贋者
嘘つきだって知られなければ、嘘つきにならないだろ。
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2020/03/26 改稿
凩氷雨の一番近くで、一番長く見てきたのは凩時雨である。
それは彼自身がよく理解していた。
氷雨は幼少期、母と繋ぎたくて伸ばした手を弾かれたことがある。二人を見ていた時雨はその日、その瞬間から氷雨が笑うようになったと知ったのだ。
元より大人しく怖がりで、時雨や両親の後を追いかけてくるような性格だった氷雨。そんな彼女は年相応に嫌いなものを見て泣く精神も有していたが、手を弾かれた時は泣かなかった。泣かずに笑ったのだ。
時雨は直感で思った。それはいけないと。泣きたい時に笑うのはいけないことなのだと。
だから、人を見れば笑うようになった氷雨に言い続けた。
「笑うな氷雨、お前が笑っても意味はねぇ」
頼まれたことを断らない性格となってしまった妹に、笑うなと言い続けた。
「笑ったって何にもならねぇだろ、お前には何も出来ねぇんだよ、だから止めちまえ」
時雨は知らなかった。笑顔が妹にとって最大にして最後の盾なのだと。
許せなかったのだ。笑って文句も我儘も言わず、成績表に必ず優等生と書かれる氷雨が。妹の笑顔だけを見る周囲が。
「それでお前は救われたか? 救われねぇだろ、何も返されねぇだろ」
凩時雨は、言葉が足りない男だった。
たった一言。想っていることを言葉にすれば、それだけで氷雨は救われたのに。
厳しい物言いは彼もまた――愛と温かさを求める子どもだったからだ。
今までの人生の中で時雨が氷雨を嫌いだったことなど、一度もありはしなかったと言うのに。
――頼むから、笑うな……氷雨
* * *
「おめでとう、君はルアス軍の戦士に選ばれた」
ある日の夕暮れ。
時雨の前に現れた白いタキシードの男。
大学帰りの時雨は、一人暮らしをする部屋の鍵を開けるのを中断した。
タイミングよく誰も通らないアパートの廊下。
男は目立つ白銀の短髪と黄金色の双眼を細めており、背は時雨よりも低かった。
時雨は告げられた。ルアス軍の戦士に選ばれたこと、統治権の競争のこと、生贄を救い出して祭壇を全て破壊しなければ自分が死ぬことを。
元より人と比べて理解が早かった時雨は競争を避けられないと把握した。だから一つ返事で頷き、時が来れば祭壇を壊して生贄を救った。
与えられた体感系能力「静電気」は使い勝手も調整も難しい代物であったが、破壊に関して特化しているだけ増しだと彼は思っていた。
「はじめまして、時沼相良って言います。足でまといにならないよう頑張ります」
成り行きで行動を共にし始めたのは時沼相良という少年。
時雨が自己紹介をした時、相良は驚いた顔をした。そのた為確認すれば、妹に絆創膏を貰ったと言うではないか。
無表情の兄は妹に深く近づかないよう釘を刺した。既に絆創膏を返して時々話す関係であると聞いた時は、取り敢えず拳骨をいれたものだ。
「屍出雲でっす! こっちは心獣の白玉! よっろしくねー!!」
次に出会ったのは屍出雲。白銀の狼に乗った彼女は溌剌としており、率先して祭壇を壊す破壊狂だった。彼女の壊し方は荒々しかったが、時雨は勝つことが出来ればそれで良かった。
――三人で祭壇を着実に壊し、生贄を救い、幾程の時間が経ったか。
ひと月は経っただろうが、まだ決着は見えない頃。
顔面蒼白の相良が時雨に縋ったことが本当の始まりだった。
「凩が、凩が……!」
「氷雨がどうした、時沼」
「えー、誰々!?」
「うるせぇ黙ってろ屍」
「凩が鍵、持ってたんですッ!」
鈍器で頭を殴打された。
時雨は本気でそう思った。
相良は今にも泣きだしそうで、出雲の顔からも笑みが消えた。
自分の鍵を出した相良は、目に涙の膜を張ったのだ。
「俺達の鍵と、形、違ったんですッ、あれ、ディアス軍のだ、俺達のじゃない、俺達と違う!」
相良は泣いていた。
殺してしまうと。自分達がこのまま勝っていってしまえば、氷雨を殺してしまうのだと。この勝負を終わらせてはいけないと。
時雨はそんな声をどこか遠くに聞きながら、少年の頭に手を乗せたのだ。
(考えろ、考えろ、考えろ、こんな時こそ頭を使え。どうすれば、どうすれば氷雨を救える。この競争を誰も死なずに。いや無理だそれは無理だ、だが氷雨は死なせない。何があっても、何を犠牲にしても救ってみせる。殺させない、死なせない)
「氷雨を――救ってみせる」
その日を境に、時雨達は祭壇を壊さなくなった。
「はじめまして、闇雲鳴介です……よろしくお願いします」
最後に出会ったのは祈の兄、闇雲鳴介だった。彼は常に薄幸の笑みを浮かべている印象で、時雨は出会った時に言った。自分達は勝つ気がないのだと。
それを聞いて鳴介は仲間になった。
彼も勝つ気はなかったのだ。
いつも苦しそうに机に向かい、指を噛み、一人になろうとする弟の部屋に鍵があるのを見てしまったから。
「俺、弟を救いたいんです」
「俺は妹を救う」
それは、兄として生まれた二人の誓いだった。
絶対不変の揺るがぬ決意。自分達がどうなろうとも構わない。構わないから、どうか大切な二人を救わせてくれ。
「俺も行きます」
それは、やっと出来た友人への手向けでありたいと言う願いだった。
どうか生きていて欲しいと。君は、君だけは死なないで欲しいという切願だった。
「良いね良いね!! 私も賛成! どこへなりとも行ってやろう!」
それは誰にも理解されない衝動を抱えた少女の、初めての光りだった。
得意なことは綺麗なものを壊すこと。趣味も壊すこと。そんな自分が初めて誰かの役に立って死ねるという希望の光り。
「答えろベルキエル。戦士は生贄としてカウントされるか」
時雨は自分の担当兵に確認した。
それは今までの戦士の、誰も聞かなかった質問。誰も考えつかなかった問い。
生贄はアルフヘイムにいるものに限定される。夜来無月もそうであった。彼は既にアルフヘイムの住人としてカウントされていたのだから問題は無い。
では、アルフヘイムに毎日来ている戦士はどうなのか。
時雨の担当兵は嘘をつかなかった。
「カウントされるよ。今まで誰もしたことはなかったが」
「そうか」
その答えだけで時雨は十分だった。
「これって心中になるかな?」
出雲は茶化すような口調で問う。彼女は本当に楽しいのだ。誰かの為に死ねることが。
「そんなお綺麗なものにはならねぇよ」
時雨は答え、相良に氷雨を探すよう別行動を取らせた。
彼らが考えたのは、自分達四人と適当に選んだ住人の計六人で生贄になる道だ。
それこそ確実。
自分達で祭壇を完成させるのだから、それでディアス軍の勝利が決まる。
氷雨と祈は生きられる。
けれどもそれには障害があった。自分達が死んだ後だ。
聞けば、死んだ戦士は誰からも忘れられると言うではないか。
それはいけないと時雨は直ぐに考えた。
もし氷雨達の知らない場所で決着が着いたと思わせても、時雨と鳴介が消えて忘れられると兄達が戦士であったことが伝わってしまう。氷雨に関しては、友人たる相良も戦士なのだと気づいてしまう。
兄達は分かっていた。そうしてしまえば、弟と妹に消えない後悔を与えてしまうと。
別段仲が良いという訳では無い。そうではないが、氷雨も祈も優しいのだ。
優しいからこそ、自分達が勝ったことで兄が知らぬ間に死んだとすれば後悔するに決まっている。
だから敢えて知らせると彼らは決めた。知らしめるのだと決めた。自分達は敵であると。敵だから殺さなければいけないのだと。
鍵を奪うという考えは、氷雨と祈の罪悪感を少しでも薄くしたいと願った結果だ。
弟達が作り続けてきた祭壇を全て壊し、生贄を剥がし、新たな祭壇を作れないようにする。
そうすればディアス軍の勝利は、祈達の知らない所で誰かがやってのけたと言うことになるから。
氷雨や祈のせいではない。どこかの誰かが六人集めて勝ったのだ。
そう思えるようにしなければ、そう思わせなければ、優しい祈と氷雨はきっと悔いる。だから、お前達では勝てなかったのだと知らしめなければいけないのだ。
そして、それ以上にして最重要事項。
それは祈には鳴介を、氷雨には時雨を――死んでもいいと思わせるほど嫌わせること。
ディアス軍とルアス軍。どんな結果でディアス軍が勝っても、微かな情があるだけで二人に苦しみを与えてしまうかもしれない。
(それは駄目だ。なんとしても、それだけは駄目だ)
時雨が初めてアルフヘイムで氷雨と出会った時、妹は泣いていた。壊れた心獣達を抱えて、母に褒めてもらった髪を短くして。怪我をして、目を腫らして、泣いていた。
(あぁ、なんでだ氷雨。誰がお前を傷つけた)
そんなことは言えなかった。優しくしてはいけなかった。だから兄は突き放した。
奥歯を噛み締めて、眉間に皺を寄せて。憤怒を飲み込み、拳を何処にもぶつけることなく。
時雨は揺るがなかった。話し合いの場を設けて、氷雨達を傷つけなければいけないと考えついてから。
氷雨と祈以外はどうなろうとも良かった。怪我を負っていいし、別に死んでも構わない。時雨にとって、氷雨が生きてさえくれればそれでいいのだ。
だから、傷つけた。
――お前ら、現在の生贄数最多の祭壇のチームだろ。四体の生贄を集めたんだってんな
(頑張ったよ、本当。でも言わない)
――その祭壇は壊した
(お前が罪を背負うことはないから)
――相変わらずお前は脆弱だな、氷雨
(いいや違う。お前は優しすぎるんだ。氷雨は弱くない。弱かったら、生贄なんて集めてない)
――全部の祭壇を壊してディアス軍を殺す覚悟が、兄さんにはあるの?
――ある。俺は自分が納得して生きられたら良いからな。ディアス軍なんてどうなろうと知らねぇよ
それは嘘だった。ディアス軍を殺す覚悟は氷雨が戦士であると知るまでのもの。
そんな覚悟はもう持っていない。
時雨は自分が生きることなど望んでいない。
鍵の力は本当。鍵の再発行が不可能なのも本当。それでも、その後の言葉には沢山の嘘を混ぜ込んだ。
それは時雨だけではない。出雲も、相良も、鳴介も。みんながみんな嘘をついた。
――誰もが悪だと言っていても、生贄にされた人にだって命があるんだ。それは俺達が測っちゃいけない。君達のそれは自己満足だ
鳴介の中でせめぎ合った本音と、自分自身に返ってくる言葉。
自己満足。
それは鳴介達にこそ言えたから。祈も氷雨も救ってほしいなどと言っていない。勝手に望んで、勝手に死のうとして、勝手に予防戦と称して傷つけて。
鳴介の肩は揺れた。心も揺れた。
――ッ、じゃあ、兄貴も俺達に死ねって言えよ
祈達の努力を知っていた。苦しみを知っていた。それから逃がしてやりたかった。だから鳴介は揺れた心を持ち直したのだ。
――それで生き残った先に幸せなんてないよ、祈
(だからどうか、生贄なんて集めないで。誰かを殺して生きないで。大丈夫、君達は悪くない。俺達がなるから、俺達が)
円卓の下で握り締められた鳴介の手に時雨は気づいていた。気づきながらも冷静に徹し、氷雨の言葉を聞いたのだ。
――私はここで出来た友達と、自分自身が大切だから……貴方達の悪であっても構わない
(いいや、違う氷雨)
兄は本音を飲み込んだ。怒れるようになった妹を見つめながら。
(悪は俺達でいい――俺で、いいんだ)
時雨の腕から何度も電気が飛ばされる。傷つけるつもりはなくとも、手を抜いていると気づかれてはいけない。
心の底から嫌いだと思っているのだと思わせる為に。
自分達を敵以外の何者でもないと思わせる為に。
自分達が死んでもいいと願ってほしかった。自分達の死を望んでほしかった。
――……凩、俺、友達らしい友達ってお前が初めてだったんだ……絆創膏、本当にありがとう。嬉しかった。だから俺はさ、これ以上友達に苦しんで欲しくねぇわけだ
本当だった。それでも相良は嘘をついた。
――ごめんな凩、俺、お前に嘘ついた
(死ねばいいなんて思ってない。勝ちたいだなんて思ってない)
彼の心は内側から抉られ、泣いて欲しくなかった少女を泣かせて、彼らの行いは結果的に少女を変えた。
――私はルアス軍にいる兄を殺します
相良が見た氷雨は、強くなっていた。
――時沼さん、邪魔です
その刃に優しさは無く、瞳には殺気が纏われていた。
――私は競走に勝つことを前提にしています。貴方達ルアス軍には負けない。けれども兄が見えない所で消えてしまえば、私は一生その後味の悪さを引きずって、後悔して、嘆くんです。だから、私が私の手で兄を殺します。競走に決着をつける前に、この刃で、この力で。彼を殺して腕に抱いて、消えていく最期を見届ける。そうすれば私は彼を一生忘れない。彼を背負って生きていく
それは時雨が最も望んでいなかったこと。時雨自身が死ぬことは厭わない。それでも氷雨に罪を背負わせたくない。後悔などしてほしくない。嘆いて欲しくない。
それなのに、氷雨が進んだのは茨の道だった。
相良は泣いた。どうしても止めたくて、どうしてもやめてほしくて。
(それ以上進まないでくれ。大丈夫だから、俺達が決着を付けるから。だからやめろ、やめてくれ)
泣きながら氷雨の腕を貫いた相良。
血だらけになった唯一無二の友人を見た彼の心は、体は、引き千切られてしまいそうな痛みに叫んでいた。
(嫌だ凩、嫌だよ。頼む、頼むから、お前はあの日みたいに、あの、春が近い日みたいに……ッ)
少年は願って「大丈夫」を繰り返したのだ。
氷雨は笑わなくなっていた。それが相良には耐えられなかった。
――ありがとうございます
初めて出会った日。手帳を渡した時、そう言って氷雨が笑ったのを相良は忘れていなかった。忘れたことなどなかった。
あの日、あの時、あの瞬間、少年は救われたのだから。
誰でもない凩氷雨に、時沼相良は救われていたのだ。
少女の笑顔を相良は守っていたかった。大切にしたかった。どうか怪我もなく、痛みもない安全な場所で彼女には幸せであってほしかった。
(笑ってて欲しいだけなのに……)
どうして自分の手は少女を傷つけているのか。少女の心を固くしなければいけなかったのか。
(どうか俺を呪ってくれ、恨んでくれ。死んでしまえと言ってくれ)
相良は願ったのに、エントに突き付けられた現実は彼女の命を奪うものだった。
時雨は激昂しながらも冷静さを欠きはしなかった。
血眼になって氷雨の呪いを解く方法を探し、探し、探して、出雲がアルフヘイムで最初に訪れたカラドリオスのシュスに辿り着いた。どんな方法でも良い、氷雨を救う方法を求めて。
―残念だが、告げ鳥の痣はメタトロン様が脅威とした者につける呪い。それを解けるのは呪いを付与されたメタトロン様本人か、片割れのサンダルフォン様だけ……呪いを付与されたご本人と、相反する軍の長が呪いを解くとお考えかな
目を伏せながら答えたカラドリオスは間違っていない。そんなことは鳴介にも、相良にも、出雲にも理解出来た。時雨も勿論それは理解したが、心が追い付くはずもない。
彼はそれでもと食い下がり、先に折れたのはカラドリオスだった。
――たった一つ、一度だけ出来ることがある。呪いの他人への譲渡だ。しかしそれには両者の同意がいる。呪いを与えること、呪いを肩代わりすること。移されればもう誰にも移すことは出来ない、解くことも叶わない
――それでいい
時雨は迷わなかった。迷わず譲渡の方法を教わった。唱える言葉、両者の同意、所要時間。
彼の覚悟は揺るがなかった。その姿勢を見たカラドリオス達も協力するという話となり、緋色のドラゴンを連れたディアス軍の少女を捕まえたのだ。
出会った氷雨は時雨達を認識出来ていないと理解出来た。目がよく見えていない。耳もよく聞こえていない。彼女の刃は揺れており、状況把握が出来ないことが判断力さえも鈍らせていた。
朧げな明かりを頼りにしている氷雨から、兄は光りを奪った。恐怖を増長させれば奪った対象に対する嫌悪も増長されると考えて。
(恐れて恐れて、憎めばいい。憎んで、嫌いになって、死ねばいいと思えばいい)
――嫌いだよ兄さん、貴方が私を嫌いなように。私は貴方が大嫌いだ
――光栄だな
(そんなの嘘だよ。嘘に決まってる。あぁ、でもちゃんと、俺はお前を嫌いなんだって伝わってたな)
――氷雨、俺はお前が嫌いだ。死ねばいいと思う。お前の仲間も、お前自身も
(これも嘘。お前は仲間とか友達とか、大事にしてるもんな。だから、お前の仲間も生きてる方がいいんだろうって思うようになったよ)
時雨は願い続けてきた。自分を妹が嫌ってくれることを。死ねばいいと、恨んでくれることを。
それは全て大切な妹の為に。
(氷雨、氷雨、大事な妹。嫌いだとお前に言い続けた。死ねばいいと大嘘を吐いた。嫌いだとお前に伝えてきた。やっとお前も――俺を嫌いだと言ってくれた)
――嫌いだろ氷雨、俺の事、死ねばいいと思うだろ
(あぁ、やっとここまで来た。ここまで来れた)
時雨の動きを誰も止めなかった。
出雲は両手を広げて時雨を抱き締め、送り出した。
鳴介は祈と氷雨を必ず救うと己と青年に誓った。
相良は生贄を必ず集めると揺るがぬ瞳で自身に刻んだ。
時雨の死を見届けて、弔って、氷雨達の祭壇を探して破壊する。
その後は、鳴介の影に沈めている作成者不明の祭壇に自分達と生贄を祀って競争は終わり。
時雨は氷雨の頬に手を宛がって言葉を紡いだ。
「雀色時目を逸らし、小夜に開きて潜れや呪縛。黒曜の兎が北に走り、紫の炎門は口を開く」
時雨と氷雨のいる地面に黒い円ができ、伸びた一本の線が交わって繋がる。
輝く紫の光りは強く、硬く、二人の間で弾けていた。
「白羽は立てられ、導く青嵐止みて終幕、奈落の門出に透雷が瞬き、悪鬼が手招く道は針」
時雨は妹の痣を押さえつける。
頬を走った痛みは氷雨自身の目を閉じさせることなく、微笑む兄の顔を見たのだ。
「レクディオン・ルムア・リフ」
それは、最後の言葉。
彼は間違えることなく呪文を唱え、氷雨の目を見つめていた。
瞬間。
時雨と氷雨の足元に浮かんでいた黒円が弾け飛び、時雨の掌が熱く弾かれる。
氷雨の体も強く弾かれ、時雨の右腕は反射的に妹を抱き止めていた。
宙を黒の残骸が流れ、時雨だけでなく出雲達の目も見開かれる。
氷雨は頬を押さえて呼吸を必死に整えており、兄は髪を掻き毟りたくなる感覚に襲われていた。
呪いの移動はお互いが了承した上で成立する。
それは相手の呪いを受け取っていいという気持ちは勿論、相手に呪いを移したいと言う気持ちが少しでもあれば成功するのだ。
だが今目の前で、呪いの移動は弾かれた。拒絶されたのだ。条件の不履行により。
「氷雨……お前、なんで、」
時雨の気持ちに嘘偽りはない。妹の為に呪いを受け取る覚悟が彼にはある。
つまり、拒絶の原因は氷雨にあるのだ。
彼女は兄を嫌いだと言ったのに、これでもかと痛めつけられたのに、呪いの移動を望まなかったのだ。
タイミングを時雨は図っていた。どのタイミングで彼女に告げれば良いかを。まだだ、まだだと思案し続け、氷雨の怒りが溢れ返りそうになった瞬間、自分に嫌悪の視線を向けたその時。
時雨は、彼女が生きて自分が死ぬ道を告げた。
それでも氷雨は、凩氷雨は望まなかったのだ。
「なにしたの、兄さん」
氷雨は時雨の腕の中で顔を上げる。
その双眼には確かに怒りの炎が燃えており、少女の華奢な肩ではらずが強く瞬いた。
「何を、しようとしたのッ!」
痛いよ、痛い、みんな痛い。痛くて痛くて、愛おしい。
明日は投稿、お休み日。
明後日投稿、致します。




