだ瞳は私を見つめて、幸せそうに細めてくれた。


 あぁ、良かった、掴めた。


 私は安心して、震えるらず君を胸に抱いた。


 木が迫る。


 風が一瞬私を掴んだ気がして、それに気づく前に私は、お腹の底から声を張り上げた。


「りず君!!」


「無茶言うんじゃねぇぞやったるわぁ!!」


 叫び、りず君の帯の一部が伸びて私の足首に巻きついてくれる。


 落下が止まる。


 体全体、特に足に衝撃が走った為に呻き声を漏らしてしまったが。


 それを気にしないように心掛け、私の体は木の枝すれすれの位置でゆっくり揺れる。冷や汗が頬を伝って落ちていくのが見えた。


 流石にため息が零れて、頭が痛い。


 今更ながら物凄い早さで脈打つ心臓に気づき、耳の奥から聞こえる心音のうるささに嫌気がさした。


 落ち着け、無事だから、凩氷雨、息を吐け。


 自分を叱咤しながら深呼吸していた時、体が揺れて、私の頬を木の枝が掠めた。


 りず君の叫び声が聞こえる。


「あぁぁ無理だ氷雨!! ひぃも俺も許容範囲超えたッ!!」


「うるさい、ですよッ、りず!!」


 私は慌てて視線をりず君とひぃちゃんに向けた。


 限界まで伸ばされたりず君の一部は細く、今にも千切れそうだ。ひぃちゃんも頑張って羽ばたいてくれているが、徐々に高度は下がってる。


 私の顔に熱が集中した。


 頭が下にあるのだから当たり前か。そういう問題じゃねぇよ。


「ッ、りず君ありがとう離していい!!」


「やめて凩さん! りず、ひぃ! 私と脳筋を下ろしなさい!」


 楠さんに呼ばれ、彼女の怒号とも取れる台詞を耳に入れる。


 私は彼女の顔を見ることは出来ず、体がまた落下した。


 りず君の紐が戻っていく。


 ありがとう、私の言葉を優先してくれて。


 私は輝くらず君から補助を貰い、硝子の針鼠君を抱きしめた。


 大きな木の枝を折って、擦って、落ちていく。反射的に伸ばした右手は太い枝に指先が触れただけで掴むことはしなかった。


 何の為の手だよ役立たずッ


 私の中の感情が切れて、腕を目一杯伸ばす。


 手が駄目なら腕全体で、木の枝を掴めばいいんだろうが。


 私は、何とか捉えた木の枝に腕を回して落下を止める。


 肩は痛かったし腕は痛いし、木の葉は舞うし色々痛いし、散々だ。


 揺れる体はもう少しで地面に激突していたようで、足の先に地表があった。私は現状に安堵して、自然とお腹の底からため息を吐いてしまう。


 腕の中のらず君も震えながら息を吐いて、その時に何かが耐えかねて割れる音を聞いた。


 あ、木の枝、


「うわッ!!」


 思う前に木の枝が折れて地面に足がつく。震えていた足は着地に失敗し、結局尻餅をついてしまった。


 骨盤まで痛い。あぁ、もう疲れた。


 私は光るらず君を両腕で抱き締めて、木の幹に背中を預けた。


「はぁぁぁぁぁぁ……」


 声と一緒に息を吐き、空を見る。


 緋色は何とか確認出来たものの、そこで繰り広げられている会話までは聞き取れない。


 あれは私にしてみれば音だな。最初はモーラさん達にシュスの事とか聞いて回るっていう話をしていたではないですか、結目さん……。もういいや。


 頭に着いた木の葉を払いながら思い、私は肩の力をやっと抜いた。


 駄目だ、緊張解けた。


 体育座りをしてらず君の額を撫でる。彼は嬉しそうに鼻を動かして、涙を零しながら笑っていた。


「良かった、らず君が無事で」


 声をかけても、彼から返事は返ってこない。代わりに小さな体で全力で嬉しいを表現してくれるのだ。


 あぁ、可愛い。


 私は笑って暗いシュスを見渡した。


 そこで気づく。


 モーラさん達がこちらを見ていたことに。


 干からびたように浅黒い体に赤色が映えるな。頭にも赤い花の冠を被っている。素敵だ。口の端から鋭い八重歯が覗いていますね。どうしましょう。


 私の頬は引き攣った笑みを浮かべ、冷や汗が流れた。


「せんし」


「せーんし」


 可愛らしい女の子の声がする。私は幹に支えられながらも立ち上がり、集まりだしているモーラさん達を見つめた。らず君が腕の中で震える。


 今ここを走り去るか。何処に。どうやって。補助された足ならまだ勝機はあるのではなかろうか。私がここにいれば集まってしまう。集まることはいいことか。そうだいいことだ。


 だって私は囮だもの。


 私は自分の考えに弾かれて上を見る。


 一番に見えたのは、結目さんの観察するような笑顔だった。


 楠さんの「下ろしなさい」と言う声もする。細流さんと目が合う。


 私は笑い返して、右腕を中央のお城の方へと振った。


 ひぃちゃんがそれを理解して、力強く翼を羽ばたかせてくれた。


「! ひぃ」


 楠さんの声がする。私はらず君を肩に乗せ、目の前で笑うモーラさん達に顔を向けた。


 落窪おちくぼんだ目が恐ろしく、私の体に鳥肌が立つ。


 あぁ、怖い。


「だから、笑え」


 私は自分に言い聞かせ、ひぃちゃん達が飛んだ方向とは別の方角へ地面を蹴った。


 モーラさん達の頭上を超える特大ジャンプをかます。らず君がこれでもかと輝いてくれて、その光りに釣られるようにモーラさん達は笑っていた。


「小鳥が来たわ、可愛い小鳥」


「あの子は飛べるのね、あぁ、飛べるのね!」


「捕まえて、捕まえて、さぁ捕まえるの!!」


「急いで、急げ、早くしなくちゃいけないわ!!」


 女の子特有の柔らかな声が私の背中に刺さり、奥歯を噛んで笑う。地面を少し滑った後、前へ上体を倒した私はそのまま走り出し、飛んで追いかけてくるモーラさん達を一瞥した。


 彼女達の移動はそこまで早くない。風に揺られる綿毛のような速度で、とても私に追いつけるとは思えないが、それは慢心だ。


 前を向いてシュスを駆け抜ける。


 家の間から出てくるモーラさん達の手をかわすのは一苦労だ。


 闇に紛れている彼女達の気配が感じ取れない。と言うより、気配を察知する能力なんて私は皆無だから。


 笑顔のモーラさん達はこちらを食い入るように見つめていた。


「そうよ、いいこ、さぁおいで」


「駄目よ駄目、林はだぁめ」


「入っちゃ嫌よ、こっちへおいで、小鳥さん」


 そんな優しい声で呼ばれても、私は足を止められないぞ。


 家の壁を蹴って屋根の上へ着地し、ひぃちゃん達を遠ざける。


 結目さんが私を囮と言ったのならば、私はその役目を果たさねばならない。


 考えながら屋根を跳ぶ。


 モーラさん達も飛ぶ高さは変えられるようだ。しかし速度は変わらないから、これならきっと逃げていける。結目さん達から一部だけでもモーラさん達を遠ざけることが出来る。


「わ!! ばか紫翠!!」


「細流さん!!」


 そんな、私のパートナー達の焦った声が遠くで聞こえたのは、私が屋根から屋根へ跳躍している瞬間だった。


 横目に見ると、りず君から抜け出した細流さんが楠さんを抱えて屋根へと着地していた。


 りず君が針鼠に戻って、ひぃちゃんの翼が容易たやすく羽ばたく。


 私は屋根に足をついて、一瞬止まりかけた。


 それでも駄目だ。止まってはいけない。それは自分の今の状況では、リスクが高すぎる。


 ふと気づく。


 私の顔は笑っていたと。


 いつから笑っていたのかは分かっていない。


 ただ楠さん達に向かって笑っていたと、気づいたのだ。


 細流さんに抱えられている楠さんの唇が動く。


 残念ながら私は読唇術どくしんじゅつは習得していない訳で、だから彼女が何と言ったかは分からないのだ。


 細流さんの足に力が込められるのが分かる。私の方に来る。ひぃちゃんとりず君もこちらに来る。戻ってきてくれる。


 結目さんだけは薄く笑って、どうでも良さそうな目をしているのが視界には映っていた。


 そんなことを観察しているから、私の注意は散漫になるんだろう。


 足が着地した場所から滑り、視界が揺らいだ。


 あ、落ち、


 思った瞬間、体を掴まれる衝撃を受け、毎日耳にする羽ばたきに安堵した。腹部に回る緋色の尻尾は力強い。


 私の翼は、ひぃちゃんは、きちんと私を受け止めてくれた。


「ひぃちゃん」


「氷雨さん、あまり無茶をしないでください」


 少しだけ責めるような言い方で、それでも声には心配だという感情を一杯に乗せて、ひぃちゃんは私をたしなめる。


 その言葉に顔は自然と笑ってしまい、私が落ちる筈だった場所で手を広げていたモーラさん達を視認した。鳥肌が立つ。


 りず君は私の肩に飛び乗って、何回も頬を叩かれてしまった。


「たく、帳も帳だけど、氷雨も氷雨だぞ!! 何で囮してんだボケェ!」


「ぁ、ご、ごめんりず君、その、した方が効率的だったと思ったって言うか、結目さんの提案だし、っていうか……ごめん……」


「かー、アホンダラ!!」


 怒るりず君の針が若干私の頬に刺さる。


 地味に痛いです。穴が空いちゃうから、りず君ごめんて。


 両手でりず君を抱いて苦笑する。頬を膨らませて怒るりず君の向こうでは、私が落ちた屋根に細流さんが着地していた。彼の周囲にモーラさん達が集まっていく。


 その光景に心臓が締め上げられたが、強化している細流さんは何のことなく跳躍して避け、誰もいなかった地面に着地して走り出していた。


 私も腕を振って彼の近くへ行く。少しだけ先行するように、飛行速度を緩めないまま。


 細流さんは目が合うと頷いてくれた。


 楠さんを抱えた細流さんと並行しながらモーラさん達から離れる。お城からも離れるようにして、私はシュスの外周りにある林へと入り込んだ。


「行かないで、行かないでよせんし」


「おいでおいで、こっちにおいで」


「行けるかよ」


 モーラさん達の声にりず君が小さく答え、私は芝生に足を着く。飛行速度はそのままに。そうすれば直ぐに転けないように足が走り出した。


 らず君が輝いてくれて、それが暗い林の中で光源となってくれる。細流さんの腕から楠さんも降りて、走り出す姿が見えた。


「来ないみたいね、モーラ達は」


「そう、ですね」


 楠さんに笑って頷けば、彼女の目は何か言いたそうに私を見つめていた。


 あ、怒らせてしまっていますか。空で投げるだなんて信じられませんよね、りず君やひぃちゃんは悪くないんです。私のせいです、ごめんなさい。どこか痛かったですか。無茶苦茶でしたもんね、あぁ、どうしましょう。


 私の心臓は、走っている現状と不安な考え事に比例して早鐘を打ち続けた。


 顔は前を向いて、頬が笑顔を作ってしまう。


「ぁの、楠さん、細流さん、先程は急に離して、その、ごめんなさい。ぁの、危なかったですよね。嫌な思いも、させてしまったと思うんです……本当に、その、考えがなってなくて……ごめんなさい」


 木の根を飛び越えながら謝罪をする。


 謝り方もなってないぞ自分。それでもまだ距離をとる必要があるし、謝るのだって私の勝手なわけだから。立ち止まる訳にはいかない。


「そんなことはどうでもいいの」


 楠さんのハッキリとした言い方が鼓膜を揺らす。反射的に彼女を見た時、私は木の根に引っかかり盛大に転倒した。


 らず君とりず君が叫びながら吹き飛んでいく。


 あぁぁぁごめん!!


 私は暗がりの中で目を凝らし、二人を呼んだ。


「りず君、らず君!」


「大丈夫、無事ですよ」


 そう言って、私の前で羽ばたいてくれたのはひぃちゃんだ。彼女の尾を見ると、捕まえられているらず君と、しがみついているりず君がいた。


 安心して、「ごめんね、ありがとう」と笑ってしまう。


 りず君に「足元見ろよ!」と怒られたが、如何せんこの暗さだ。私の目は光らない。流石のらず君ランプも足元が微かに見えるかな程度だ。


「大丈夫、か?」


「ぁ、はい、すみません」


 差し出された細流さんの手を借りて立ち上がる。肩に戻ってきたらず君とりず君と、背中に止まってくれたひぃちゃんに笑いかけ、私は細流さんを見上げた。らず君は光るのを止めてしまう。


 それでいいよ、ありがとう。


 そんな意を込めてらず君の額を撫で、細流さんに向き直った。


「ありがとうございます」


「あぁ。離した、ことも、別に、気に、しなくて、いい」


 細流さんの表情は伺えないが、大きな手に軽く頭を撫でられて安心する。


 許されたことが嬉しくて、私の肩からは自然と力が抜けた。


 街の方にあった街灯の光りすら林の中には無く、らず君の明かりもなくなった今は本当に暗い。


 まだ慣れ切っていない目では近くにいる細流さんの表情も、楠さんの輪郭すら確認が難しかった。


 久しぶりに夜を感じている気がして、私は肩にいるらず君の額を指先で撫でる。そうしながら周囲の音を聞くけれど、モーラさん達の声は聞こえてこない。


 それに安心していると、楠さんが近づいてこられたようだった。


 彼女の白い手が暗い中で見える。近づいてくる。額の方。


 分かった時、私の額に弾かれた衝撃が走った。


「いッ」


「貴方はどうしてそうなのかしら?」


 反射的に額を押さえるけれど、その手の上からまた弾かれ、私は目を瞑る。


 楠さんはより近づいて私の腕を掴んできた。


 目が合う。


 彼女の聡明な、澄んだ瞳と。


 息が少しだけ、止まった。


「私や脳筋のことなんて放っておきなさいよ。どうして優先したの。貴方の体にも心獣にも負担はかかるし、一緒に落ちたって私達は構わなかったわ」


 掴まれた腕が微かに痛みを覚える。


 楠さんが、歯を食いしばる音がした。


「あぁ、本当に、貴方は貴方を、何故大事にしないのッ、貴方の行動は善行であると同時に、酷い自己犠牲だと気づきなさい!」


 楠さんの声が私の鼓膜を揺らす。


 揺らぐことなく私を見つめる瞳は美しく、私の足が微かにふらついた。


 彼女の、こんなにも感情を乗せた言葉を初めて聞いた。初めてぶつけられた。


 胸が締め付けられ、目を何度も瞬かせてしまう。


 楠さんの目は私を一心に見つめて訴えており、私は彼女の感情を探した。


 怒られたのだとは、直ぐに気づけなかったから。


 叱られたのだと、心配されたのだと、直ぐに分からなかったから。


 分かった時には目を見開いてしまって、口も微かに開いたままになってしまう。自然と張り付いていた笑顔も剥ぎ落とされた。


 楠さんは私の腕を離して、また額を押さえる手の甲を弾いてくる。


 その痛みは放心していた私を連れ戻してくれた。


「今度私や脳筋を優先してご覧なさい、貴方の意識を抜き取ってやるから」


 そう言って、目を塞がれる。


 彼女の温かな体温が伝わってきて、自然と口角が上がるのが分かった。


 頭上から「何笑ってんのよ」と低く言われたが、笑ってしまったのは仕方が無い。


 だって――嬉しいのだから。


 離された手の向こうで、眉根を美しく寄せた楠さんが何とか見えた。


 貴方は、不機嫌だと言う感情だけはよく顔に出す人だって知っています。


 私はニヤけた顔で、腕に降りてきてくれたらず君とりず君を抱き締めた。


「ごめんなさい、ぁの、嬉しくて……」


「はぁ?」


 いぶかしんだ声がする。私は肩を竦めて笑い続けた。


 この溢れて止まない感情が、どうか彼女に伝わればいいのに。そんな言葉を私は持っていないのだけれど。


 だから私は、つたない言葉しか出せないのだ。


「自分を大事にしなさいなんて、初めて言われたんです。だからそれが、どうしようもなく嬉しくて……あ、ぃや、ぁの、勿論、申し訳なくもあるんです。楠さんにも細流さんにもご迷惑をおかけしてしまって、ぁの……すみません」


 怒られたことは今まで少なかった。


 母は私に申し訳なさそうに感謝する。


 父は酷く無口だけれど、よく頭を撫でてくれる。


 学校の子達は私を怒ることがない。怒ってくれる子はいない。


 先生も生徒も、全て「私らしい」で片付ける。私も何も言わずに笑う。


 兄はそんな私をけなす。怒るのではなくけなす。私には何も出来ないと、笑っていることに意味などないと、父も母も私を見ないし、私が頑張ったところで誰も報われないと。


 結目さんの怒るは私を思っての怒るではないし、りず君の場合は私を注意するものだ。


 怒っている人に「ありがとう」だなんて、見当違いだって分かってる。申し訳ないし、不快にさせたのだから謝るべきだと心配性の私は叫んでる。


 それでも、それ以上に。私は、少しだけ悲しいが混ざった嬉しいが溢れて、仕方が無い。


 私の額がまた弾かれる。


 痛くて顔を上げると、無表情に戻ってしまった楠さんがそこにいた。


「……馬鹿な子ね」


 同い年の筈だけど、何処までも大人びた彼女はため息を吐く。


 細流さんにはまた頭を撫でられて、私は笑ってしまった。


 ごめんなさいと言いかけて、それより先に楠さんに「次謝っても、意識を抜くからね」と釘を刺された。ので、言葉を飲み込んで、笑って、口を結んでおいた。


「誰か、いないか!!」


 そんな、男の子の声を聞くとも思わずに。


 知らない声は、暗い森の中に木霊こだました。


次はどんな悪がいるのかな。


話を盛り上げるって難しい。


結目帳君は悪い子ではないんです。ただただ、子どもなだけなのです。

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