旅立ち
遥彼方様主催「紅の秋」企画、参加作品となります。
秋は嫌いだ。
目に見える全て、肌に触れる全てが物悲しい。
公園のベンチに腰掛けて、すっかり紅色に色づいた樹木を見上げながら、僕は手に持っていた口紅を放り投げた。
乾いた音を立てながら、何枚かの紅葉に当たって、再び手元に落ちてくる。
落ち葉となって情けなく落ちていく紅葉を横目に見ながら、口紅を手の中で弄ぶ。
秋は嫌いだ。
紅葉だなんだと人は騒ぐけれど、あれは冬に備えて葉っぱを落とすための、ただの下準備に過ぎない。
つまるところ、枝から爪弾きにされる前の予兆みたいなもので。
別れの挨拶、みたいなもので。
……美しくもなんともない。
口紅を再度、放り投げる。
瞬間、ファンデーションだか化粧水だかの香りが、ふわりと香った。
『ねぇ、どうこの髪型、似合う? 似合うよね? 似合うって言いなさい!』
『お腹すいたお腹すいたおーなかすいたー! 何か作ってよヒロくーん』
『明日から水族館でイベントやってるんだって! 行くしかないねこれは!』
『君の体は……あったかいね』
「っ……」
五感の中でも、嗅覚は記憶を最も共起させやすい。他の刺激とは違い、扁桃体や海馬といった、記憶と感情を制御する場所と、ダイレクトにつながっているからだ。二千十三年にヨーロッパの心理学者が行った、fMRIを使った実験では――
――嘲笑する。
だからなんだ。そんなことを知っているから、なんだっていうんだ。
秋は嫌いだ。
葉が散り、花が散り、うだるような暑さが過ぎ去って、若葉の匂いも花の香りも、汗のにおいも全て消え去った秋は、そこにある匂いをかき消してくれないから。
彼女の匂いを誤魔化してくれないから。
嫌いだ。
一週間前、水瀬青葉が僕の家から出て行った。
三年半にも渡る長い付き合いは、唐突に終わりを迎えた。
思えば予兆はあったように思う。
学部一年で付き合った僕たちは、卒業を機に別の道へと歩み始めた。
彼女は大学を卒業すると文房具メーカーに就職し、僕はそのまま研究室に残った。
学部時代の名残で、ずっと同じ部屋に住んではいたけれど、生活リズムのズレや、価値観のズレは、少しずつ僕たちの間に溝を作っていた。
だけど僕は、三年半の付き合いの上に胡坐をかいて、まぁすぐに元に戻るだろうと。またいつものように仲直りできるだろうと、そんな風に考えて。研究室にこもっては、夜型の生活を続け、彼女と会話する時間を作ることさえしなかった。
『わかれよっか』
別れたい、でもなく、別れない? でもなく、彼女は寂しく笑って、そう言った。
短い、たった六文字のひらがなの中に、僕の言葉が入り込む隙はなかった。
肌寒い風がざらりと過ぎていった。
秋の訪れを感じるこの風を身に受けるたび、僕は顔をしかめる。
夏の暑さを懐かしいと感じさせるこの風は、どうしようもなく僕に似ていた。
紅葉がまた一枚散った。
葉が黄色や紅色に色づくのには準備が必要だ。
日夜の温度差、日長の変化、十分な湿度、枝から離れるための、離層の形成。
ゆっくりゆっくりと夏の頃から時間を掛けて、色づく準備をしている。
離れ行く準備をしている。
別れが決まった次の日には、彼女は荷物をまとめて僕の家から出て行った。
あまりにも手際が良くて、僕は何も言えないまま、引き留めることもできないまま、見送ってしまったけれど。彼女はきっと、もっと、ずっと前から、準備を進めていたのだと思う。
しばらく僕は、二分の一になった部屋の中をぼんやりと眺めていた。彼女の痕跡を探していた。
そして見つけたのが、この口紅だった。
捨てることも、返すこともできず、僕はただ、口紅をこうして放り投げては持て余している。
「女々し……」
思わず笑ってしまう程に、女々しい。
勝手に自分の心境を秋に当てはめて、八つ当たりして、ただ蝉の抜け殻みたいに転がっている。
研究室に足を運ぶ元気もなく、平日の真昼間に、こうして公園のベンチに腰かけている。
枯れた空を背景に、赤と黄色がいっぱいに広がっていた。
秋だった。
読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋……別れの秋。
ほら、僕以外にも秋に自分を重ねてる人がいるんじゃないか。だからそういう言葉ができるんだろ。
そんな生産性のないことを考えながら、ひときわ高く口紅を放り投げる。
「……やべ」
力が入りすぎたのだろうか。口紅はまっすぐ上に飛ばず、放物線を描いて、明後日の方向へと飛んでいった。
慌てて行方を追いかける。
てんてんからからと、下に伸びる階段に沿って、跳ねながら落ちていく。
やがて口紅は一人の女性の足元で動きを止めた。
「す、すみません! それ、僕のです!」
ゆったりとした動作で口紅を拾い上げた女性に、声をかける。
鮮やかな女性だった。
全体的に秋色に整えた服装の中で、パッチワークで作られた彩り豊かなストールが上品に映えていた。
歳は……僕と同じくらいだろうか。
「これが、ですか?」
「はい、そうです。落としちゃって……」
「これが」
そう言って女性は手に持った口紅に目を落とし
「あなたの」
続けて僕に目を向けた。
何か問題があるのだろうかと首をひねりかけて……僕は問題しかないことに気付いた。
「いや! 違うんです! それは僕のじゃなくて……いや、僕のなんですけど、正確には彼……元カノの持ち物で!」
「ぷっ……ふふ……」
慌ててしどろもどろに説明した僕を見て、彼女は楽しそうに笑った。
「ご、ごめんなさい、笑っちゃって。慌ててる様子が面白くて、つい」
「いえ、いいんです。分かってもらえれば」
「はい。女装趣味がないことは、分かりました」
「とっても誤解が解けて良かったです。本当に」
柔らかく微笑みながらも、彼女は口紅を返してくれなかった。
手の中で器用にくるくると回しながら、不思議そうに呟く。
「でも、元カノの口紅を後生大事に取ってあるのも、それはそれで問題があるかも?」
「べ、別に大事になんてしてません。別れたのが先週で、さっき家で見つけたんです」
さっき見つけたのは嘘だけど……。
「あ、あらら、別れたばっかりだったんですね。すみません……」
「あはは、大丈夫ですよ。こればっかりは仕方ありません。ほら、別れの秋ですし」
「別れの、秋?」
「よく言うじゃないですか、秋は別れの季節って。だからまぁ、しょうがないかなって」
僕がそう言うと、彼女は目をぱちくりさせて、左手を白い頬に添えた。
「なるほど……なるほどなるほど」
「というわけで、その口紅、そろそろ返してもら――」
「あの!」
「はい⁈」
なんだどうした、突然どうした。
反射的に身構えた僕に、彼女は言う。
「お名前を教えてください!」
「こ、高坂弘嗣ですけど……」
「では高坂さん!」
「はい」
「それはよくありません!」
「何がですか?」
いよいよもって意味が分からない。
けれどそんな僕にはおかまいなく、彼女は目をきらきらと輝かせて、びしっと右手を挙げた。
「秋は別れの季節ではありません! いえ、そうあってはいけないのです!」
「……?」
「そうか、そうかそうかなるほど! そうだったんですね! きました! これはインスピレーションの泉が氾濫しそうですよ!」
「あのー……?」
「はっ、すみません、私ばっかり盛り上がっちゃって。実は私、東都艶名芸術大学という大学に通ってまして、最近テーマが出されたんですよ」
東都艶名芸術大学といえば、その筋ではかなりの名門だったはずだ。名だたる芸術家を何人も排出していて、日本の芸術の源泉とまで謳われていたような……。
「テーマはですね、「春」「夏」「秋」「冬」を別の単語に置き換えて、作品を作りなさい、だったんです」
「はぁ」
「で、「春夏冬」はすぐに決まったんですけど、私、「秋」だけがどうしても納得いかな……しっくりこなくて……こうして大学を抜け出して、一人考えに耽っていたわけなんです」
そこであなたと出会い、今に至ります。
そう彼女は言ってにこにこと笑った。話の流れは全く見えないけれど、僕はなんとなく、彼女の話を聞き続けたいと思っていた。
「別れの秋、あなたはそう言いました。でも、その時私思ったんです。――別れって、なんですか?」
「別れは……別れでしょう」
離別すること、ひと時一緒にいた者が、再び別の道を歩み始めること。
もう、会わないということ、さよならを言うこと。
万人に聞けば万人がそう返すだろう。
「いえ、そうではなくてですね。「別れ」なんて言葉を使うのは、気持ちが残っているからじゃないかと思うんですよ」
口紅を小さく振って、彼女は言った。
返す言葉に、つまった。
確かにそうだ。
青葉の残した口紅を、未練たらしく手元に残して。
訪れた秋に全てを重ねて、口汚く罵って。
元カノという言葉が、すんなり口をついて出ることもせず。
僕は青葉を、忘れられずにいる。
時に鬱陶しく思うこともあった、暑苦しい彼女の熱を、求めている。
「多くの場合、男女の別れは、「フった側」と「フラれた側」が存在します。それは仕方がありません。自然消滅でもない限り、避けようのないことです」
青葉はフった。
僕はフラれた。
その通りだ。
「そして往々にして、フラれた側の人間は、別れを感じるんです。そういう人が残した後悔や寂寥、懺悔の念が昔から塵積もって、秋は別れの季節、なんて感じる人が多くなってるんですよ、きっと」
「そうかも、知れませんね」
「そんなのよくありません。とんだ風評被害です」
まるで自分が秋そのものであるかのように、彼女は両手を腰に当てて言う。
「だから私は新しく「秋」に一つのイメージを定着させようと思います。それが私の「秋」の作品です」
興味があった。
一体僕のこの気持ちを、彼女はどう言い換えてくれるのだろうか。
僕のやり場のない寂寥感を、拭い去ってくれるのだろうか。
「それは……?」
「ふふ、『旅立ち』です」
「旅、立ち……?」
「はい!」
ぶわっと。
ひときわ強く、風が吹いた。
あたりに積もった沢山の紅葉が、高く高く、舞い上がった。
「別れという単語がよくありません。これは、言った人をその場に縫い付ける、呪いの言葉です。別れた後、人は……二人は、歩き出さなければならないんです。二人ともが、それぞれ別の道に歩き出さなければならないんです。だから――」
「旅立ち」
「そうです」
僕はずっと、捕らわれていた。
明るくて鮮烈で、きらきらと輝いている夏に、僕の心は置き去りにされていた。
だけどきっとそれは、とても後ろ向きで、何も始まることのない、生産性のない心情で。
僕は歩き出さなくてはならない。
この紅燃ゆる秋の日に、旅立たなくてはならない。
そう気づいた。そう気づかせてくれた。他でもない、彼女が。
「……いいんですか? 旅立ちなんて、春にピッタリな単語使っちゃって」
お礼を言うのは、何か違う気がして、僕はそんな茶々を入れた。
「言ったじゃないですか、もう他の季節は決まってるんです」
「教えてもらえますか?」
「いいですよ? まず、春は『矛盾』」
「む、むじゅん?」
「夏は『雑音』」
「ざつ、おん?」
「で、冬は『真実』」
「何一つぴんと来ないんですけど、それ最終的にどうなるんですか?」
「どうって……絵になります」
絵になるんだ……。完成図がまるで思い浮かばないし、なんなら何でその単語に思い至ったのかすら全く分からないわけだけど……面白いなと思った。
「その絵、完成したら見せてもらえませんか?」
「高いですよ?」
「お金取るんですか⁈」
「ふふ、冗談です。もちろんいいですよ、大歓迎です。差し当たって、「夏」だけ半分くらい描けてるんですけど、見に来ますか?」
彼女が指さした先には、大学のキャンパスが小さく見えた。たしかあれが、東都艶名芸術大学だ。
僕は一も二もなく頷いた。
「是非」
「じゃぁ、行きましょうか」
「はい……とその前に」
一つ、大事なことを忘れていた。僕は問う。
「あなたの名前は、なんて言うんですか?」
これから一緒に大学に行くのに、呼び名が分からなくてはやりづらくてしょうがない。至極当然の質問に、しかし彼女はすぐに答えなかった。
「えー、あー、んー……。オフレコって訳には……」
「いや、それは厳しくないですか?」
「ですよねぇ……」
しばし逡巡したのち、彼女はうつむいて、髪の間からちらりと僕を見て呟いた。
「笑わないですか……?」
「人の名前で笑うよう教育は受けてませんよ」
「分かりました……」
すーはーと数度深呼吸をする彼女を見て、僕はごくりと生唾を飲む。
いったいどんなキラキラネームが飛び出してくるんだ……?
いや、例えそれがアニメキャラクターの当て字であろうと、超絶長いフレーズであろうと、笑いはすまい。それが彼女の名前なんだから。
「……じ」
「……はい?」
「も……じ」
「すみません、もう少し大きな声で――」
「だから! 紅葉です! 秋蕩紅葉! 何回も言わせないでください!」
瞬間、僕は理解した。
彼女があんなにも「秋」の単語だけにこだわっていたのは。芸術家肌だからとか、素晴らしい作品作りがしたかったからとか、そういう訳では全くなくて。
『で、「春夏冬」はすぐに決まったんですけど、私、「秋」だけがどうしても納得いかな……しっくりこなくて……こうして大学を抜け出して、一人考えに耽っていたわけなんです』
ただ、納得いかなかったからなんだ。
秋という季節が持つ、負のイメージをどうにかして払しょくしたかったからなんだ。
自分の名前の中に、こんなにも秋が含まれているから。
ただそれだけ。ただ、それだけの、とてもとても可愛らしい理由。
「……くっ……はは……あはははははは!」
「あ、あぁあああああああ! 笑った! 笑った! 笑いましたね! 契約違反です人権侵害です治外法権です! 絶対笑わないって言ったのに! 言ったのにぃいいいいいい!」
「あははは、あはははは! すみません! でもこれは無理ですよ! あは、あはははは!」
「最低です最低です! あなたの言うことなんて、もう絶対信じませんから! この鬼畜! ド変態! あ、あんぽんたん!」
それからしばらくは彼女をなだめて、落ち着かせて、そして僕たちは大学へ向けて歩き始めた。
口紅を返してもらってないことに気付いたのは、それからずっと、ずっと先のことだった。